トゥルンパ10世 

 チョギャム・トゥルンパの前代であるトゥルンパ10世はたいへん厳格な生涯を送った。有望で影響力の大きい家庭に育ったが、彼は僧侶になり、すべての名誉を拒んだ。

 彼の謙遜深さは伝説的でさえあった。たとえば彼はけっして馬に乗らなかった。なぜなら馬に乗ると傲慢で高慢ちきになりがちだったからである。

 まだ若かった頃、彼は師匠らに対して反旗を翻したことがあった。なぜなら彼らは彼が寺院の基金調達係になることを望んだからだった。寺院の繁栄を維持するために、その精神的指導者が各地を回って寄進を集めるのは昔からの慣習だった。トゥルンパ
10世はこの役目を拒んだのである。瞑想修行などに身を捧げ、教義の理解を深めることのほうがはるかに重要だと彼は考えたのである。

 圧力を感じた彼は、ある夜、徒歩で逃げだすことに決めた。当時、もっとも偉大な僧侶と考えられていた大ジャムゴン・コントゥルのもとに身を寄せようと思ったのである。彼は長い年月のあいだ、大ジャムゴン・コントゥルのそばで勉学と修行に励んだ。修練期間が終わったが、彼はコントゥルの指導のもと、もう6年間、隠棲をつづけた。

 それからスルマンに戻った。彼はいまや著名な教師であり、多くの弟子をかかえる身になった。弟子にはディルゴ・キェンツェ、セチェンのジャムゴン・コントゥルらも含まれていた。彼らは順にチョギャム・トゥルンパのグルとなるのである。法統はこのようにして維持された。

 スルマンの法統の歴史を俯瞰すると、チョギャム・トゥルンパが受けた教育と訓練の本質が理解できるようになる。タントラ仏教の特別なやりかたで、師から弟子へと口承で伝統が受け継がれていくが、それぞれの寺院がそれぞれ独自の伝統を継承していくのである。究極的なゴールはおなじだとしても。

 チョギャム・トゥルンパが西欧で提示した教えは、ひとりの男によって作られたものではなかった。それらは不滅の法統から来たものであり、彼はその継承者だった。いまわれわれはスルマンだけの特別な教えのリストの完全版を示すことはできない。チョギャム・トゥルンはそのすべてを伝達する意思は持っていなかったのである。

 彼はたんなるスルマンの精神的首領ではなかった。米国に移動すると、肩書に関連した役割の本質をはるかに超えた存在となった。彼が学んだすべての儀礼や実践修行の仕方について説明するまでもなく、彼は仏教のまさに中核部を示したのである。

 西欧におびただしい数の教師がやってきて、彼らが継承する特別な教えを提示した。それらに関して彼らはある種のエキスパートだった。チベットでは習慣として、寺院の住持は寺院の特別な点を伝えていくことに集中しなければならなかった。しかしチョギャム・トゥルンパはかわりにシャマタ、ヴィパシュヤナーの瞑想を教えることを優先した。西欧にダルマ(仏法)を根付かせるためには、それが必要不可欠な基礎だと考えたからである。