ダライラマ六世、その愛と死

宮本神酒男 翻訳

15 貴族の娘

 ダライラマ六世は得度し、受戒したあとも長髪を残していた。宗派の長に対し、あえて疑義を唱える者はなかった。活仏の意図、挙動、趣味、どれも一般人の想像の域をはるかに超えていた。人々は、ダライラマというのは何をするにしても意見は言わず、ただ衆生のために尽くし、そのために権力を有していると考えていた。ただ上層部の者のみが政治上重要なことのためにダライラマは利用できるとみなしていた。

 摂政サンギェ・ギャツォは権力を独り占めし、忙しかったが、自分の地位に酔いしれていた。彼は観察し、探りを入れ、ゲタンに尋ねたあと、六世がまったく政治に関心がないことを確信し、それ以降六世の行動にあまり注意を払わなくなっていた。

 こうして六世ツァンヤン・ギャツォは貴公子になりすまし、ポタラ宮を出て、ラサの街に繰り出すことができた。

 当時ポタラ宮とラサの間は1キロ以上離れ、家屋もなかった。ソンツェン・ガムポ王以前、ラサは沼沢だったといわれる。沼沢の中央には湖があり、チベット語でウォツォと呼ばれた。文成公主はチベットにやってきてから、いわば都市プランを練り、湖のある地点を選び、土で埋め、寺を建てた。

文成公主は五行の相承と相克をもとに、白い山羊によって土を運ばせるようソンツェン・ガムポ王に提言した。チベット語で山羊はラ(ra)土はサ(sa)であり、寺はラサと呼ばれる。これは大昭寺の最初の名だった。のちチベット語でジョウォカン、あるいはラサ・チュルナ・ツグラカン、すなわちラサ神変殿または顕霊殿と呼ばれるようになる。

それから巡礼が盛んになり、政治、経済、文化が発展すると、寺の周囲には急に建築物が増え、市街を形成するようになった。この町もラサ(Rasa)と呼ばれた。漢文では邏些と書かれた。以後、ラサは仏教の聖地として栄えるようになり、聖地を意味するラサ(Lhasa)と名前を改めた。ラサというチベット語が最初に現れるのは、806年に立てられたキチュー川南岸の石碑だった。ポタラ宮の建てられる紅山は第二殊勝普陀山であり、ポタラは補陀洛の音訳だった。ツァンヤン・ギャツォの時代、町に行く、というのはラサへ行くということだった。

 何年かぶりでツァンヤン・ギャツォはラサに来た。しかもひとりで。こんな自由を満喫するのはじつに久しぶりだった。まるで背中に羽が生えてきたかのようだった。地上を歩くというより、天を飛んでいるかのようだった。故郷を離れ、袈裟を着、十三層のポタラ宮に入って以来、このように遠くまでひとりで歩くことはなかった。このような広くて果てしない青空を見る機会はなかった。

こいつは誰か? ダライラマか? いや違う。ツァンヤン・ギャツォか? いやこれも違う。彼は大海を泳ぐ一匹の魚だった。草原を駆ける一頭の馬だった。雲の中を天翔る鷹だった。

 彼は大昭寺の西門の前で立ち止まった。

 大昭寺の中でもっとも神聖なものといえば、文成公主が長安からもたらした釈迦牟尼尊像だった。この尊像は釈迦自らが加持したともいわれ、チベットではずっと至宝とされてきた。この像はもともと小昭寺(ラモチェ)にあったが、安全を期すため、チベットの王に嫁いだ二番目の漢族の王妃、唐朝雍王李守礼の女(むすめ)金城公主が大昭寺に移したという。

 ツァンヤン・ギャツォは無数の男女が石板の上で五体投地し、寺院の中でもみな叩頭する様子を眺めた。石板は硬かったが、人のからだが擦れることによって深い窪みができ、長細い石臼のように見えた。彼らは何を祈っているのだろうか。現世の悪運を逃れ、来世の貧窮の苦しみを和らげようというのだろうか。彼は溜め息をつきながら、心の中で考えた。

「頭や足を酷使して、何を得ようというのだろうか」

 彼は憐憫の情を覚えずにはいられなかった。とはいえ彼もまた幸福を求める人のひとりだった。それなのに人に幸福を与えることなどできるのだろうか。もし彼らの不幸を取り除けるなら、彼は人々の前に走り出て叫ぶだろう。

「みなさん、私はダライラマだ! 仏の中の仏、活仏である! なにか望みがあるなら、私の前に来て望みを言ってくれ!」

 彼にはそんなことをする勇気などなかった。人々は彼をうそつき呼ばわりするだろう。彼もまた自分がうそつきであると認めてしまうだろう。

 彼は本物の尊敬、珍重、最敬礼というものを再認識した。門前には文成公主が植えた唐柳と甥・叔父の契りをかわした連盟碑があった。それはチベットと中国の間友好のしるしでもあった。やわらかい柳が垂れかかり、それがかえって石碑の悠久の時を感じさせた。石碑は硬くても生気と活力に満ちていた。もし政治がこのようなものであれば、彼は嫌いではなかったろう。ああ、考えることが多すぎるのだ。得がたい自由を満喫しよう。まずはタルゲネを探さなければならぬ。

 彼はパルコル(八角街)の南街を東へ歩いた。東南の隅に至ると北に向きを変え、それから東へ向かい、路地に入ってタルゲネの肉屋を探した。タルゲネはどうやったら店に到達できるか詳しく教えていたのだ。

 八角街は後世の中国人がつけた名前である。ラサの中心は大昭寺であるが、その後ろにラサ市庁舎の建物があった。それらの周囲に四本の街道が走り、自然に八角を形成していた。八角街の八角はたしかに八角だったのだ。また大昭寺は仏教の中心であり、それを取り囲む街道によって三つの地域、すなわち内(ナンコル)中(バルコル)外(チコル)に分けられた。その中(バルコル)に漢語の八角を当てたともいう。四川語では角をコウと読むのである。

店の前に大きな扇状の牛肉がぶらさがっていた。よく見るとその後ろに坐っているのはタルゲネだった。横には何人かの友人が座り、豪放快活に談笑していた。ツァンヤン・ギャツォの脳裏にはさまざまなことがよぎった。

提案したのではタルゲネではあるが、いざ店の前にダライラマ六世が現れると、彼は飛び上がって驚いた。なんてこった! どう接待すりゃいいんだ?

 ツァンヤン・ギャツォはタルゲネがあわてふためくのを見て、落ち着かせるように言った。

「兄さん、体の調子はどうだい? 好きに坐らせてもらうから、ちょっと仲間に入れさせてくれよ」

 タルゲネは手足の置き所がなく、バタバタするばかりだった。六世を何と呼んだらいいのか、この高貴な客をどこに坐らせたらいいのか、皆目見当がつかなかった。その場にいた友人たちは、彼が恐慌に陥りひどくあわてるのを見て、よからぬ来客が来たのだと思った。借金取りかもしれない。貴族の非行少年かもしれないし、あらさがしをする小官吏かもしれなかった。共同戦線を張って友人を守ろうと、だれひとり立ち去る者はなかった。タルゲネらがどんな話をするか、彼らは耳をそばだてた。必要とあればすぐ助ける気だった。善人が損をするようなことがあってはいけないと考えていた。

 ツァンヤン・ギャツォは敏感にタルゲネが申し訳なさそうにしていること、座には敵意がみなぎっていることを感じ取った。いつ来るか約束をしたわけではなく、来訪が唐突だったのはたしかである。着ている服も高価そうに見えるかもしれない。とはいえ彼は意に介さないようにしていた。普通の人たちといっしょに坐り、礼にしばられない生活を送るなどありえないことだった。彼はあいている場所を見つけて坐った。屠殺人や職人のなかに加わったのである。

 タルゲネはその場にいた友人たちが友好的でないことに気づいた。彼らの顔には、警戒、懸念、冷淡さが、はなはだしくは敵意があきらかに見て取れた。あやしく思ったのも無理はなかった。彼はラサに貴族の友人がいるなどと、話したことがなかったからだ。一匹の子鹿が豹皮をかぶって羊の群れに近づくようなものだった。やはり歓迎されることはない。

ツァンヤン・ギャツォの服と彼らの着ているものとの差はあまりに大きすぎた。紫色のプル(毛衣)、藍色の緞子の腰帯、筒型の牛皮靴、辮髪に飾られた目も綾なるトルコ石、それに加えて白くきめ細かな肌……。これらは意識的にきらびやかに着飾っているとしか見えなかった。ただその面立ちは善良そうだった。不良少年とは思えなかった。

「この方はおれのよき友であり、恩人でもあり、仏のようなもんだ……。善良な性格でいつも家で勉強されているから、あまり外出しない。まあそんなとこだ、何も言うことはないよ。さあ、みんな、お茶を飲んで」

 タルゲネはバター茶が沈まないように、茶壷を振りながらそう説明した。

 ツァンヤン・ギャツォはあわてて腰をあげて会釈をした。彼の微笑みと優雅な挙措はタルゲネの説明に合致していた。みなの心はほぐれ始めていた。なかにはタルゲネがこのような人を友だちに持つことを、信じがたく思う人もいた。しかし友だちは友だちなのだ。だれだって人には言えない秘密ぐらい持っているだろう。皇帝にだって貧しい親戚がいるという。貧しい人が金持ちの友人を持ってはいけないだろうか。

「すいませんが、お名前をうかがってもよろしいでしょうか」と銀細工師が尋ねた。彼は無口な方だったが、ツァンヤン・ギャツォと雑談を交わしてみたいと思ったのだった。

 この質問によって彼はばからしい状況に置かれてしまった。彼がポタラ宮を出たとき、変装にばかり気を取られ、偽名のことなど考えも及ばなかった。口ごもるばかりで、何も言い出せずにいた。ダライラマ六世の名がツァンヤン・ギャツォであることを知っている者もいるかもしれないので、本名を言うことはできなかった。タギェンナもまた何と言ったらいいか考えあぐねていた。

「タンサン・ワンポ。そう、この人はタンサン・ワンポさんだ」

 ツァンヤン・ギャツォは即座にうなずき、了承した。心の中では嬉しくてたまらなかった。この名前も好みだった。タルゲネがあらかじめこの名前を用意したはずもないから、この幼なじみはずいぶんと機転が利くやつだ、と彼は思った。文盲とはいえ、得意分野というものはあるのだ。

 彼らは幼い頃、故郷でいっしょによく遊んだものだが、何年ものち、ラサで再会すると誰が予想できただろうか。しかもそのとき片方が片方の名付け親になるなんて。それほど昔ではないが、カンツがタルゲネという名に変わった頃、やはりタンサン・ワンポという名をつけるとは予想できなかった。応報というのか、じつに面白い。これらは無意識から生まれたのだ。

 これは意味のあることだ。もし生活の中で意外なものがなくなったら、偶然がなくなったら、出会いがなくなったら、予想がなくなったら、劇がなくなったら、どんなにつまらないだろうか。

 このようにラサに、似ても似付かぬふたり、袈裟を着たダライラマ十六世と俗装を着たツァンヤン・ギャツォが現れたのである。

 このとき、若い女の子が肉屋に入ってきた。ものうげに店内に立ち、ものうげに声をあげた。

「肉、ちょうだい」

 彼女を見た瞬間、ツァンヤン・ギャツォははじめて孔雀が羽根を広げるのを目にしたときのように、ハッとした。頭上には金銀の髪飾りがきらめいていた。色鮮やかな刺繍の入った編み上げ靴をはいていた。琥珀色の首飾りが紅粉色の内着から見えて光っていた。丸い顔の上の白粉はほどよく、彼女の着物と調和していた。

 こんなに近くから貴族の娘を見るのは、ツァンヤン・ギャツォにとってはじめてのことだった。故郷でも、村でも、牧場でも、ポタラ宮でもその機会はなかった。彼はその美しさに賞賛を惜しまなかったが、それだけでなく、この目の前の女性に対してある種新しい感覚を持ったのである。ハッとするような美しさがあったのだ。

「パルデンさん、こっちに来て坐ってくださいよ」とよく知った顧客に対するようにタルゲネは声をかけた。実際、彼女が自分で肉を買いに来ることはめったになく、ふだんは使用人の仕事だった。たまたますることがなく、暇ができたので、気分転換に肉屋に来たのだった。ラサの八角街に店を構える商人は、社会的地位はさほど低いというわけではなかったが、娘と比べれば低かった。タルゲネは娘に敬語を用いなければならなかったが、かといって彼女の靴に手をこすりあわせるほどの貧民でもなかった。

 パルデンは中をのぞいて、数人の者がざわめいているのを見て、入るのに躊躇した。ふとツァンヤン・ギャツォの存在に気がついた。それが貴族の青年であるとすぐにわかった。彼女は気持ちを切り替え、眉を逆立て、思い切って店の中に入った。

 基本的に異性は惹かれやすいもの。新しく紹介された者に対し、最低限敵意がないことを示すための礼儀が必要となるが、ツァンヤン・ギャツォはその点にまったく注意を払わなかった。いや、彼の心はこの美しい娘に奪われてしまっていたのだ。

 パルデンはリンチェン・ワンモとはまったく異なっていた。愛くるしく、豊満で、あでやかで、唇の上には冷徹さが浮かび、額には高慢さが表れていた。十八、九の小娘の外見ながら、四十か五十の主婦の知恵を持っていた。農村に生まれたならば素朴な娘でも、都会に生まれたなら要領のよい娘になるのだ。人とのつきあいがまず大切で、世間体からもそうなってしまうものだ。

 派手な色調の服装とは裏腹に、彼女の顔には冷徹さが浮かんでいた。冷徹さのなかには欲求がにじんでいた。彼女は斜めからツァンヤン・ギャツォの顔を見つめていた。

「王子様、あなた、碁は打てるかしら」

 パルデンはほかの人に目もくれず、ツァンヤン・ギャツォに直接向かって言った。そして美しくにっこり笑った。

「できますよ」ツァンヤン・ギャツォはありのままに答えた。「といっても腕前は素人ですが」

 彼は妙な質問をするものだと思った。「どうしてそんなことを聞くのですか」

 すると彼女は彼の耳元に顔を近づけ、小さな声でささやいた。

「かわいそうな私のお父様は碁を打つのが大好きなのに、足を患って外出することができないんです。それで私を外にやって碁の打てる人を探させているんです。もしよろしければ私の家に来て相手をしていただけないかしら。ほんと恩に着ますわ」

 こんな孝行娘も珍しいな、とツァンヤン・ギャツォは心の中で思った。それに比べ自分はどうだろう。憂さ晴らし、退屈しのぎで外に出てきただけだ。そうだ、長い間碁をうってないことだし、またひとり友人を作るのも悪くはない。そう考えてさわやかに言った。

「いいですよ。お父様に指南してもらいましょう」

 ツァンヤン・ギャツォはタルゲネに別れを告げ、パルデンといっしょに肉屋を出て行った。

 肉屋にいた人々は去っていくふたりの姿を眺めながら、微笑んだり、口をヘの字に曲げたり、頭を振ったりした。

 パルデンは没落貴族の家の一人娘だった。その家は八角街からさほど遠くないところにあった。古く、豪華とは言いがたい二階建ての家は清潔で、静かだった。ポタラ宮の寝室と比べると、花や緑にあふれ、こちらの寝室には生活の息吹のようなものを感じた。

「それでお父様は?」ツァンヤン・ギャツォは腰掛けながら、言った。

「用事があってチャムドへ行ってるの。十日ほどで戻ってくるはずよ」

 ツァンヤン・ギャツォは彼女が肉屋でうそをついたことをとがめようと思った。若い娘にもてあそばれるのは耐えがたかった。しかし彼女が何と言うか、何をしようとしているのか、見ようと考えた。彼女の父親はどうやら彼とは何の関係も持てなさそうだった。

 パルデンは何も言わず、お椀を洗っていた。

「で、お母様は?」ツァンヤン・ギャツォはたずねた。

「私には三人の母がいるの」彼女は感情を表に出さず言った。「ひとりはもうこの世にいないの。ひとりは逃げたわ。もうひとりはいつもお父様の身辺にいるの」

 彼女は自分の家族のことはしゃべりたがらず、逆に聞いてきた。

「それであなたは? どこのおうちの若旦那なの?」

 ツァンヤン・ギャツォには人をだます能力はなく、うそをつく習慣もなく、そもそもこういうことを聞かれたときの準備をしたことがなかった。彼はただ自分の名がタンサン・ワンポだと言っただけで、それ以外のことは語らなかった。

 パルデンはラサの貴族の氏姓はほとんど知っていた。ときには父母から、あるいは父母の友人から、かなり身分の高い家のプライバシーまで聞いていた。もし名の前に、祖先の領地や荘園、世家の名、封号などがついていなければ、貴族の一門の者とは認められなかった。彼女はツァンヤン・ギャツォに詰め寄った。

「どうして何も言わないの? あなたはユトク・タンサン・ワンポでしょ? それともナントゥ・タンサン・ワンポ? あるいはドゥガ・タンサン・ワンポ? ガペ・タンサン・ワンポ?」

 ツァンヤン・ギャツォはなおもしゃべらなかった。

「いいわ。家族のことを言わないのには、何かわけがあるのね。でもしゃべれないふりをするのはやめて。私も何も聞かないから」

 パルデンは彼を一瞥して、ため息をついた。「私が好きなのはあなたよ、名前や位ではないわ。そうでしょ?」

 パルデンは料理とともに、大麦酒の入った酒壷を運んできた。豪勢というわけではないが、宮中の食事とくらべても多様さにおいてはひけをとらなかった。

 ツァンヤン・ギャツォは彼女が肉屋で作り事を言った理由がわかったと思った。しかし彼女の情熱と率直さにはほれぼれとした。

 物憂い雰囲気だった彼女は一変し、ツァンヤン・ギャツォを積極的に誘った。ふたりは三杯ほど大麦酒を飲んだ。酒とはこんなにも甘く、おいしいものだったのか。ふくよかな香気のなかにはわずかの酸味があった。タルゲネが選んだ牛肉も新鮮でうまかった。

 すでに黄昏時だった。彼女はなおも、ツァンヤン・ギャツォに慇懃に酒をすすめた。いくぶん酔いがまわっていたが、ツァンヤン・ギャツォはポタラ宮に戻らなければならないことは自覚していた。正門が閉ざされ、ダライラマがいないことにゲタンが気づいたら、宮内は大変な騒ぎになるだろう。それはよくないことだ。

「もう戻らないといけない」ツァンヤン・ギャツォはそう言って立ち上がった。

「そんな……。いてくださるんじゃないの?」甘えた声でパルデンは言った。

「いや……。絶対戻らなければならないんだ」

「私、友だちじゃないの?」彼女はぷんとして言った。

「いや、もちろんすごくありがたいと思ってるよ」

「ありがたいですって?」

「……」

「いつまた来てくださって、ありがたがってくださるのかしら?」

「明日なら」

「明日ね。じゃあ家で待ってます。男児の約束よ」

「鞘から出した刀は切るもの。口から出した約束は守るもの。明日かならず来るよ」

「かならず来てね。針がなくならなければ、糸も恥をさらすことはないわ」

 彼女はツァンヤン・ギャツォの肩に触れながらささやいた。

「何かちょうだい。記念になるものを」

「もちろん」

「恋人に珊瑚を贈っても何の価値もない。心がこもってなければ黄金を贈ってもありがたくない。高いものはいらないわ。お金に困ってるわけじゃないもの。私はただあなたの気持ちがほしいだけなの」

 パルデンはツァンヤン・ギャツォに近づき、目を閉じたまま、顔を上げ、唇を差し出した。

 ツァンヤン・ギャツォは目くるめくように感じながら、パルデンの肩を抱いた。彼女はつま先で立ち、唇をすぼめた。ふたりは唇をあわせた……。

 室内は暗くなっていた。夕日はすでに山に落ち、ツァンヤン・ギャツォはあわてて地上に駆け下りた。飄々と、かろやかに大またで歩き、残照に輝くポタラ宮に向かった。