6 チョーマ、チベット文化圏へ。ムーアクロフトとの出会い

 地平線ぎりぎりにかろうじて見えるものほど、狂おしいほど知りたくなる。それが人の心理というものだ。知識であれ、経験であれ、よく知らないことこそ、かえって問題のもととなるのだが。

 しかしながらもしそのことに集中し、近づいてよく見れば、それは溶けて、忘却の彼方に去っていくだろう。触ることのできる実体などないのだ。しかしそれは究極的な意味があるかのように点滅し、魅了されてしまうのだ。それは向こう側の世界から漏れ出る輝きであり、自己の謎への洞察である。それは人の生涯の地平線であり、人の努力はそこに向って尽くされるのだが、ついには人はそこに到達することができない。

 このような本質的に「遠いところ」を体現する場所は、地球上において、チベットのほかにないだろう。現代において、チベットがいかに西欧人のイマジネーションをかきたてるか、議論の余地はない。山と僧院が織りなす地勢は、精神の充足を表わすだけでなく、はるかかなたにあること、どうしてもたどり着けないこと、すなわち精神の充足の不可能性も表わしているのだ。

 チベットはいまや「ポスト・クリスチャン」の巡礼の目的地であり、フロイトやユングの子供たちのメッカであり、ダライラマはまちがいなく、苦痛に満ちた故郷における解放運動のリーダーではなく、西側における成功した宗教的リーダーといえるだろう。チョマ・ド・ケレシュのパイオニア的なチベット研究のおかげで、われわれはチベット文化のことを知り、直接的ではないにしても、彼が作り出したチベットのイメージをもつようになった。

 チョーマはラダックの都レーに25日間滞在した。8階建てのチベット様式の王宮からその街並みを俯瞰することができた。彼の目的地は依然として400マイル北方のヤルカンドだった。それはチベット高原の周縁に位置し、カラコルム山脈の反対側にあった。彼はヤルカンドへ向かう隊商を見つけるまで、レーで待つつもりだった。

 彼が旅をはじめてから2年半、思い描いたとおりに行かないのははじめてのことだった。完全に不首尾に終わったのである。着るものを工夫し、さまざまな言語を操れても、うまくいかないときは、うまくいかないのだった。隊商ルートはここを通っているのだが、チョマをメンバーに加えようとだれもしてくれなければ、隊商に参加することはできなかった。(「たしかにヤルカンドへ行く道は困難で、値段が高く、クリスチャンにとって危険だった」と彼は記す)

 拒絶された要因は、政治上、営利上の両者があった。政治的理由というのは、隊商ルートがチベットを通過していたことである。当時、チベットは満州帝国(清朝)の厳格な統制下に入っていた。チベットの中国人支配者たちは、英国とロシアの影響力を広げる競争を見て、彼らの帝国の西端を保護する決定を下した。

 1792年、外国人はだれもチベットに入ってはいけないという条例を公布し、キリスト教宣教師や英領インドからの外交官を完全に閉めだすことにしたのである。(この隔離政策は、1903年にフランシス・ヤングハズバンド率いる英国軍隊がチベットの都ラサに侵攻し、チベットに英国との条約に批准させるまでつづいた)

 営利上の理由というのは、このルートを頻繁に使うカシミール人商人がルートを嫉妬まじりで保護しようとし、近づくヨーロッパ人をすべて、それがチョーマのように純粋な動機を持った者であろうとも、彼らの生活にたいする潜在的な脅威があるとして、頑なに拒否したのである。

 これ以上進めなかったため、チョーマは来た道を引き返すしかなかった。彼はラホールにもどり、アラールとヴェントゥラに合流することをぼんやりと考えていた。おそらくランジット・シンの政府の通訳の仕事を紹介してくれるのではなかろうか。

 彼の望みが何であれ、退屈な、目が回るような山道を歩き、ラホールへ行かなければならない。そしてラホールに着く前に雪崩に巻き込まれてしまわないように気をつけねばならない。2週間後、ドラス川の畔でウィリアム・ムーアクロフトと出会った。この出会いが彼の人生を大きく変えることになる。

 当時55歳だったウィリアム・ムーアクロフトは、馬専門の獣医で、カルカッタ近くのプサに常駐する東インド会社専属の馬の監督官という地位にあった。馬は英領インドの軍隊に供給されるものだった。ムーアクロフトはロンドンで、獣医として成功し、十分な報酬を得ていたが、東インド会社の領事からそれと同等の報酬を示され、いわば引き抜かれたのである。

 彼の才能は、地元の馬が産みだす馬の体の質が下落していく傾向にあるのを、上昇させるためにも必要だった。このままでは英国から輸入される馬に頼り切ることになってしまうのだ。それには莫大な経費がかかってしまうし、馬自体にも危険性が高いことだった。地元の馬は体が小さく、骨の強度も欠けていて、英国人の騎兵を乗せるには十分ではなかった。

 およそ十年、改良を試みつづけたが、成功したとは言い難かった。ムーアクロフトはそこで、血統を改善するにはより遠くの地に馬を探すべきだと考えた。彼は上官たちにかけあって、1820年、理想的な馬を探し出すための遠征隊を組織することができた。それは北インドを越えて、中央アジアにまで足を伸ばすものであった。遠征の最終目的地はアレクサンドル・チョーマ・ド・ケレシュが別の理由からめざしていた町、ブハラだった。

 ブハラでムーアクロフトはアッティラのフン族が馬を売り買いした伝説的な馬市を探し出したいと願った。この目的を達成するために、装備が十分の小さめの軍隊が必要だと彼は考えた。東インド会社は彼に給料を払い続け、しかもグルカ兵の小隊をつけた。しかしそれ以外は自ら多大な出費を出さざるをえなかった。彼に随行する小隊は50名の兵から成っていた。ムーアクロフト自身が彼らの給料を払った。それどころか馬やラバ、犬、ときには象やラクダまで彼がまかなっていたのである。

 牽引することのできる動物は遠征隊の糧食だけでなく、8トンもの工芸品を運んだ。道中、必要な場合はそれを交易に使おうと考えたのだ。夜、彼は9フィート四方のテントに寝た。テントにはカーペット、折り畳み式のテーブルや椅子、100冊以上の関連書籍をそろえた「ライブラリー」、ポータブルの机、皮のケースに入った畳みこみ式の真鍮の寝台などが備わっていた。

 ムーアクロフトの伝記作家によると、彼は武器、弾薬、測量機器、コンパス、温度計、気圧計チューブ、文房具、砂糖、チョコレート、ブランデー、釣り糸や疑似餌、万華鏡やティーポット、砂糖入れなどの銀およびメッキの製品、望遠鏡、時計、カットグラスのシャンデリア、ピストル、ハサミ、ペンナイフなどのプレゼントのほか、医療器具(カテーテル、外科手術用の道具、ヘルニア帯など)を運んだ。

 彼は一年の休暇を得ていた。5年後に死去するとき、彼はブハラまで100マイルの地点に達していたが、探していた馬をまだ探し当てていなかった。しかしその遠征は偉大なる旅であったと評価できるだろう。

 ウィリアム・ムーアクロフトはとてつもなく大きなエネルギーを持った人物で、多方面に実践的な興味をもっていた。旅の途上で彼が書いた手紙や報告書もおびただしい数にのぼった。寒さでインクが凍ることもあったが、それでも書き続けた。彼が英語で書いた描写は、当時としてはもっとも完璧なものだった。植物相、農業、薬、気象データ、現地の商業、政治などを記録したのである。

 しかし彼の遠征は公式に認められたわけではなく、政治的には大きなリスクを負っていた。それはきわめて変則的な、独立した外交上の、あるいは交易上のミッションであったが、彼は英領インド周辺の知られざる国々に、英国の工業製品のための新しい市場を開拓し、交易を通して英国を軌道に乗せ、ロシアに先行することができると考えた。

 グレート・ゲームがはじまるまで、まだ半世紀があったが、そして上官たちはとまどってしまうのだが(彼らは彼のことを変人と考えるようになっていた。最終的に彼らは彼に遠征を中断し、もどってくるよう命じた)、ムーアクロフトは北インドや中央アジアにおけるロシアの野望は大英帝国にとって目下の危険であるという確信を持った。

 チョマのように、ムーアクロフトもカラコルム山脈を越えてヤルカンドへ至るルートを取ることを拒絶された。ヤルカンド経由でブハラへ行く旅を欲したが、かなわなかったのである。彼はレーに2年間滞在し、中国人官吏やカシミール商人、力を持たないラダック王室の代表者と、許可を得るための退屈で成果の出ない交渉をずっと続けなければならなかった。

 これまたチョマのように、埒が明かず、来た道を引き返して、別のルートを探さなければならなかった。そしてチョマとおなじく、ほとほといやけがさしていた1822年7月16日、ヤルカンドへ行く最後の許可の可能性を求めて、彼の一行がドラス川に沿って注意深くレーへ向かっているとき、反対方向から彼のほうに向ってくるハンガリー人の学者と出会ったのである。ムーアクロフトはヤルカンドへ入る計画が頓挫しただけでなく、二週間前、畳みこみ式の真鍮の寝台を失っていた。それは馬とともにドラス川に滑って落ちてしまったのだ。

 彼はまた、「まずいごはんや豆、大根の新芽などの単調な食事」にあきあきして、身体を弱らせていた。一方のチョーマは、ただひとりで、徒歩で旅をしていて、アルメニア人のかっこうをしたファキールのように見えた。このかっこうは、二度のレーへの旅のあと、最悪のものだった。

 チョーマは書き記している。「1822年7月16日、ムーアクロフト氏をみつけることができて驚いている」

 ムーアクロフトも書いている。「アルメニア人としてのチョマ氏が7月、西の辺境ラダックで自己紹介をしてきた」

 ふたりの男の人間性や環境がそんなにも異なるはずがなかった。僻地にいるという状況で、彼らは堅固な信頼関係、相互の尊敬を形成しようとした。チョーマはムーアクロフト一行に参加した。そしておよそ8か月、いっしょに行動した。チョマにとって、環境を分かち合うこと、ムーアクロフトの随行の軍隊とともにあるのは、それまでの苦労を思えば報われたようなものだった。ムーアクロフトにとっても、彼の実利的な心からすれば、チョーマのような学者の才能は、英国の戦略的な価値におおいに有用だった。

 ムーアクロフトはライブラリーの書籍をチョーマに閲覧させた。とくに1冊は、チベットの言語や文化についてヨーロッパ言語で書かれた唯一の書籍だった。チベットは、ムーアクロフト、チョーマ両者とも入ろうとして失敗した国である。その本『アルファベトゥム・チベタヌム』は、1762年に、ローマでカトリックの神父アントニオ・ギオルギによって刊行されたものである。これは著者がカトリックの宣教師たちからヒマラヤの王国について聞き取ったものを、ラテン語で、900ページほどの分量にまとめた寄せ集め的な本である。その大半の情報は間違いだった。

 たとえば、チベットの宗教はマニ教だとこの本は述べている。チョーマにこの本を渡しながら、ムーアクロフトはこの語学の才能を持った男に、13の言語を知っているというが、もうひとつ加えてもいいのではないかと提案した。禁じられた王国(チベット)の国境の外にあるチベット寺院に滞在し、正確な辞書を編纂し、チベット語の文法の書を作ってみてはどうかというのである。

 この事業を推奨するにあたって、ムーアクロフトはつぎのように記した。「(このプロジェクトに)時間を捧げることによって、ヨーロッパの博学者という名誉を受けることになるだろうと伝えた」

 こうすることによって、抜け目のないムーアクロフトはチョマをうまく取り込んだのだ。それは直接的にチョマの学者としての名声を得たいという気持ちをくすぐった。チョマはのちにチベットの言語と文学を研究することによって、チベットの文献のなかに中央アジアの人々に関する言及を発見できるのではないか、それはハンガリー人の起源の証明になるのではないか、とムーアクロフトの提案を受け入れたことを正当化している。しかしひとたびチベットの言語と文学という大海原に入るや、彼は彼自身お気に入りの理論、ハンガリー人起源論について触れることすらなくなってしまうのである。

 ムーアクロフトからすれば、チベット語の辞書と文法書は、とくにそれが未知の国であっただけに、諜報活動においてかけがえのない価値があった。彼の考えでは、チベットは英国の通商、政治的利益においてきわめて重要だった。とくにロシアがさきがけてチベットに入ろうとしていると疑われるいま。チョーマに対する提案は抽象的なものではなかった。それを実行してもらうために、彼は具体的なサポートをしたのである。翌年、チョマはふたたび北方へ向かい、ラダックの寺院や隣のザンスカル王国を訪ね、ムーアクロフトはブハラをめざした。ムーアクロフトはチョマに必要なお金と道中助けとなる紹介文を書いた手紙を持たせた。

 それまでの間、チョマはムーアクロフトとともにレーにもどり、ムーアクロフトが自由に使える家に滞在した。ここでチョマはムーアクロフトが所有するロシア語の手紙を翻訳する仕事に従事した。手紙の送り主はロシアの外務大臣ネッセルローダ男爵がパンジャブのマハラジャ、ランジット・シンに宛てたものだった。それらはまわりまわってムーアクロフトのもとに落ち着いたものだった。その手紙はロシア人スパイ、アガ・メフディ・ラファイルによって運ばれていた。

 アガ・メフディはムーアクロフトと違ってラダックとヤルカンドの間を行く隊商に参加し、交易ルートに沿って諜報活動をしていた。しかし戻る途中、カラコルム山脈でアガ・メフディは死亡してしまった。彼が参加した隊商がラダックに着いたとき、手紙は彼の所持品のなかに入っていた。そしてムーアクロフトが雇っている者がそれを発見したのである。チョマは手紙をラテン語に翻訳した。ラテン語を読めるのは教育を受けた英国人官吏だけだった。その内容は、パンジャブの支配者に、ロシアと政治的、通商的関係を築こうという仮の提案だった。疑念が正しかったと感じたムーアクロフトは、手紙を直接カルカッタの上官に送った。

 ムーアクロフトは1822年9月、チョマとともにジョージ・トレベック大佐と十数頭の馬を残してレーを出発した。トレベックは、インドからもどってくるムーアクロフト配下の小隊を待つよう命じられていた。小隊はお金として使われる15000ルピー分の真珠や珊瑚、新しいグルカ兵、マスケット銃、弾薬などをもたらすのである。ムーアクロフトが出発するとすぐ、チョーマはチベット語を学ぶという新しい計画を実行に移した。

「この奇妙な言葉の構造をもっと知りたい」とチョーマは本心を打ち明ける。トレベックの協力で、チョーマはペルシア語を話せる地元民を探し出し、彼からチベット語の口語の基礎を学んだ。2か月後、トレベックがムーアクロフト隊にふたたび参加した12月、彼はすでにチベット語の基本をマスターしていた。

 つぎの5か月間、チョマはムーアクロフトとともに、ランジット・シンの領内にあるカシミールの都スリナガルに滞在した。パンジャブの支配者はムーアクロフトに、市内にある邸(やしき)を提供した。それは厚遇するという意味があるとともに、監視下に置くということでもあった。彼はムーアクロフトが英国のスパイかもしれないことは、重々承知していた。

 チョマが冬の間、『アルファベトゥム・チベタヌム』の研究に集中する一方、ムーアクロフトは地域の地理学や自然産品などの要約をまとめあげる作業に没頭しながらも、緊急の医療処置を求めて家の玄関の前に集まってくる群衆の世話にも時間を費やした。チョマのチベット語の辞書作りを保護するのは、彼の大きなプロジェクトのひとつだった。この地域の知識を集めるのは、一般の人、すなわち英国の国民に資するものだった。


⇒ つぎ