心 

 この修行法を遂行するとき、心がどう働くかに、より注意が向けられる。あなたは坐る、しかし何も起こらない。ところが実際、心の中ではたくさんのことが起こっている。思い出したり、期待したり、希望したり、恐れたり、さまざまなことを思い浮かべたりしているのだ。ひとつの考えが現われ、消えると、つぎの考えがまた現われる。ときには考えが洪水のごとく押し寄せてくる。そのときあなたはわかる、いや、はじめて理解する。

あなたは自分自身に話しかける。もうとまらなくなってしまう。自分のすることに関し、いつまでも感想をつぶやいている。考えのあとには感情がやってくる。いらいらしたり、退屈に感じたり、妬んだりする。そのような活気があり、カラフルな情緒もまた思考である。

 つぶやきの波に流されないように気をつけるのが非常にむつかしいことを、あなたは悟る。このことを理解し、吟味することが、技法その一である。沈黙がどのように、いつやってくるか、あなたは細心の注意を払う。あなたは沈黙を気まずく思い、すぐに間(ま)を埋めようとする。非存在を認識すれば、あなたはパニックに襲われるかもしれない。心の中で話をするうちに、ほかにだれかがいるように感じるかもしれない。あまたは内なる仲間と物事をえり分けなければならない。それは猫が自分のしっぽを追いかけるようなものである。

 チョギャム・トゥルンパが説明するように、エゴ(自我)とは中央政府のようなものである。

「情緒はエゴに光が当たった部分。それは言ってみれば、エゴの軍隊の将軍です。意識下の思考、白昼夢、その他の思考は、互いに光の当たった部分を結びつけています。思考はエゴの軍隊を形成し、コンスタントに活動し、忙しいのです」。

われわれは中央政府の統制下に残るため、このような軍隊とともに戦うことになる。

 瞑想中に思考(白昼夢、反省、情緒)が現れたとき、われわれはシンプルにそれに集中するよう言われる。それを除こうと試みるのではなく、それが一時的なものであること、「半透明の本質」であることを理解すべきである。あなたは考えている。そして心の中でこの活動に「考えている」というラベルをいま貼っているということを認識するのも技法のひとつである。そしてあなたは注意する先を呼吸に戻す。「考えている」ということを認識することが、あなたが何をしているかということを思い起こさせ、呼吸に、そしてクッションへとあなたを戻す。

 思考を分析する必要はない。その内容はそれほど重要ではないのだ。ただひとつ目的があるとすれば、その本質を理解することである。考えることに注意を向け、思考に反応し、あるいは行動を取り、しかし思考を追うことはなく、クッションに戻るのである。緊張していれば心は悩み、心が平静な状態であればそれを祝う。これも思考の新しい型である。それに対し、宇宙がつくられる前に、われわれはラベルを貼らなければならない。

 瞑想は壊れていない集中のプロセスではない。

「固着や集中は、トランスのような状態を育んでいく傾向があります。しかし、仏教的見地からすると、瞑想の要点は……物事をあるがままに見るために感覚器を磨くことなのです」

 思いやりの心は、ほんのつかの間しかつづかないものだ。瞑想は固着を解いでゆるやかなものにして、もう一度堅固なものに戻すことはできない。それが何であろうと、体験の上に何かを固着させないことが重要なのだ。何が起ころうと、歓迎や需要の感情を磨くことに努力すれば、あなたのそのままの存在に向かって心地よい風が吹くだろう。