2世から9世までのトゥルンパ 

 トゥルンパ2世がカルマパによって認定されたとき、新しい転生ラマの系統がはじまった。

 トゥルンパ3世、クンガ・ウーセルは、スルマンの僧院生活を確立するのに心血を注いだ。この地域では依然としてテントを使い、気候条件によって移動できるよう、ほとんどの実践修行者がキャラバン様式で生活していた。経典類はラバによって運ばれ、大講堂は大きなテントだった。100人以上の僧侶がそこでいっしょに生活していた。当時、このような「僧院生活」はごく一般的だった。カルマパの総本山であるツルプ寺でさえはじめはこのスタイルの僧院だった。

 米国で教え始めた頃のチョギャム・トゥルンパもこの伝統を受け継いでいた。コロラド州山中のロッキーマウンテン・ダルマ・センターで重要なプログラムが実施されるとき、彼はテントか簡素なトレーラーのなかで生活した。というのも彼はシンプルな生活原理と自然とのダイレクトな関わりが表現された、テント文化と不安定な単純さが大好きだったからである。

 トゥルンパ4世クンガ・ナムギェルは、カギュ派全体にとってきわめて重要な存在である。なぜなら彼の理解と達成の深さは相当のものであったからだ。彼はマハームドラーについて3巻の大著にまとめている。それはそれまでに編集された著作とまったく異なっていた。また論説の著作も多数あった。彼は音楽にも秀で、自身が作った詩篇を見事な声で歌った。彼の名声のおかげでドゥツィ・テル寺院はナムギェル・ツェ寺院より小さかったにもかかわらず、はなばなしい名を勝ち得ることができた。しかしながらクンガ・ナムギェルは寺院の指揮権を弟に譲ることにした。そして6年間、修行者として洞窟で暮らすことにした。そのあと長い巡礼の旅に出た。同時代のグル、テンガ・リンポチェは彼のことをつぎのように評している。

「トゥンパ(トゥルンパ)・クンガ・ナムギェルは完全な成就と覚醒を達成したあと、数珠や本などを自身の前方の空中に置いた。それらはそのまま置かれていた。彼が洞窟で修行をしているとき、戸が叩かれることを気にする必要はなかった。彼は透明になり、何にも邪魔されなくなったので、壁を通り抜けて行きたいところへどこでも行けるようになった」

 大きな精神的影響力を得たため、その後の代々のトゥルンパたちはみな政治的な役割を持つようになった。スルマンの数多くの寺院の住持のなかでも特段に高い位置を占めることになった。精神的、文化的な力が増すと、それがチベットのどこであろうと、ゲルク派によって動かされていた中央チベット政府にとっては面白くなかった。極端主義者のモンゴルの首領グシ・ハーンと手を結んだ彼らは、地域で増大する影響力にストップをかけようとした。グシ・ハーンの熱狂的な兵士たちとともに彼らはスルマンに侵入し、トゥルンパ7世を捕縛し、長い年月の間牢獄に入れた。

 しかし精神的覚醒によって、彼らは困難を乗り越えて生きながらえることができた。