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 二世紀のち、チベットを支配するゲルク派のトップとなるダライラマ六世の母、ツェワン・ラモが、メンユル地区の教派の支配を確立したベルカル村のジョウォ家族のもとに生まれた。摂政サンギェ・ギャツォ(つぎの章で取り上げる主要人物)が骨身を惜しんで彼女が生まれたベルカル村の「王室の家族」を追ったが、この地域のゲルク派の最初のパトロンとなった家族という重要性を彼は見逃していた。家族に冠せられた「王室の」という呼称は、9世紀のチベットの亡命王子ツァンマの後裔であることを示していた。ブータンの年代記の1728年の記述によれば、ジョウォ家の地方貴族はみなこの王子から分派した後裔だった。摂政によって記録された十三世代にわたるダライラマ六世の母の系譜は、とくにブータン年代記のひとつの系譜と一致していた。しかし彼はツァンマが始祖ではなく、ニャティ(歴史以前のチベット国王の系譜の最後の王で、ディグム・ツェンポの三人の息子のひとり)か、不吉なる者として知られたため、メンパの地区に亡命してきた、野犬の口と羊の頭蓋を持った宗教的国王の後裔として描かれるもうひとりの人物を始祖と考えていた。この物語は、ブータンではキカラトゥ(Khyikha Ratho)すなわち犬口羊頭王という伝説として知られる。ペマリンパが再発見した埋蔵経典のひとつ、「ケンパルン(Khenpalung)の隠された地への案内」にもこの話は記されていた。理解すべき重要なことは、摂政がダライラマ六世の血統を捏造する必要はなかったことである。というのも母方の系譜も、父方の系譜も残っていたからである。

 さてウギェンリン寺のウギェン・サンポに話を戻そう。ウギェンリン寺はベルカル(Berkhar)からダンマ(Dangma)川、あるいはタワン(Tawang)川の谷を24キロほど遡った地点にある。現時点で彼について言及があるのは、兄弟の自伝を除けば、レトリンパ(Lethrolingpa)の韻文で書かれた自伝だけである。ウギェン・サンポの二人の娘は、ブムタン(Bumthang)・タムシン(Tamsjing)の有名な叔父ペマリンパの家でお酒(チャン)をふるまってレトリンパを歓待したと述べられている。二人はたまたまこの家を訪れていた。彼女らはモンユルの自分たちの地区を訪ねていたラマに会ってあきらかに喜んでいた。この家でのささやかな出会いと結婚の形式化に関するペマリンパの見立てを除けば、ウギェン・サンポはおぼろげになり、伝説になろうとしていた。ダライラマ六世自身の描写とすることで、またウギェンリン寺の一族の寺を再生することによって、遠い祖先をハヤグリーヴァ神の顕現とするのである。ハヤグリーヴァはブムタンからダーキニーの秘密の場所のような、あるいはひっくり返った亀のような形をした場所に一族の寺を建てるため、空中を飛んでいった。ウギェンリンに加えてほかの近隣の二つの寺院、サンギェリンとツォギャリンの創建に名を連ねていた。しかしながら、前者の寺院は彼が到着する以前にはすでに存在していた。再建前には出ていた興味深い地元の寺院案内には、伝説的な存在であるウギェン・サンポがはじめてこの地域に家畜(おそらくヤク)を導入したことが記されている。案内書は一族が主張する夏と冬の牧草地を列挙している。ウギェン・サンポははじめてそこに牧人のための「牧場小屋」を建てた。彼はこの地域にはじめて農業を導入し、大麦をもたらした。またブムタンの生誕地とおなじやりかたで、収穫した穀物を挽くための水車小屋を建てた。彼はまたツォギャリン(Tsogyaling)寺院の敷地で未熟な湖の精霊(mtso-sman)を育てるやり方も導入している。おなじ案内書にはウギェン・サンポと一族に代々受け継がれてきた農奴(ウギェン・サンポはパトロンとして描かれる)の関係の誓約についても述べられている。契約は「昼が白く(明るく)、夜が黒い(暗い)うちは、また生涯ずっと、そして息子たちが生きている間、あるいは継承者である間は」つづくのである。農奴たちはツィデクパ(Tsidrekpa)と呼ばれたが、おそらく彼らが住んでいた隣接する村から名付けられたのだろう。誓約は後世捏造されたもののように思われる。それは支払いの義務が生じる権利や特権を避けるという狙いがあったのである。


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