2 トランシルバニアの農家に生まれ、聖職者になることを期待される

 クルシ・チョマ・シャンドル、すなわち彼自身人生においてもっともよく用いたフランス語表記のアレクサンダル・チョーマ・ド・ケレシュは、英語圏でも、その名で知られるようになった。彼は1784年、当時ハンガリーの所属で、1920年にルーマニア領となるトランシルバニアに生まれた。正確な彼の生日は不明だが、地元のカルバン派教会の教区記録によれば、1784年4月4日に洗礼を受けている。

姓が示すように、彼が生まれたのはトランシルバニア東南部のハーロムセーク県(現在のルーマニア・コヴァスナ県)のケレシュ村である。松林に囲まれたこの村は、屋根が急勾配で壁が分厚くずんぐりとした木造家屋が占める300人から400人ほどの人口の孤立した村である。

 村はカルパチア山脈東部の雪を被った山の麓にあり、ネメレという名で知られる氷のように冷たい強風にさらされた。厳しい気候のため農業には限界があり、林業や家畜、交易、手工業などで生計を立てる人が多かった。

 ケレシュ村のほかの住人がそうであるように、チョマの家族もまた、隣国のオスマン・トルコの脅威からヨーロッパのキリスト教世界を守る東端の辺境警備隊として、数百年も生活してきたハンガリー人の一支であるセーケイ人に属していた。

 セーケイ人は、純粋で美しいハンガリー語を話すことで知られている。それは彼らが外部の人々との通婚を好まなかったせいである。またその静かでまじめな性質がよく知られていた。彼らはまたルーン文字のような古代の文字を用い、アルファベットに変えたのがもっとも遅い民族だった。伝説によれば、彼らは古代ヨーロッパを征服したアッティラ率いる好戦的なフン族の後裔である。

 チョーマの両親、アンドラス・チョマとイロナ・ゴチズには3人の息子と4人の娘があった。このなかで、幼少期を生き延びたのはふたりの息子とふたりの娘だけだった。アレクサンドルは、ふたりの姉、ユリアとクリスティナと、弟ガーブルとともに育ったのである。家族は小さいながらも農地を所有していたので、土地を持たない農民が多い中では、その地位は高かった。しかしこの家族に生まれた者は、老いも若きも全員、厳しい労働を強いられた。

 ケレシュ村のセーケイ人にとって、この報われない重労働は重荷であるだけでなかった。チョマが生まれるずっと前にハンガリーは独立した国家ではなくなり、オーストリアの王家に隷属していた。1764年、女王マリー・テレサは、セーケイ人が伝統的に担ってきた辺境防衛隊の職を制度化した。すなわち恒久的に、辺境を守護する歩兵部隊としてオーストリア軍に編入されたのである。

 牧師になる勉強をしている者を除き、成人男性は全員、50歳になるまで、自費で軍務につく義務が課せられた。チョマの父親と兄弟はこの義務を果たした。村を代表する者として、アンドラス・チョーマは伍長となり、ガーブルはナポレオン軍との戦いに参加した。

 セーケイ人は、絶対的な権力を持った地域軍の長官に支配されていた。長官はひとりの人間にたいし、結婚、さらなる教育、はては喫煙に関することまで命令することができた。トランシルバニアのセーケイ人は、オーストリアの専制ぶりに煮えたぎる怒りを感じていた。そしてアレクサンドルが生まれた年には、ついに反乱が起こったのである。しかしそれはオーストリア軍の無慈悲で血なまぐさいしっぺ返しを食らって終わってしまう。

 アレクサンドルや彼の兄弟は、大きくなったら、つねに敵対勢力に取り囲まれ、オスマン帝国支配下のワラキア地方との国境を越えてやってくる見知らぬ敵との戦闘に巻き込まれるリスクを負いながら、山岳地帯の隘路や峠をパトロールするという生活を送ることになるだろうと考えていた。子供時代、彼はすでに肉体的な忍耐、自己否定、自己訓練といったことを身につけた。

 若いアレクサンドルは長い距離を歩くのが好きだった。いとこのヨゼフ・チョマは当時を思い出して、「子供のとき、彼とどちらが速く歩けるかなんていう競争はしないようにしていました。というのも、彼は丘の頂上に着くと、そこでは満足できなくなって、さらにその向こうへ行ってみようと考えるのです。そうしてずいぶんと遠くまで行ってしまうのです」と語っている。

 6歳のとき、アレクサンドルはカルバン派教会が経営する村の学校に入学した。頭のいい子供であった彼は、すぐにすぐれた学問能力があることを示した。そして時期が来たとき、校長はつぎの教育課程に進むことをすすめた。少年の家族にとって、それは祝福されることであるとともに、悩ましいことでもあった。

 つぎの過程に進むということは、彼が軍隊に入るのではなく、聖職につくということを意味し、それは喜ばしいことだった。しかし同時に農地での働き手がひとつ減るということを意味していた。そして学校に通うということはそれにまたお金がかかるということでもあったのだ。といっても、授業料の負担は考えなくてもよかった。トランシルバニアで、彼が行くことのできる唯一の教育機関だった。

 このナジェニェドのベツレニアナム学寮は、仁愛精神に富んだトランシルバニアの王子ガーブル・ベツレムによって1622年に建てられた慈善施設だったのである。この学校の第一の目的は、カルバン派の聖職者を育てることだった。生徒が金持ちであろうと貧乏であろうと関係なく、学問的な価値を授けようとしたのである。

 ナジェニェド(ルーマニアの現在の名称はアイウド)は、ケレシュから200マイル(320キロ)ほどのところにあった。アレクサンドルの父はしぶしぶ息子が有名な学校に通うのを認めると、息子を連れてカルパチア山脈を越える長い旅路に出た。道中ずっと歩いたので、出費は1フォリントですんだ。アレクサンドルがナジェニェドの学寮に入ったのは、15歳のときだった。彼はそのあとの16年間、この学校で学ぶことになるが、ついには聖職につくことはなかった。ここナジェニェドで彼の人格は形成され、それは一生変わることがなかった。ここで彼は天職を知り、のちにはるか遠くのヒマラヤの僧院へといざなわれることになる。

 ナジェニェドは実際、とても奇妙な施設のように思える。 それは経済的には自己充足し、ローマ共和国のラテン式典礼のもとに順序づけられた、構成員全員が男性からなる壁に囲まれた小宇宙である。いろいろな意味で、チョマがのちにチベット語を学ぶために8年間を過ごしたヒマラヤの僧院に驚くほど似ていた。学寮は中庭のまわりに建つ建物群からなり、高い木造の尖塔がそれらを監視していた。その内側は、等級や程度によって蜂の巣のように、正確に仕切られていた。ラテン語でプレベスと呼ばれる最年少の少年たちは、生徒とはみなされなかった。

 余力のある生徒は、年長の生徒たちにいくらか謝礼を払って、ラテン語やギリシア語、算数などの科目を教えてもらった。財力のない年少の生徒はグラティスタエと呼ばれた。彼らは授業を受け、寮に住むことが許されたが、そのかわりに家で使用人として働いたり、庭師やパン屋の手伝いをしたり、使い走りをしたり、柴を刈ったり、台所の火を作ったりした。こうした仕事をすることによって、彼らは毎日600グラムほどのパンをもらった。学寮が配給する食事はこれだけだった。財力がある生徒は、市場や町の家で自分たちの食料を買った。

 年長の生徒たちの一部は、王室から奨学金を受け取っていたので、プリンシピストと呼ばれた。彼らはモール(編みひも)がついた上衣を着て、毛皮帽、あるいは三角帽をかぶった。厳しい試験を通った者はアカデミテと呼ばれた。この特権を得た者は一種のトーガ(古風な上衣)を着ることが許された。しかし大半の900人ほどの生徒たちは、分け隔てなく、老朽化した寄宿舎に入れられた。

 それぞれの建物に25人ほどの少年が寄宿した。ある者はベッドの上に、ほかの者は藁製の袋に寝た。寄宿舎の規則はプリマリウスと呼ばれる上級生によって従うよう強いられた。たとえば飲酒を犯した者は、学寮の監獄に入れられた。毎朝6時に青銅の鐘が鳴らされ、生徒たちは起床させられた。その一時間後には、授業が始まった。

 英国の寄宿学校を耐えしのいだ者ならだれでも、そのような場所に31歳まで抑留されると考えただけでぞっとするだろう。それは繰り返し見る悪夢のようなものである。しかしチョマが体験したのはそのような世界だった。彼の家は学校だった。彼はそこを去ろうとはしなかった。なぜならほかに行く場所がなかったからである。

 家族が住む家はあまりにも遠く、16年間のあいだに彼が帰宅したのはわずか2回だった。最初の帰宅は、父親が没する前、病気になったときであり、2回目の帰宅は、母親の葬式に参列するためだった。休暇のとき、彼は地元のカルバン派の司祭館に泊まるか、あるいは学校のまわりの農園に泊まって労働者として働いた。

 彼のナジェニェドの日々は、上級生の拳を避け、食べ物を必死で得て、居心地の悪い寄宿舎で寝場所を確保し、強い意志を持って猛勉強をし、序列の上をめざすというものだった。そのため生徒や先生、後援者、聖職者をのぞくと、人間関係を築く機会は皆無だった。のちに彼は人と会っても関係を持とうとせず、交流を嫌い、エキセントリックで、ときには(会った人の証言によると)やや狂気じみているのは、こうしたことと無縁ではない。

 チョーマはその人生をナジェニェドで、召使い兼生徒として最底辺からはじめた。最初彼は目立っていた。というのも彼は大半の同期生より5つも年上だったからである。しかしその年の終わりには、彼はクラスで一番優秀な生徒として知られるようになっていた。機敏さや応用性に欠けていたが、彼は並外れた勤勉さで補っていた。召使いとして働いているときも、掃除をしながら、またごみをゴミ箱に捨てに行きながら、本を手放さなかったと、後年、同級生は語っている。

「われわれの教師は窓際にわれわれを呼んで、本を手放さないチョマを指差して言ったものです。あの召使いの生徒を見よ。どんな時間も無駄にせず勉強しているぞ、と。おまえらと違ってばかなことに時間を費やしたりしないのさ、と、われわれに警告を発したのです」

 懸命に勉強したことが報われて、彼はわずか3年で、グラティスタとしての奉仕の仕事から解放された。

 このセーケイの国から来た若者は、たんなる勤勉な生徒ではなかった。彼は自分自身の人間としての弱さを克服したようだった。彼は一年中おなじ黒の羊毛のスーツを着ていた。厳しい冬、彼は寒さについて不平を言わなかった。夏のもっとも暑い日、彼は汗をかかなかった。彼の記憶は写真のようだった。たとえば彼は読んだものはすべて覚えていた。講義のときに聞いたことはすべて覚えていた。

 彼を悩ました唯一のことは仕事だった。人生において彼はそれを極力免れ、また最低限にとどめようとした。彼はスポーツをできるだけ避けた。もっとも、彼は水泳やレスリングの競技では、人に負けなかったのだが。また同級生との喧嘩はできるだけ避けた。心を動かされることはなく、いつもニュートラルであろうとした。怒り、悲しみ、幸福、こういったことは彼の性格やスピーチには感じられなかった。そもそも彼はあまりしゃべらず、注意深くぼそぼそと話すだけだった。彼が自分で決めた禁欲的なルールにしたがって、床の上で寝て、できるだけ食べ物や水を取らないで忍耐力を試し、自己を律した。なぜそうするのかと問われて、彼はつぎのように答えている。

「だれもが私を取り仕切ろうとします。だから私は自分の胃を取り仕切ることにしたのです」

 彼の食生活は、学校で出されるパンに負うところが大きかった。それにチーズや果物、野菜などが付け足された。しかしけっして肉や菓子、酒を口にすることはなかった。家族がスコーン(パン菓子)を送ってきても、彼はそれをほかの生徒に売り、お金を貯めようとした。

 1807年、23歳のとき、チョーマは試験に合格し、上級学生であるアカデミテの階級に昇進した。いまや学生教師として、学びながら教師の俸給をもらうようになった。この面に関してはうまくいったので、いくらかお金を貯めることができた。最後の何年間か、彼は年に400フォリントほど蓄えた。18世紀のハンガリーの1フォリントが、現在の5ポンドから10ポンドに相当するとするなら(一足の靴が2・5フォリント、1ポンドのビーフが0・5フォリント、学生の1か月分のパンが4フォリント)、チョーマは年に2000ポンドから4000ポンドほど貯蓄していたことになる。


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