ダライラマ六世、その愛と死 

宮本神酒男翻訳 

 Photo:Mikio Miyamoto

17 三本の矢と三つの誓い 

 ユドン・ドルカルはヤンツォンの酒店にたまにだがやってきた。父親がひどく落ち込んでいると、彼女は酒で憂さ晴らしさせようと、連れてくるのである。彼女が酒店に来るたびにヤンツォンはあれこれと、こまごましたことまで熱く語り、いつくしみのある、愛情のこもった目で彼女を見た。そしていつもより多めに酒をすすめるのだった。そうするうちにヤンツォンはだんだんと女主人のことが好きになった。話に感銘を受け、尊敬の念を抱くようになった。六年前に母親を亡くした二十歳前の娘は、まだまだ母親の愛情に飢えていた。

 ヤンツォンは強く求めるような口調で彼女に言った、ある才能豊かな青年があなたと会いたがっていると。ユドンはいささかためらいをしたものの、拒絶はしなかった。彼女はヤンツォンのことを信じ切っていた。少女特有の恥じらいと誇りを持ちながらも、気兼ねしないわけでもなかった。彼女はツァンヤン・ギャツォが指名していた離れに近づいていった。警戒心を解いたわけではなく、まず遠くから眺めて、門が開いていること、そして窓のすだれも開いていることを確認し、ほっとした。

 彼女が思い切って門から中へ入ると、ツァンヤン・ギャツォは立ち上がった。ふたりは何も言わず一瞬見つめあったが、すぐに互いに席を譲り合った。女主人のヤンツォンは上席に招いたほかの貴賓と同様に彼らを扱った。すなわちお酒と肴を選ばせたあと、申し訳なさそうに言った。

「おふたりとも手酌でお願いします。ほかのお客さまに呼ばれてしまっていますので。わたしたちはみな気心知れた間柄です。どうか気がねなくやってくださいな」

 ユドン・ドルカルは満足しながらも注意を怠らなかった。ヤンツォンが出ていくとき、門を閉めなかったことにも気がついていた。

 ツァンヤン・ギャツォはこのよく知らない娘をじっくりと観察した。彼女の美貌についての評判は根拠のないものではなかった。だれも否定できない、際立つ美しさだった。あたかも見慣れた夜空に突然現れたあかるく美しい月のようだった。遠くからただ眺めるのではなく、いま彼女に近づくことができた。彼はつねに美しいものを愛する者ではあるが、外形の美しさに捕らわれすぎると、錯覚を起こしてしまうものだ。女性は美しければ美しいほど情がない、と。

「聞きたいことがあれば何でも聞いて」ユドン・ドルカルは率直に言った。

 ツァンヤン・ギャツォは心の中で思った。質問をしてもいいということはつまり、私のことを悪くは思っていないということだ。いや、表向きは何も気にしないと言いながら、それを口実にしているなら、そのまま受け取っていいものだろうか。すでに私のことを友人とみなして紹介されているのだから、友人同様の扱いを受けても当然ではないか。

「あなたはコンポの人とお聞きしました。どうしてラサにいらっしゃったのでしょうか」ツァンヤン・ギャツォはお茶を入れながらたずねた。

 ユドンはつらい思いを噛み殺すように下唇をかすかに噛み、ゆっくりとこたえた。

「そうです、わたしはコンポの出身です。もともと三人家族でした。ポタラ宮殿の建設工事のため兄が徴用され、ラサにやってきました。ところが工事のときに岩が落ちてきて、兄はつぶされてしまったのです。兄のことは宮殿の中の壁画にも描かれています」

 ツァンヤン・ギャツォは茫然とした。壁画の絵を彼は見たことがあった。人が岩に押しつぶされたさまは記憶に深くとどめられた。しかしその人が目前にいるかわいらしい娘の兄だったとは。宮殿の寝室の間の下に彼女の兄の鮮血がしみ込んでいると考えただけで、彼は身震いした。

「四年前、わたしの母カルマはポタラ宮の建設が完了したというのに息子が帰ってこないことを不審に思い、気が触れたかのようになってラサにやってきました。そして壁画に息子の姿を発見したのです」

 この件についてツァンヤン・ギャツォはだれかが話すのを聞いたことがなかった。おそらく宮中では不愉快なことについて語りたがらないのだろう。あるいはそもそも語るに値しないことだったのか。彼は急いでつぎの質問を発した。

「そのあとどうなったの?」

「そのあと母はディパどのに謁見しました。そこで母は一杯の聖水を賜ったのです。母は喜んで聖水を飲み、死にました」

「ああ、なんという不幸……」ツァンヤン・ギャツォは頭を垂れた。

「地元にロンシャという名のおじいさんがいます。母が死んで二日後、ロンシャは我が家の門の上に馬の鞭を掲げました。年長の人のこの習慣、ご存じだと思うけれど」

「いや、知らない」

「知らない? そんなことありえるの?」

「ほんとに知らないんだ」

「これはつまり、わが家に来なさい、寝ていきなさいということなのです。もし拒み、従わないなら、鞭で打ちます、ということなのです。わたしは独り身の女になりました。農奴も返さないといけません。わが境遇はとてもあやういものでした。象の脚の下の卵のようなものでした。雪嵐の中の灯明のようなものでした。粉砕するか、息絶えるか、それしか残された道はなかったのです」

「どうやって切り抜けられたんだい」ツァンヤン・ギャツォは答えを知りたがった。

「善良な隣近所の人たちがいろいろな考え方を教えてくれました。ある人は言いました。雄の鷹は天高く羽ばたくが、雁はただ池や沼を守るのみ、と。ある人はいいました。蟻の巣食う門のそばに虫は死ぬ。豹や狼のいる門のそばに羊は死ぬ、と。ある人は言いました。頭を下げているのに、だれが馬に乗ることができようか、と。ある人は言いました。大草原に至ったのに、テントを立てる場所がないなんてことがありうるだろうか、と。彼らは直接的には言ってないのですが、わたしは彼らの言わんとすることが理解できました。わたしは仮装して川辺に水を汲みに行きました。途中で桶を捨て、西へ向かって走って行ったのです。そのあとは巡礼の人込みのなかに紛れてラサに到着したのです」

「ああ」ツァンヤン・ギャツォは重荷を下ろしたかのようにフウッと息を吐いた、いまだ恋人ではない彼女が恋人であったならと願いながら。彼女がどんなひどい目に遭ってきたか、同情しているというわけではなかった。彼女の強さに敬服していたのだ。

「ほかに聞きたいことはあるかしら」ユドン・ドルカルは自分のことすべてを彼に話したがっているようだった。

「ラサにお父さんがいるって聞いたんだけど」

「そう、でも血のつながったお父さんじゃないんです。ドルジェという名のとても善良な老人で、もともとチベット歌劇の役者でした。でものちに失明してしまった。それでわたしはプル(毛織物)を編んで生計を立て、父を養うようになりました。父は口に出しては言わないけど、生きている間にわたしが嫁に行ってしまうのを恐れていました。わたしにはよくわかるんです。父は老朽化して倒れそうになった家みたいなもの。わたしは家を支えている一本だけ残った柱。わたしは父の唯一の慰めであり、楽しみだったのです。もしわが家に人がやってきて、それが男の人だったら、父の顔は険しくなる一方だと思います。父は自分本位の人間じゃありません。もし父のもとを離れることになるなら、わたしもどうしたらいいかわかりません」

「あなたに恋人はいないの?」

「いました。トプテンという名で、やはりコンポの人でした。いっぱしの若者です。からだは頑丈で、ヤクのようでした。だけどわたしの前では子羊みたいにおとなしくなりました。下僕よりも言うことを聞いてくれたのです。常日頃から癇癪を起こすようなことはありませんでした。男の人っぽくなかったのです。骨のない毛虫みたいでした。その目には憐憫を乞うところがありました。でも抜け目ないところもすこしありました。どこがよくないとまでは言えません。でもどういうわけか好きではないのです。心の底から嫌悪を感じるのです」

 彼女はツァンヤン・ギャツォに目をやり、一呼吸置いた。そしてふたたび話し始めた。「わたしはほんとうのことを話しています。のちにわたしは重い病気になり、十日あまり臥せていました。父はわたしを看護することはできませんでした。子供と一緒で泣いたりわめいたりしかできませんでした。トプテンは昼も夜もわたしを守ってくれました。いつもわたしのそばにいたのです。そんな感じで慎み深く見えました。慎み深いと、人は恐ろしいと感じるものです。わたしはあの人の挙動をよく見ました。彼の表情を観察しました。その結果病気を患っているのはわたしではなく、あの人だとわかったのです。あの人の病気はわたしの病気の十倍は重いのです。でもわたしがあの人の病気を看護したところで治療ができるわけでもありません。これは何という病気なのでしょうか。うまく言うことができないのですが、いつも名前を考えに考え、信仰狂がいちばんふさわしいのではないかと思いました。あの人はわたしを愛しているわけではありません。わたしを信仰しているのです。わたしにたいする信仰はあの人の人生における最大の楽しみなのです。それがすべてといってもいいでしょう。わたしはあの人を楽しませようと考えたことはありません。ただし感動させられることもあるのです。感激せざるを得ないこともありました。感激と愛情はまた異なるものなのですけど。それらがとても近いと思えるときもありました。他人から見たら違いがわからないかもしれません」

 ツァンヤン・ギャツォの心の弦(いと)は弾かれて大きな音を奏でた。なんと聡明な、しっかりした考えを持った娘だろうか。なんと率直で、善良で、熱い心を持った娘だろうか。俗に言う、率直な性格の人は一生の宝であると。この何年か、タルゲネのところにいた時期を除き、こんな率直な話をする機会はほとんどなかった。秤が軽重をはかることができるように、言葉は人の品をはかることができた。弓が曲がれば曲がるほどいいように、人はまっすぐであればあるほどよかった。彼は自分の心とユドン・ドルカルの心が急速に接近しつつあることを感じ取っていた。

「わたしの体の調子がよくなると、三日連続でわたしにまとわりついてきて、結婚しようと迫ってくるのです」ユドン・ドルカルは声を落として言った。「わたしはこたえませんでした。それではっきりと言ったのです。もしあなたが夫になるとしても、それは愛する人になったという意味ではありません、と。あの人ががっかりして、憔悴し、怒っているのがわかりました。もともと言葉でうまく表すことができないのです。ほかに耐え忍ぶ方法を知っているわけでもありません。小刀を取り出してわたしの胸元につきつけ、わたしが心を寄せている人はだれかと迫ってきました。わたしには答えようがありませんでした。わたしに対する信仰は、嵐の中のテントの支柱のようにぽっきりと折れてしまったかのようでした。かえってこのほうがよかったのです。もうまとわりつかれることがなくなったのですから。聞くところによると、のちにトプテンは仏門に入ったということです」

「あなたが自分を本当に愛しているわけではないことを悟り、彼は心痛に耐え切れず立ち去ることにしたのは賢明であったといえます」ツァンヤン・ギャツォは言った。「彼の自業自得という面もあるでしょう。でもあなたを恨んでいる可能性もあります。愛情というのは川の流れのようなもの。嫉妬という渦に打ち勝つのは容易ではない」

「あなたがおっしゃる嫉妬とは、あなたへの嫉妬ということかしら」ユドン・ドルカルは聞いた。

 この問いが薄くなっていた彼らの間を隔てていた「紙」を破るきっかけとなった。ツァンヤン・ギャツォは彼女の手を握ろうとしたが、ユドン・ドルカルは両手を背中に引っ込めた。

「聞いたところによると、あなたは詩を作るのがとてもうまいそうね」彼女は話題を変えた。

「だれがそんなことを」

「あなたの友だち、タルゲネよ」

「ぼくは詩が大好きだ。でも作るのは得意じゃない」

「詩を二首詠んでくださらないかしら」ユドン・ドルカルは天真爛漫に要求してきた。

 ツァンヤン・ギャツォは突然面接試験に臨んでいることに気がついた。才能を愛する彼女は、彼に才能と学問があるかどうか試そうとしているのだ。彼の中に喜びが沸き上がってきた。なぜなら、お金を愛する娘より才能と学問を愛する娘のほうがはるかに価値があるからだ。

「どんな題がいい? 言ってくれれば、それで作ってみるから」彼の自信は揺らがなかった。

「そうね……、わたしとトプテンのことを読んでみて」

「わかったよ」ツァンヤン・ギャツォの目がきらめいた。時をおいてから彼は言った。「あなたの代わりに歌を詠みます」

 

コンポの若造の情(こころ)は 

蜘蛛の巣に囚われた蜜蜂のよう 

三日もがんじがらめになり 

ついには仏法に帰依して救われる 

 

 ユドン・ドルカルはおかしくてたまらないといった風だった。「あなた、わたしのかわりに皮肉ってくれたのね」

「こんどはトプテンのかわりに詠んでみるよ」

 

四角い柳の林の中に 

画媚鳥が棲みジージーと鳴いている 

というのもあなたの心根がとてもむごくて 

ぼくらの愛情はもう終わってしまったから 

 

「あの人のかわりにわたしに恨みをもってしまったのね」彼女は不服そうに言った。「女性への熱愛が転じて仏教への愛になった、でも心のむごい女性はその心境に達していないってことね」

 ツァンヤン・ギャツォの心に何かが突き刺さった。たしかに自分は仏道に励んでいるわけではなく、女人に熱を上げているのだ。

「あなたは仏門に入ることはできないのね」ユドン・ドルカルは聞いた。

「お坊さんになったら拒絶するんじゃないの?」ツァンヤン・ギャツォは反問した。

「もし拒絶しないとしたら?」

「もし僧侶になっていたとしたら、還俗しなくちゃ」

 彼はそう言いながら手を伸ばし、彼女の手を握ろうとした。今度は拒まなかった。拒むどころか、強く握り返そうとした。握るだけでなく、撫で、さすり……。快活に話していた彼女はいま押し黙っていた。

 このときちょうどヤンツォンが入ってきた。ふたりは同時に気づいたのだが、握りあった手はそのままだった。あたかもその場にはほかに人がいないようだった。あるいは意図的に発表しているかのようだった、だれが秘密を目撃しようとも、隠し立てするつもりはない、われらは愛し合っている、その結果どうなろうとわれわれ自身がすべての責任を負う、と。われらはあなたからコソコソ逃げようとはしない、いかなる悪い考えを持ってはいない、と。もしあなたがこれをよくないと考え、われわれを避けようとするならそれもいいだろう、そしてここから出ていけばいいだろう、と。

 ヤンツォンは出ていこうとはしなかった。そこでキョトンとしていたのである。しばらくして我に返り、ことわざを口にした。「いい馬に鞭はいらない、愛情があれば仲人はいらない、てことね」

 

 太陽は無情にも西の空に没した。彼らは離れがたかった。

 この日の夜半、ユドン・ドルカルは眠ることができなかった。興奮がおさまらず、頭は冴えきっていた。まさに率直な性格が天性のものであるように、芸術的気質も天性のものだった。

 この気質はコンポ地区で、川の激しい流れや森林、雪峰、花鳥、そういったものが滋養となって育まれたものだった。のちに歌や踊り、チベット歌劇が滋養となり、そして父の歌や弦楽器の演奏によって才能が花開くことになった。現在はタンサン・ワンポの才能や学問、詩歌、文学も肥やしになっているのだ。彼女がどれだけ詩を愛しているか、深く理解しているか、詩を聞いてその世界に没入し、いかに心を動かされているか、凡人には想像もつかないだろう。彼女は芸術に対してあけっぴろげで、すぐれた詩人の友となることができた。そして彼女自身詩と同様に誠実で、情熱的で、美しく、人を動かせる魅力を持っていた。いま、横暴で、卑しく、身勝手で、平凡で、武骨な男たちの合間にタンサン・ワンポを発見したのである。

 地位の高いところから彼女を独り占めしようとしたロンシャとは違っていた。横から突然襲ってきたトプテンとは異なっていた。タンサン・ワンポは正面から対等の友としてやってきたのだ。ずる賢い目ではなかった。おどおどした歩き方ではなかった。強欲な俗物ではなかった。利害を計算して近づいてきたわけではなかった。まるであこがれの君が実在する者に変身したかのようだった。彼の愛を受け入れるかどうかはまだ決めていなかった。とはいえ彼女はすでに彼を愛していた。いまだ経験したことのない幸福を感じ始めていた。ただ一つ心苦しい点があるとするなら、それは父にうまく説明できないことだった。

 この日の夜、ツァンヤン・ギャツォも眠ることができなかった。いろいろと比較してみた結果、ユドン・ドルカルこそが理想の恋人であると確信するようになった。半日間接触してみて、相手方も誠実であることがわかった。とはいえ自分のことを愛してくれているかどうかとなると、確信が持てなかった。彼女の心を得ることができるだろうか。それは得るべきかどうかよりもはるかに人を困惑させる問題だった。どんなものだって失ってもかまわなかった、彼女を失うことと比べれば。彼はあせりを感じ、恐怖をさえ覚えていた。昼間、彼女に心中の愛する気持ちを伝えることができないのではないか、さらに親しくなる機会がないのではないかと恐れた。口をついて詩が出てきた。

 

心は彼女についてどこかへ行ってしまった 

夜は安眠できない 

昼は願いが叶わない 

気持ちは冷たく心は灰になった 


 夜の間ずっと彼は寝宮の中を歩き回った。目の前の壁の上には弓矢が飾ってあった。ふと自分は矢のようなものだと悟った。ただしこの矢がユドン・ドルカルの心に命中したかどうかはわからなかった。いや、と彼は考え直した。この矢はユドン・ドルカルであると。それは彼の心にすでに刺さり、痛みだけでなく、大量出血ももたらしていた。しかもそれを抜くことができなかった。

 カタ(吉祥スカーフ)が積み重なって山のようになっていた。彼女に対する彼の気持ちはこのカタ以上に純白だと思った。そのカタの白い布地の上に彼女の面影を描いた。卓の上には公的な書信が置かれていた。これこそ権威の象徴である。とはいっても彼女自身の手紙のほうがはるかに人を動かす力を持っていた。彼は窓の外の上弦の月を見た。彼女の彼に対する気持ちはこのようなものかもしれない、つまり心の底からの愛ではないのではないか。

 このように考え始めると彼は眠れなくなり、あたりを歩き回ることになるのである。


 翌朝早く、タルゲネがやってきた。彼はツァンヤン・ギャツォとユドン・ドルカルのはじめての面会がどうであったか気になってしようがなかった。そして彼がまだやることがあるかどうか聞いた。

「目や顔色を見ますと昨夜はよく眠れなかったようですな」彼は愛情のこもった聞き方をした。

「よく眠れなかったのではない。そもそもまったく眠っていないのだ」ツァンヤン・ギャツォは苦笑した。

「どうでした? ユドン・ドルカルはお気に召しましたかな。かわいいと思われましたか? とてもかわいい? 愛せますか? そうでもない?」タルゲネは門を開き、山や大地を見ながら質問した。あたかも調査表の項目を読み上げるかのように。

「答えたくないな。昨夜書き記したいくつかの詩がある。それを聞けばわかってもらえると思う」ツァンヤン・ギャツォは卓の上の手稿を手に取った。

「わかりました。あなたの詩にはいつも本当のことが書かれていますからね。あなたの詩を聞けば、あなたの気持ちのすべてがわかります」タルゲネは姿勢を正して一言も聞き漏らすまいとした。

 ツァンヤン・ギャツォは詠み始めた。

 

ゆらゆらと揺れて光る白いよき弓 

弓を放つ準備は整ったか 

あなたが心から愛する恋人はわたしだろうか 

虎皮の矢筒の中で待つばかり 

 

麗しい眼は湾曲する弓のごとし 

心と弓は似たものなり 

放たれた矢は射止めただろうか 

心が熱く燃えているのはそのためか 

 

弓は白鳥に見事に当たった 

矢尻は深く突き刺さった 

たまたま出くわしたのか、わが恋人よ 

魂は彼女とともに飛び去った 

 

「すばらしい!」タルゲネは叫び声をあげた。「あなたのこの三首の詩はどれも矢のことをうたっている。だから三本の矢の詩と呼ぼう」

 ツァンヤン・ギャツォはあらたに詩を口ずさんだ。

 

紙の上の印章で 

胸の内をぶちまけることはできない 

誓いの印章を手に取って 

ふたりの心の上に印を押して 

 

湾曲する三日月 

満天に散りばめられた銀の光 

わたしに誓いを立ててください 

満月のように欠けるところのない誓いを 

 

心は清らかなカタのよう 

純朴でこのうえなく美しい 

もし真心というものがあるなら 

心の上に書き記してください 

 

「うまいな! この三首の詩はユドン・ドルカルに愛の誓いを立てさせるものだな」タルゲネの感想は的確だった。

 ツァンヤン・ギャツォは彼が言おうとしていたことを引き継いで言った。「ということは三つの誓いの詩ということになるのか」

「そのとおり。先に言われてしまったな」

 ふたりは会心の笑みを浮かべた。

 そのときゲタンが入ってきて報告を奏上した。「デシとラザン汗さまが議事庁でうやうやしくお待ちです」

「いったいどうしたんだ」ツァンヤン・ギャツォは笑みをしまいこんだ。

「はっきりとはわかりません。おそらく政務に関することと思われます」ゲタンはこたえた。

「わたしは政治のことはよくわからないので、参加したくないのだ。チベットの民は口癖のように言うではないか、大事はディパが管理する、と。ラザン汗も能力が非常に高いと聞く。彼らが話し合ってくれればそれでいいだろう」。ツァンヤン・ギャツォは手を振って見送ろうとした。この種の「うやうやしく待つ」というのは恒例行事にすぎなかった。

「わたくしは何と説明すればよろしいのでしょうか」ゲタンは六世の話をうまく呑み込めていなかった。

「あなたには見えていないのか」ツァンヤン・ギャツォはタルゲネを指さした。「おちらにおられるのはわたしの客人だ」

 ゲタンはうなずいて部屋を出ていった。

 ふたりはまたも会心の笑みを浮かべた。

 ツァンヤン・ギャツォは言った。「いまこうやって語り合っていることをどうやって伝えればいいのか」

「三本の矢と三つの誓いを彼女のところで詠むというのはどうだろうか」タルゲネはいい考えを示した。

「それはいいな。でもどうやって詩を詠むのだ?」

「暗記すればいいのですよ。一度聞いたものは全部覚えることができます。信じられないというのなら、聞いた詩を全部詠んでみましょう」タルゲネはそう言って最初から最後まで一字一句の間違いなく詠みあげた。

「じゃあ急いで行ってくれ」ツァンヤン・ギャツォはユドン・ドルカルがこの詩を聞いている場面を早くも思い浮かべていた。彼女はある程度感動してくれるだろう。涙を流すかもしれない。眠れず、徹夜して作った詩である。彼女のためにうたった詩である。ほかの人が聞いて、見て、理解できるかもしれない。しかしもっともよく理解できるのは彼女をおいてほかにいない。

 ツァンヤン・ギャツォはこのようなことを考えていたので、いつタルゲネが出ていったかわからなかった。

「なんとすばらしい友だろう。わたしの物思いににふける心を乱さないためにそっと出ていったのだ」彼はひとりごとをつぶやきながら窓に近づいた。タルゲネの姿はどこにも見えなかった。見えるのはヤンツォンの酒店から上がる炊飯の煙だけだった。煙のにおいをかぐことはできなかったが、上等なチベット香よりもさらにかぐわしいことはまちがいなかった。

 

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