3 仏教を教える 

「解脱の宝飾」についてのセミナーから「仕事、セックス、お金」へ 

 

 チョギャム・トゥルンパの米国での最初のセミナーは一週間つづいた。それはもっとも偉大なる大師のひとりガムポパによって著された『解脱の宝飾』と題された経典の解説だった。この経典は古典とされるもののひとつで、仏道の初歩者を導くために大師たちによって用いられてきた。このような経典は、チベット語で精神的道程の異なる全階梯を表わす経典のグループを意味する「ラムリン(道次第)」という言葉で呼ばれる。

 チョギャム・トゥルンパは一日に二度、ときには3時間に及ぶ講話をした。泉から湧き出る水のように、彼の口から教えが流れ出た。衝撃的だったのは、数週間後に彼が採用した教え方が、それまでとはまったく異なっていたことだ。このわずかなあいだに、たくさんの教えを実践する方法を支持するようになり、固定した実践法にはこだわらなくなっていた。

 チベットでは、経典を掲げ、その一行一行を解説していくというスタイルが一般的だった。一般的には、ガムポパの『解脱の宝飾』やパトゥル・リンポチェの『大いなる完成』、ツォンカパが集めたラムリン群のひとつなどが、基本的著作として使われた。苦悩の存在(ブッダの四諦、すなわち4つの高貴な真理のひとつ)や、慈しみの心を発展させる必要などの原則的な教えが、理解可能なすべてのレベルの者に示された。このように状況に応じて適切な教えが与えられたのである。

 しかしすぐにチョギャム・トゥルンパはより自由に教えるようになる。数か月後ボストンで、彼は「仕事、セックス、お金」と題したプログラムをはじめた。ガンポパに関した初期のセミナーと比べるとそれは重大な変化だった。彼はもはや表立って仏教の教義を扱うことはなく、そのかわりに当時のもっともヒートアップした話題を直接取り上げようと試みたのである。

 彼の関心事は、ブッダの教えが特別な時の特殊な人に向けられたのではなく、どこにでもいる私たちすべてに向けられていることをいかに示せるかということだった。彼は自分の声が自由闊達な、特徴的な調子をもっていることに気づいた。その声によって自分自身の体験を人々と共有したいと彼は考えた。知っている知識を繰り返し述べるのではなく、彼自身のありのままの状態でダイレクトにコミュニケーションを取りたかったのである。

 彼は聴衆に自分の考えを述べ、人々の質問にダイレクトに答える能力に信じられないほどの能力があることを示した。そのようにして、純粋な「出会い」が生まれるのだ。彼の教えは極端なほどパワフルに、あらゆる人の体験を呼び出した。チョギャム・トゥルンパの教えはあまりに明確かつ正確だったので、生徒たちのなかでその魅力に心を射止められない者はなかった。

 その教え方をだれもまねできないのだが、彼が残した影響の大きさから言っても、彼は西欧における仏教の教え方に革命をもたらしたといえるだろう。

そもそも彼の師のひとり、ケンポ・ガンシャルは自発的な詩と弁論の作り方を彼に教えている。この修練過程があることによって、彼が受けた教育のより学問的な面が相殺されているのだ。

 チョギャム・トゥルンパはまた、東南アジアの仏教であるテーラワーダのセミナーに相当の興味を持っていた。僧侶たちは施してもらった食べ物のおかえしにさまざまなテーマについての教えを述べていた。チョギャム・トゥルンパはまた、彼の霊的友人である禅瞑想導師シュンリュー・スズキ(鈴木俊隆)の自由で自発的なセミナーのやりかたに衝撃を受けていた。

 そして1963年から1966年まで在籍しただオックスフォードで、彼はチベットのそれとはまったく異なる教え方があることを学んだ。

 これらのどれが、チョギャム・トゥルナが採用した個人的なスタイルを形成するにおいてもっとも重要な要素であったか、なかなか言い難い。彼の簡潔だが、生徒たちと身近に接する方法は、ティーチングの内容以上に斬新だった。人々は彼がそそいでくれた愛情のあたたかさを感じていた。人生においてはじめて、愛されることが何を意味するか理解できたのである。

 チョギャム・トゥルンパは見返りを求めることなく、ひどく落ち込んでいる人を認め、あたたかく受け入れる愛をあきらかにした。純粋な出会いをはばむすべての障害物を打ち砕くために、この愛の力は大きかった。彼はこの障害物を「精神的物質主義」と名付け、認識した。この概念はのちに彼の教えの代名詞のように考えられたため、しばしば同一視されるようになった。われわれはこの流れのなかで「精神的物質主義」を捉えなおす必要があるだろう。