ダライラマ六世、その愛と死 

宮本神酒男翻訳 

 

19 雪上の足跡 

 ツァン地方の名城シガツェはニェンチュ川平原にある。ラサ川(キチュ)河谷にあるラサと比べると、より広く平坦である。しかしツァンヤン・ギャツォの心はポタラ宮にいた時よりも憂鬱だった。

 比丘戒(ゲロン戒 dge slong gi sdom pa)を拒絶した彼の態度はだれも変えることができなかった。沙弥戒(ゲツル戒 dge tshul gyi sdom pa)を無効にする行動もパンチェンラマ五世にとっては容認しがたかった。しかしすでに彼は自ら無効にしていたのである。こうした内幕について知っている人はわずかだった。そのわずかな各方面の長たちにはあきらかだった。彼らはこのことを広く知らせるわけにいかず、かといって秘密を守るのも容易ではなかった。教派の長が戒を受けないというのは尋常なことではなかった。それはまずパンチェンラマ五世のメンツをつぶした。デシの座を揺るがした。黄教(ゲルク派)の威信を著しく低下させた。ラザン汗だけが冷泉沈着で、状況をよく観察し、事態の変化を見守った。いわば超然としていたわけだが、同時に自分の兵馬の鍛錬を継続させた。

 デシとパンチェンラマの出発点は違っていたが、共通する考え方もあった。それは六世を引き続きタシルンポ寺にとどめるということである。彼が改心し、戒を受けることもありうると考えたのだ。

 ツァンヤン・ギャツォには彼らの狙いがよく見えていた。そのため黄教(ゲルク派)の規律には拘束されたくない旨を表明した。そして世俗の衣装を着て町に繰り出した。これはパンチェンラマが彼に付けた侍従たちへ見せつけることでもあった。彼は水汲みに来ていた娘に好意を示した。これは彼の還俗の決心が固いことを示していた。

 娘の名はジャンヤンだった。人を魅了する二つの点があった。眉毛がとても細く、肌が著しく白かったのである。しかし人に対して気を遣わず、感情に動かされないようだった。ツァンヤン・ギャツォは川辺から町まで不自然なほど慇懃な物腰でいっしょに歩いた。しかし彼女は一言も発さず、頭を垂れたままだった。怒っているわけではなかったが、笑顔もなかった。家の門に着いたところで彼女は一言だけ言った。「お兄さん、人まちがいですわ」そして門を内側からしっかり閉めた。

 ツァンヤン・ギャツォは苦笑した。人生に意味はあるだろう。ほかの人を拒絶することもできるだろう。ほかの人の拒絶にあうこともあるだろう。人々が拒絶したり拒絶されたりする理由は千差万別だろう。この水籠を背負った女は少なからぬ人を拒絶してきたのではなかろうか。彼女が拒絶する理由とは何だろうか。自分の美貌に関して傲慢になっていないだろうか。美しさは幸運をもたらすと。かわいらしいのはまちがいない。しかしそれが永遠につづくものではない。寺院に戻った彼は三首の詩を詠んだ。

 

わが心はあらたにつどう雲のよう 

あなたに恋し、愛を求める 

あなたの心は無情の狂風のよう 

雲は吹き飛ばされて散り散りに 

 

木船は心を持たないけれど 

馬は首を回して後ろを見回すこともできるだろう 

心も義理も持たない人よ 

振り返って一顧もしてくれないのか 

 

あなたの白く明るい顔は 

まるで十五夜の月のよう 

月の宮殿に玉のうさぎが棲む 

その寿命はかえって長くない 

 

 ダライラマ六世はかなりの注目を浴びていたので、彼と水籠を背負った娘とのひそひそ話はタシルンポ寺院のなかでたちまち広がった。これ以降ツァンヤン・ギャツォは「外部の家主から部屋を借りて、人妻と寝る」何人かの高官貴人のこと、また数知れない袈裟を着た人の浮名に思いを馳せ、公平でないと感じた。彼は詩を書いた。

 

私と嘴の赤いカラスは 

会わないのにあれこれ話し合いに忙しい 

あちらとハイタカ、タカ、ハヤブサは 

集まるもののかえって無駄話がない 

 

 彼は意図的にこの詩をパンチェンラマに見せた。パンチェンラマは六世が約束を反故にし、すでに境界線を越えて放蕩生活を送っていることがわかった。彼は完全に失望してしまった。人それぞれに志があり、水それぞれに路(みち)がある。責任を問うたところで意味がないだろう。彼はディパと話し合い、ポタラ宮に六世とともに戻ってもらうよう頼んだ。

 ツァンヤン・ギャツォはポタラ宮に戻ったが、悶々として少しも楽しくなかった。というのもデシが八方手を尽くして何としても彼が下の恋人と会うのを阻止しようとしていたからだった。

 デシはゲタンに意見を聞いたあと、六世の体のことを気にかけていた。彼はゲタンから六世の最新の詩作を見せてもらった。そしてすぐに彼と会うべきだと考えた。その詩はつぎのようなものだった。

 

わがやせ衰えた面影をごらんなさい 

愛する人のために私は病に臥せています 

やせて骨と皮だけになってしまいました 

百人の医者でも治すことができないでしょう 

 

 サンギェ・ギャツォがダライラマの寝宮にやってくると、ツァンヤン・ギャツォがちょうど自作の詩を呻吟しているところだった。詩にどっぷりとつかり、心はかき乱されていた。そのやせ衰えた頬の上を涙が伝わっていた。六世の体を見ると詩にうたわれているような虚弱な肉体には見えなかった。しかし健康的な若者にも見えなかった。サンギェは文化的素養にあふれた人間であり、芸術的角度から見てツァンヤン・ギャツォに偉大な詩歌の才能があることには早くから気づいていた。現在の状況を見ると、鳥かごの中で空を見上げて鳴く小鳥のようだった。憐憫の情を覚えずにいられるだろうか。

 サンギェは慇懃に六世に食事や生活について質問した。そしてうやうやしく言った。「必要なものがあれば、どうぞなんでもお申し付けください」

「わたしに何が必要か、おまえはよく知っているだろう」六世は不満そうに言ったあといつものように窓際まで歩いていった。そこから春の陽の空を見上げたまま動かなくなった。

「なんとおっしゃいました?」サンギェはしばらく黙ったままため息をついた。「よく言うではありませんか。青春は虹のように短い。生命は花のようにすぐ散ると。お体を大事にするよう諸仏にお祈りください。心を静めて瞑想修業をしてください。その他必要なことがあれば、わたくしがなんでもいたします」

 ツァンヤン・ギャツォは突然体を翻すと、二つの目で直接サンギェを見つめると、大声で言った。

「権力など、おまえにくれてやるわ! そのかわり、おれには自由をくれ! 自由をくれ!」言い終わると彼は頭を抱え、座り込んだ。

 サンギェは感極まった。不愉快なことを論ぜぬにはいられなくなった。政治的な経験から、いま、冷静でなければならないこと、ある程度は譲歩をしなければならないことがわかっていた。

「ゲルク派の教主としてあなたさまは自由であります。自由なのです」サンギェはゲルク派であることをことさら強調した。

「でも宮門を出て自由にふるまうことができないじゃないか」六世は食い下がった。

「法王さま、そのようなことは……。なさらないほうがよろしいです。もし公園を散歩するだけならかまいませんが」

「そうなのだ」六世はデシの言葉尻を捉えた。「公園に行きたいのだ。わが骨は錆びついてきている。馬術や弓術はみな下手になってしまったぞ」

「これはわたくしの責任であります。わたくし自身馬に乗っておりませんし、弓矢もしばらくやっておりませぬ。とはいえデシたるもの、あなたさまの助手たるもの、苦労を惜しまず公務に励みます。あなたさまには活動が必要です。御聖体には活動がなければなりません。明日よりあなたさまはつねに公園にいらっしゃってください。ですが安全のために外部の人には悟られないようにせねばなりません」サンギェはこれで暇を乞うつもりだった。この場はこれで収まったと思ったのだ。

「わたしには考えがある」ツァンヤン・ギャツォの詩人ならではの想像力が沸き起こってきた。「ポタラ宮の後ろの石壁に小さな門がある。ここのように使用していない通路がたくさんあり、階段だらけだ。これらを利用して直接公園に行くことができるはずだ。人から見られることもないだろう」

 たしかに彼が言うとおり多くの通路、階段が実在した。建築士のように彼は細かく計算することができた。彼は興奮し、心の中に充満していたモヤモヤをそちらに発散させようとした。

 彼はサンギェの明確な回答を待った。この扁平頭のデシの頭は、ときにはよく切れ、いいともよくないとも言い、表情からは賛成か反対かわからなかった。ツァンヤン・ギャツォはつぎつぎと質問を浴びせたが、彼は一声も発さず、押し黙ったままだった。こうしたことがらに関し、沈黙を守ることで自分の態度をはっきりと現さないのは一つのやり方だった。それは処世術であり、処亊術ともいうべき才能だった。これは学べば習得できるものではなかった。あなたが急いでいても、怒っていても、最後にはまとまっているのである。彼の手に権力があるかぎり、彼がうなずかなければことは進まないのである。

 デシが黙り込み、座りも歩きもせず、いいとも悪いともいわない態度にツァンヤン・ギャツォはしびれを切らした。彼は矢筒から一本の矢を取り出し、パキっと半分に折ってデシの面前に置いた。

「もしこれらの要求に対して応答がないなら、今日からいかなることがあろうと袈裟を着るのを拒否するぞ。わたしをポタラ宮から出しても問題ないだろう!」

 サンギェはあわてて、言い訳がましく言った。「どうか怒りをおさめてください。わたくしはただ宮城の壁の土を壊すのは、冒涜することになるのではと恐れているのです」

「わたしこそが神王ではないのか。あなたがたみなが承認したのではないか。清の皇帝もモンゴル人もみな承認したのではないのか」

「そうです。もちろんです。吉兆の日を選んで……」

「わたしを選んだ占術師の占いがよかったのだろう」

 デシ・サンギェ・ギャツォはダライラマ五世が崩御したときにはじめてダライラマの権威というものを実感した。七年前、清の皇帝の勅諭を拝聴したあと、譴責される気分を味わった。このゲルク派の反逆者が矢を取り出したとき、それが彼の頭に射られたように感じたのである。

 

 ポタラ宮後部の城壁に側門がついに掘られた。ツァンヤン・ギャツォが出入りするための通用門である。とはいっても侍従はどこまでもついてきた。彼が怒るのは勝手だったし、懇願するのもかまわなかった。しかし彼らを振り切ることも、追い返すこともできなかった。彼らは厳格なデシにあらがうくらいなら、善良なる生き仏に罪を着せるほうがましだった。デシの命令は絶対だった。というのも六世が戒を拒んだ事件以来、ラザン汗が彼に対して放った冷厳な眼光を忘れられなかったからである。ダライラマ五世崩御のさい死を秘して葬礼を行わず、ツァンヤン・ギャツォを転生として認定し、彼が15歳になったとき突然ダライラマの座に就くことを発表した。これらはすべてデシが導いたものだった。彼はグシ汗の子孫たちに屈辱を与えていたのである。彼らはこのことをそんなに簡単に忘れることはできなかった。六世の放蕩生活は彼らに報復の口実を与えた。だからこそデシは六世に単独の行動を許さなかった。ただし今になってようやくこのようなことをやっているのでは、遅きに失したということを多少はわかっていた。本当に一方に気を取られていると、他方がおろそかになるものだ。

 まず彼は六世が政治宗教の実権を握っていることに夢中になり、名称と名声が一致する優秀な助手をお払い箱にするよう気を配った。この若い教主に好き勝手なことをさせ、ほかのことに興味を持たせようとしたのである。この点に関して言えば、彼は予期していた目的のために力を使うことはなかった。感情豊かな、あるいはひたむきに人を愛するツァンヤン・ギャツォは、デシが満足するところで足を止めることはなかった。ディパが自由を制限しようとも、詩人はそれを完全に無視しようとした。自分があこがれる生き方をかたくなに追及しようとした。デシはツァンヤン・ギャツォが自分に対して敵意を持っていないことを承知していた。まなざしのなかでラザン汗は従来予測しがたい危うい状況ではなかった。根本的に言うなら、彼は子供のように天真爛漫でわがままだった。同時に聡明にして善良、癇癪持ちではあるが、詩を作るのがうまく、その意味では世にまれな子供だった。このような子供が政治の世界に入らず、宗教にも無関係に過ごすのはありえなかった。明るくよく見えるところでは、彼は無理に何かをしようとはせず、耐え忍ぼうともせず、効果的なことをしようとはしなかった。暗くてよく見えないところでは、ディパは彼をあやつろうとし、彼に約束し、必要なときには側面から警告を与えた。事態がここに至ったからには、彼はこのような方法を採用するしかなかった。

 ツァンヤン・ギャツォはお目付け役の侍従から逃げることはできなかった。いろいろと煙に巻く方法を想像したが、どれも試すことはできなかった。唯一の方法は、小門の鍵を奪うことだった。一度命令口調で門番に鍵を渡すよう言ったことがあるが、門番は頭をこすりつけて拒んだ。門番は懐に鍵を入れ、地上にひざまずいたまま死んだように起き上がらず、経文のようなものを唱えていた。

「どうかご容赦お願いします。私のような小さき者は、職務を忠実に果たすだけです」

 門番はユドン・ドルカルに拒まれたあのトプテンその人だった。デシが彼に側門の門番の仕事を与えたのである。彼はすでにデシの信任を得て、腹心となっていた。彼は自分にふさわしい場所があると考えていた。もともと旗を振って大声で叫ぶだけの小ラマのひとりにすぎなかったが、突然ダライラマ専用の小門を単独で管理する職を得たのである。彼の観点からすれば、この門の鍵は官印よりも見せびらかす価値があるものだった。というのもこの鍵はデシから直接受け取ったものだったからだ。この一件以来、彼のデシに対する信仰はより堅固なものになった。彼の心の中でデシに関してつねに二種類の感情が沸き起こった。ひとつは親父がデシを呼んでいた呼称である。もうひとつはさらに忠誠心を呼び覚ますものだった。あるとき彼はすでに役割をもっているように感じた。自分がデシの権力の一部分になっているように感じたのである。またデシとダライラマの間を取り持っているような気がしたのである。

 六世はいつも黄昏や黎明のときは不在で、天気がよくないときは公園に行ってぶらついた。トプテンはこの時間を利用して惰眠を貪った。ただし忠誠を尽くすため番犬として黄色い犬を探してきた。この犬は得難い長者のような雰囲気があり、慈愛にあふれていて、鋭敏でもあった。ツァンヤン・ギャツォはこの犬が大いに気に入ったので、毎回門を出るとき、上質のバターとツァンパを組み合わせた特製の食べ物を持ってきて犬に食べさせた。黄色い老犬は六世に対して特別な感情を持っているようだった。六世を見ると犬はしっぽを振って六世の靴をなめまわした。もともと六世に対して吠えることは禁じられていた。

 ツァンヤン・ギャツォは工芸が得意なラマが作るバター花からヒントを得た。あるとき彼はかためのツァンパを側門に持ってきて、門の鎖をほめたたえながら隙を見てトプテンが持っている鍵をツァンパに押し当てて鋳型を作った。この鋳型のツァンパをタルチンネに渡し、さらに友人の鉄匠に渡して鍵の複製を作ってもらうのである。こうして六世は鍵を手に入れ、自由に出入りすることができるようになった。

 この鍵を手に入れたので、彼はトプテンや侍従らの監視を逃れることができるようになった。彼らが油断しているとき、ひそかに彼は側門を抜け、ユドン・ドルカルとの逢う瀬を楽しんだのである。

 ある冬の晩、ツァンヤン・ギャツォはユドン・ドルカルの家の門を軽くコツコツと叩いた。そして小さな声で彼女の名を呼び、また後ろを振り返った。人影はなく、足音や声も聞こえなかった。ただポタラ宮や近くの薬王山(チャクポリ)の旗が冬の夜の冷たい風に吹かれてパタパタと揺れ動く音と、遠くの野良犬たちの激しい吠え声とポタラ宮の鉄馬がカタカタと立てる音だけが聞こえた。彼は息を飲んだ。十分満足だった。彼はいま詩境と夢境の合間にいるような気がした。

 ユドン・ドルカルは夢から覚めるとタンサン・ワンポの声が聞こえた。なじみぶかい声だった。久しく聞こえなかった、待ちに待った声だった。世界にこれ以上ない心地よい、人を惹きつける声だった。彼女は激しく震える手で服をまとい、門を開けると、愛する人にとびかかり、肩と首に抱きついた。

 彼らに言葉は必要なかった。離れ離れの苦しみ、思いの深さは十分にわかりあっていた。

「なにか贈り物を持ってきたかったけれど、なにがいいかわからなくて……」ツァンヤン・ギャツォはあやまった。ほんとうに苦労したのだ。ユドン・ドルカルのためになにかを買うのは、たとえそれでスッカラカンになったとしても、なおうきうきしているものなのだ。

 ユドン・ドルカルは彼を制して言った。「あなたがどんなものを買ったとしても、わたしには必要ないわ。あなたがわたしを愛してくれているなら、ほかになにもいらない」

 彼女の言葉は真心から来るものだった。ツァンヤン・ギャツォは深く感動した。同時に心の中でつぶやいていた。「そのとおりだ、ユドン。あなたがわたしを愛してくれているなら、ほかになにもいらない。あなたにはわたしの愛がどれほど必要だろうか。わたしにはあなたの愛がどれだけ必要だろうか」

 壁の向こう側のユドンの父ドルジェはタンサン・ワンポが来ていることに気づいていなかった。深い眠り、夜更け、尽き果てようとしている命という三重の暗黒の覆いの下にうずくまっていた。盲人の耳は特別に敏感だった。彼はすぐに娘とタンサン・ワンポが話していることに気がついた。彼は横になったまましばらく考えた。体を起こしてからもしばらく考えた。だんだんと頭の中で激しい論戦が起こっていった。彼は服を着ると、娘の部屋の戸の前に行き、娘の名を呼んだ。

 中のふたりは左右から老人をかかえ、部屋の中に座らせた。そして老人が落ち着くまで待った。

「タンサン・ワンポさまかな?」

「そうです、お父さん」

「わしはいくつかそなたに聞きたいことがある」

「どうぞおっしゃってください」

「そなたはわしの娘を好いておられるのかな」

「よくごぞんじでしょう。とても好きです」

「永遠に愛してくれるかな」

「永遠に愛しますとも」

「わしが世を去るまで娘にはわしから離れてほしくないのだが。できるかな」

「当然です」

「ああいい子だ。わしは娘をそなたに預けたぞ。誓いを立ててくれ」

 ドルジェはまったく目が見えなかったが、ツァンヤン・ギャツォは彼の前にひざまずき、両手を合わせて言った。「わたしはジョカン寺の文成公主がもたらした仏像に向かって誓います……」

 老人は満足げにほほえんだ。そして両手でまさぐりながら興奮して言った。「わしは活仏ではないが、模頂(頭の頂をさすること)させてくれ。おまえたちを祝福したいのだ」

 ふたりが同時に頭を下げると、老人の手が伸びた。老人はふたりの頭を撫でながらぶつぶつと祝福の言葉をつぶやいた。なんと言っているのかだれにもはっきりとはわからなかったが。彼の声はだんだんと小さくなり、撫でている手は弱々しくなった。そしてついに枯れるように老人の手は下に落ちた。

 娘への愛とタンサン・ワンポへの信頼を心にいだきながら安心しきって老人は死んだ。彼の死はまるで透き通った木の葉が音もなくひらひらと地面に舞い落ちるように自然だった。風もないのに灯明の火が燃え尽きて消えるように自然だった。

 ドルジェの逝去に関してタンサン・ワンポは難題を突き付けられることになった。彼は未婚の女性の婿として老人の鳥葬を行わなければならなかった。そしてユドン・ドルカルの今後の生活について考慮しなければならなかった。とはいえ自ら表に出るわけにはいかなかった。ダライラマであるかぎり、普通人がやるべき普通のことをおこなうことができなかった。しかしすでに普通人の生活を追及していたのだが。彼は稲光はあるものの、雷鳴をとどろかすことのできない空のようなものだった。彼は草や花が育つものの、泥土をあらわにすることのできない大地のようなものだった。彼は熱水が湧き出るものの、大海にそそぐことのできない温泉のようなものだった。彼は雲や霞にすっくと立つことができるものの、一歩も動けない山のようなものだった。やりきれなさ、気づまり、鬱々とした思い、遺憾、苦痛、あせり……まるで乱れ打った矢が当たっているかのようだった。とはいえ避けて通ることはできなかった。後悔はしたくなかった。

 彼は忍び泣きしているユドン・ドルカルを慰めながら言った。「緊急の公務があってしばらくは来ることができないんだ。お父さんの葬儀の段取りとかあなたの生活のこととか、友人のタルゲネがすべて按配してくれるはずだ。彼を頼ってほしい」言い終わるとドルジェの遺体に礼をして別れを告げると、ツァンヤン・ギャツォはあわただしく去っていった。彼は夜空を見上げて星を見た。すでに夜半を過ぎていた。急いでタルゲネの肉屋に立ち寄った。

 タルゲネは深夜の突然の来訪に驚いた。あわてて聞いた。「いったいどうしたんだ?」

「ポタラ宮の後ろに側門を作ったのを覚えているかい? 鍵はきみに預けたはずだ」

「で、ひとりなんかい?」

「そうだ、ひとりだ」

「ああ、なんでひとりで勝手に出てくるんだ。いったいどうした?」

「いろいろとあってね。きみにひそかに頼みたいことがあるんだ」ツァンヤン・ギャツォは部屋の中をうろつきはじめた。

「いや、だめだよ」タルゲネは彼を押しとどめた。「彼女のことに関していろいろと面倒なことがあって」

「だれの話?」

「おれ、結婚したばかりなんだ。おまえがシガツェに行ってたあいだにね。彼女の名はツァンムジェ。おれたちは……」

「結婚おめでとう! でもこの話はまた後日聞くことにするよ。明るくなる前にもどらなければならないからね」

「ああ、わかったよ。さあ、なんでも言ってくれ、ただし小声でな」タルゲネは耳を寄せた。

 タルゲネはツァンヤン・ギャツォからの委託を受けたあと、ポタラ宮の側門まで彼を送った。側門の前に着いたちょうどその頃、農家の雄鶏たちが夜明けの第一声をあげはじめた。

 空はさらに暗くなった。


 タルゲネはツァンヤン・ギャツォの指示に従ってラサ北郊の鳥葬台でドルジェの鳥葬をおこなった。しばらくしてヤンツォン酒店の内庭に石作りの小屋が建てられた。ユドン・ドルカルをここに住まわせるためである。ヤンツォンはユドンを義理の娘とすることにした。ユドン・ドルカルは娘としてヤンツォン酒店を手伝うことになった。

 その夜、ツァンヤン・ギャツォは約束通りヤンツォン酒店を訪ね、ユドン・ドルカルと会った。

 ユドン・ドルカルは「酒屋の女」としてツァンヤン・ギャツォに酒を酌(く)んだ。彼はこんなにも心地よいことはなかったと思い、即席で詩を詠んだ。

 

純粋なる水晶山の雪水 

鈴蕩子上の露の珠 

甘露の作る酒 

智慧の空行母(ダーキニー)のこの酒屋 

聖なる誓約のもとで飲む 

六道の悪途に落ちずにいられるだろうか 



 酒を飲んだユドン・ドルカルは朝霞の花に似てさらに美しさを増した。ツァンヤン・ギャツォはここで過ごした夜のことをうたった。

 

昼、だれとも比べられないほど美しく 

夜、肌の香りが人を誘う 

命あるかぎりのわが伴侶よ 

ルディン園の花よりもさらにつややかで美しい 

 

 つぎの日の夜が明ける頃、彼らは名残を惜しんで別れがたくも離れ離れになった。

 

帽子を頭の上に載せ 

おさげを背中に垂らす 

「いってらっしゃい」

「ゆっくりとして」

「なんと心苦しいことか」

「すぐにまた会えますよ」

 

 ポタラ宮の側門に着くと、黄色い犬がしっぽを振って近づいてきて、歓迎した。彼はこのことを詩に詠んだ。

 

鰓(えら)のようなひげを生やした犬 

人よりもお利口さん 

わたしが夜出ていき 

夜明けに戻ってきたことはだれにも言わないで 

 

 ある深夜、ツァンヤン・ギャツォは酒店で過ごした。天は有情にさらなる苦難をあたえようとしているかのようだった。この夜、ラサに雪が降った。ツァンヤン・ギャツォは明るくなる前にポタラ宮に戻らなければならなかった。

 彼がポタラ宮に着いた頃、ニワトリが鳴き、雪がやんだ。彼は寝宮に入ると扉をしっかりと閉め、庶民の服装を脱いで箱に入れ、靴を火の近くに置くと、疲労困憊しきっていたのか、すぐに深い眠りに落ちた。

 しばらくしてトプテンが起きた。雪のあとたちまち晴れ、空は格別に明るかった。トプテンは自分の部屋の前で腰を伸ばし、太陽を見るとまだ表れていなかったので、もう少し眠れればとかったかなと思っていると、突然、降り積もった新雪の上に点々と足跡がついていることに気がついた。彼はあわてて足跡に近づいてよく観察した。

なんということか! 泥棒が侵入してポタラ宮内の宝物を盗んだにちがいない! 

 彼は急いで側門を開けた。はたしてその足跡は坂の下のほうへ伸び、どこかへ消えていた。彼は恐怖を感じ、「だれかが侵入したぞ!」と叫んだ。しかし即座に自分の口をふさいだ。声をはりあげるべきじゃないぞ、と彼は思った。足跡はこれひとつだ。それが消えないうちに足跡をたどって泥棒がどこから来たか探ってみなければならぬ。このようにしてもし宮中の宝物がなくなっていなかったら、彼は失業せずにすむだろう。もしなくなっていたら、侵入者を捕まえるための手がかりを提出し、手柄を立てて罪を償う、ということにはなるだろう。彼は周りを見回し。何の動きもなかったことから、さきほどあげた叫び声を聞く人もいなかったと結論づけた。それから彼は足跡をたどっていった。それはヤンツォン酒店の門で消えていた。間違いなく侵入者はヤンツォン酒店からやってきていたのだ。彼はヤンツォン酒店の門をたたくことはしなかった。これこそ藪蛇というものだろう。収穫は十分にあった。彼は身を反転させ、小走りで戻った。側門をしっかり閉じ、まとわりついてきた黄色い犬の脚を蹴飛ばした。

 つぎにすべきことは、足跡を残した人物を探すことだった。

 トプテンは足跡の爪先の方向にあとをたどっていった。行けばいくほど恐怖を感じ、あせりを覚えた。ダライラマの寝宮の門前にたどり着いたとき、頭がくらくらした。侵入者はいっきにダライラマの寝室に入ったかもしれない。ああ、なんということだ。侵入者は刺客だったのか。もしそうなら、足跡がひとりであることを示しているなら、刺客は入ったまままだ出てきていない。ちくしょう! なぜ足跡が単独であることに思い至らなかったのか。刺客なのか、強盗なのか、どのみちダライラマの寝宮内にまだいるだろう。彼は怯え、全身から冷や汗が出てきた。

しかし、だ。……彼は発想の転換をした。むしろ立身出世のチャンスではないか! 猫がネズミを捕まえるように刺客や強盗を捕まえれば、名はチベット中に、いや全国にとどろくだろう。そしてデシに激賞され、とんとん拍子で出世するだろう。門番の小ラマが護法の大英雄となるのだ! ただ考えれば考えるほど敵を捕らえるほどの力がないことを痛感し、知恵比べで勝るしかないという結論に至った。

そこで彼はカタツムリのようにそろりそろりと寝宮の門前まで行き、門をゆっくりと開けた。ちょうどそのとき早朝の霞んだ光が東向きの窓から中に射し、ダライラマ六世の寝顔がはっきりと見えた。口元は笑みでゆるみ、胸元の衣は呼吸に合わせて等間隔で起伏していた。彼は困惑した。もし刺客がいるなら、まだ犯行に及ばず、そこにいることになる。彼は六世を起こそうとは思わなかった。門から中に入り、寝宮の中を巡回し、遠くから見たが不審な点は何も見つからなかった。しばらくして彼は雪のかたまりが付着したダライラマ六世の靴を見つけた。それは木炭の入った火鉢の火にあぶられ、雪から熱い水蒸気が出ていた。外の雪の足跡を見ると、形状や大きさが六世の靴とまったくおなじだった。完全に明らかだった。なぜ思い至らなかったのだろう。酒店から帰ってきたのはほかでもない、ダライラマ六世だったのだ。酒店にいる女性といえばふたりだけだ。ヤンツォンとユドン・ドルカルである。

 彼は霞んだ光の中でダライラマ六世が安眠するのを望んだ。彼は六世を熟知していた。六世が彼に対してよそよそしい目で見ることも知っていた。彼はこっそりと門から出て、ディパのもとへ向かった。密告するためである。

 ディパはトプテンをほめそやした。そして二つの件に関して調査するように促した。すなわちだれがダライラマ六世とユドン・ドルカルの仲を取り持ったのか、まただれが六世に側門の鍵の複製を渡したのかである。ただし足跡に関して秘密を厳守するようにとはトプテンに言わなかった。これはトプテンの知力に任せたのである。しかし世界には奇怪な現象というべきものがあった。つまり本来は長期間にわたり有効な規則なのだが、何日間か重ねてあきらかにしないで、そのことで人は自動的に失効したと認識する。ここにおいて人は知らないか、長く忘れていたふうに装う。そうして恐れはばかることなく違反してしまうのである。

 ことわざにも言う。夏は放牧の鞭をよく管理し、冬は火鉢をよく管理し、普段は口をよく管理する、と。大多数の人にとっては、口を管理するのはそんなに簡単なことではなかった。トプテンにとってもそうだった。トプテンがいかに独占的に大ニュースを掌握してうぬぼれたとしても、ダライラマ六世が自分を重要視していなかったことが不満を募らせていた。さらには六世とユドン・ドルカルの関係を知り、嫉妬の炎がめらめらと燃えたというのもあった。彼には何人か親しい友人がいた。それぞれの友人にも何人かの親しい友人がいた。こうしてネズミ算式に増えていくのである。「あなただけに特別教えよう」と言って「ゆめゆめ他人に話すな」と付け加える。こうして「多くの人に知らせる」ことになった。ダライラマ六世の秘密は公然の秘密となったのである。奇妙なことだが、人々は震撼するということはなかった。ならびに彼を責め立てようという機運も生まれなかった。これは興味深い話、こぼれ話、伝聞といったものなのである。一部の上層部の人にとってはとてつもなく高い大波のようなものだった。というのもやりかたによっては政治的利益を生み出したからである。

 これらの伝聞はツァンヤン・ギャツォの耳にさえ入った。恐れおののき、不安になることはなかった。彼の足跡を追った人を調べようとも思わなかった。彼は自分がやったことを直視し、承認したかったのである。ユドン・ドルカルのために、自由な生活のためにやったことなのである。廃位になったとしてもかまわなかった。求めるものが得られなかったとしてもかまわなかった。本来、ダライラマになろうとはしなかった人物である。それなのにダライラマでありえないことを恐れる必要があるだろうか。

 彼はこのときの気持ちを率直に詩に表した。この詩はのちに広く流布した。

 

夜、愛する人のもとへ行く 

夜が明けたとき雪が舞っていた 

秘密がいったい何の役に立つ? 

雪の上に足跡が点々と残る 

 

人はみな私に関して悪口を言う 

私が言ったことはまちがっていない 

私の歩みはかろやかだ 

女店主の家までは 

 

ポタラ宮にいるときは 

リクジン・ツァンヤン・ギャツォ 

ポタラ宮の下にいるときは 

流れ者のタンサン・ワンポ 

 

リクジン・ツァンヤン・ギャツォよ 

愛する人のもとへ行け 

彼が追い求めているのは 

普通の人の生活だ 

 

 このような事情は公然のものとなっていった。ある人が来て彼を戒めたが、彼は反論した。「あなたがたはきれいな女性が好きでしょう? 私も好きです。あなたがたは私を放蕩者だという。あなたがたが私に求めているものを私は求めていないのです」

 ただひとり六世に対して行動を起こさなかったのはデシだった。そのデシがついに彼に対して行動を取ろうとしはじめていた。

 


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