ダライラマ六世、その愛と死 

宮本神酒男翻訳 

 


21 ジョカン寺前の恩讐 

 

 一年に一度、大モンラム(大法会)の日がやってくる。この祭日を迎えるにあたり、すべての僧侶は興奮し、忙しくバタバタすることになる。当然、この法会の期間中に別の目的を持つ者もいる。親友を訪ねる者、敵を討つ者、商売をする者、女をだます者、などさまざまである。

 この時期、ツァンヤン・ギャツォはかえってポタラ宮の中にくつろいで座り、ダライラマ六世として平然とかまえていた。風流を愛する詩人としては、平静でいられなかった。というのもデシ(宰相)サンギェ・ギャツォの報告によれば、ユドン・ドルカルの所在はわかっていた。コンポ地区に戻っているのはたしかだが、どの荘園にいるのかははっきりしなかった。おって追加調査の結果を報告したいとデシは語った。何か月もかけてわかったのはそれだけだった。

 ツァンヤン・ギャツォは現在のユドン・ドルカルへの思いを詩に託した。彼は筆をふるって詩を書いた。

 

コンポ地区からここにやってきた 

話すことのできる鸚鵡さん 

心を寄せるあの娘 

何事もなくすこやかに過ごしているだろうか 

 

ユトク家の四角形の柳園で 

ホオジロがジジブチェと鳴く 

あなたは私といっしょになりたいと願って飛ぶ 

いっしょにコンボ地区へ行く? 

 

東方のコンボバラ山 

多くは高すぎるが問題にならない 

愛する人の心を気に掛ける 

それは飛び跳ねる駿馬のよう 

 

川の水は流れていき 

コンボ地区へ流れていく 

 

 この詩を書き終えたとき、ディパが歩いてきた。

デシはツァンヤン・ギャツォに大モンラムは明日はじまると告げた。ツァンヤン・ギャツォの経師や彼に経典を教えたツルティム・ダルジェ、ゲレク・ジャンチュブ、ゲロン・ジャムヤン・チャパ、デドゥン・リディン・リンパ、レ・チャンパ・チャパ・チュンペーらゲシェ・ラマはみな彼がジョカン寺へ行って公開の場で読経することを望んだ。ただし現在の状況が緊迫していることから、彼の安全を保障するため、行かないほうがいいという考え方もあった。

 チベット南部からラサに出てきて以降、ツァンヤン・ギャツォは自ら進んで、あるいは迫られて各教派の経典を学んできた。たとえば『カンギュル(大蔵経)』、『菩提道広略教誡』、『菩提随許法』、『根本呪』、『秘訣』、『続説』、『生満戒』、『供経呪』などだった。博学多識という面を見れば、これらを習得すれば五明に通じた高僧といえるだろう。ただしやむをえない状況を除き、つまり三大寺(セラ寺、デプン寺、ガンデン寺)の高僧が高座に上って解説をするとき以外、読経による布教に熱心ではなかった。ディパの提案はまさに彼の考えにぴったりだった。彼は衆生に福を賜うことはできないことを悟った。それはまさに他人が彼に福を与えることができないのと似ていた。

 大モンラムは正月五日にはじまり、二十六日に結束する、あわせて21日間の行事である。毎日何万人もの人がジョカン寺南の広場にやってきてひしめきあい、読経台の高僧の読経に耳を傾けた。水を漏らさぬほど混みあうというのはこのことだった。鉄棒ラマと呼ばれる僧侶たちが、つぎつぎとわき出てくる読経台へ向かう人々に対しゲコ(鉄棒)をふるって秩序を維持しようとした。多くの人がこのとき遠くからダライラマの姿を見ることができた。

 正月十六日はツァンヤン・ギャツォの満二十歳の誕生日だった。この日彼はポタラ宮内にひとりでいたが、退屈でたまらなくなり、俗装に着替えて側門を抜け、熱気あふれるジョカン寺前にたどり着いた。

 群衆の中にあって彼ははじめて大海に出て喜ぶ谷川の小魚のようだった。たしかにそれは海だった。何万もの頭が動くさまは激しく揺れる波の花だった。人々が熱を込めて話し合い、大声でわめきたてるのは波濤のざわめきだった。ジョカン寺はさながら金色の珊瑚の島だった。しかし上空はすっきり晴れているわけではなく、引き裂いていない羊毛のかたまりのような鈍色の雲が低く垂れこめていた。それらはラサのすべての家にまといついているかのようだった。冷たい風が吹いて道端のタルチョ(経幡)をパタパタとはためかせた。タルチョは牛毛の縄によって家の角や木柱を結び付けられていたが、いつプッツンと切れてもおかしくなかった。天気のせいかもしれなかったが、一部の人の顔が暗い雲に覆われていることに彼は気づいた。

 彼はあてもなく漫然と歩いた。人混みの中に押し入っても、だれも彼に注意を払わず、だれであるか認識することはなく、気に留めることもなかった。だれかに荒っぽく押されたり、だれかに足を踏まれて激しい痛みを感じたりしたが、彼にとってはどうでもいいことだった。彼は考えた。もし自分がダライラマの身分で読経台の上に現れたら、彼の足を踏んづけたり、つき飛ばしたり、おしのけたりする者はいないだろう。すべての人は彼に向かって舌を出して敬意を表し(チベットの礼儀、作法)地上にひれ伏すだろう。目の前の騒々しい海はすぐに静かな湖面のようになるだろう。彼はいわば神聖なる湖の上の聖なる山なのだ。人々は自分たちの頭を喜んで踏まれるだろう。こう考えて彼は思わず苦笑した。こういう光景を見たいわけではなかった。人の頭を踏みたいわけではなかった。だれの足が神聖でないだろうか。地上を歩くにおいて、人はだれもが平等なはずだった。

 近くに数人の遊牧民らしい人々がいた。彼らの話が耳に入ってきた。

「おれは何百里も歩いてきた。それもこれもダライラマさまに会うためだ。はるかかなたに一目見るだけでいいんだ。だがジョカンの前の高座に法王さまの姿が見えねえぞ。おれたち運がねえな」

「そうだな、ラサに来るんだってそんなに簡単じゃねえからな。一年に一度しかこの機会はねえんだが」

「水を汲みに来たからには、からの桶では戻れないってことわざもあるからな。まあ何日か待つとしよう」

 老女が群衆を押し分けてマニ車を回しながらやってきた。人の会話を耳にして一言ひけらかしたくなったのだろう。

「わたしゃあんたらと比べたら運にめぐまれてるよ! まあ、もうちょっとで押しつぶされるところだったけどね」彼女はしあわせそうに思い出していた。

「もう二十年以上も前のこと。デプン寺の前にビャクダンの木でできた木の椅子があって、そこに先代のダライラマ法王がいらっしゃったんだよ。そこで朝の礼拝に来た人らの頭を撫でていなさったんだ。でも法王の高座はほんとうに高いから、人は這うぐらいに腰を低くして法王の足元を歩いて通ることになるんだ。それでどうやって人の頭を撫でたかって? それにたくさんの人の頭を撫でてたら、手が腫れあがってしまうって? そう、でも、仏には仏の智慧があるのさ。法王さまは長細い木の棒を持ってらっしゃった。棒の先には長い布がついていた。漢族の伝説中の魚を釣る姜太公(太公望)みたいなものさ。

 わたしらが歩いて法王の前に行くと、上からこの布で頭の上をはらわれるわけよ。わたしゃあえて法王さまを見ようとしなかったし、そこにとどまろうともしなかった。ただ頭をすこし傾けただけだ。すると布切れが右耳の上をうまいぐあいにこすったのさ。ぶるぶるって震えが来た。心に聖水が一滴したたったかのようにすがすがしかったよ。

 それ以降右耳の上に見えない、さわってもわからない何かがついているんだ。耳に引っ掛かっているようでもあり、貼ってあるようでもあった。あるいは釘打たれている? それは金や真珠や宝石の耳飾りよりもさらに高貴なものなのさ。それ以来わが右耳はどんな物音でも聞けるようになった。信じられない? じゃあできるかぎり小さな声で話してごらん」老女はあわただしくマニ車を回しながら、だれか挑んでくるのを待った。

 群衆からは賛嘆の声が上がった。多くのうらやましげな目は声を上げず、ただきらきらと輝いていた。だれもあえてこの試験に挑戦しようとはしなかった。なぜなら試験に挑むということは、ダライラマを信任していないこと、尊敬していないことを意味し、遊び半分でやったなら、信徒たちに殴り殺される可能性もあった。

 ツァンヤン・ギャツォの唇がかすかに動き、声を発していた。「ああ、あなたたちは何を知っているというのか。わたしこそあなたたちが会いたがっているダライラマだぞ」彼は自らの言葉に驚いていた。しかし幸い、だれも聞いていなかったようだ。右耳が鋭いというあの老女も聞いていなかったようだ。しかしながら彼はたいへんな禍をもたらしたのかもしれない。人々は彼のことを狂者、ペテン師、神を汚した罪人とみなすかもしれないではないか。もしだれかが声を発したなら、彼が立った瞬間、怒り狂った群衆に踏まれ、肉のかたまりになってしまうかもいれない。

 群衆を押し分けて前に進むと、何人かが言い争っていた。

「ダライラマはなぜ高台に上って読経しないのか」ひとりの僧が顔を真っ赤にして官吏に言い返している。

「簡単なことさ。身の安全のためだよ」

「人がダライラマに出くわすことなんてほとんどないだろう?」と若者が言い返した。

大鵬は役に立たず、雀は騙す」きらびやかな貴族のかっこうをした人がことわざを引用し、あたりをじっくり見まわしたあと言った。「ダライラマに対しわれらは敬わずにいられないし、彼らも尊敬しないわけにいかないだろう」

「彼らってだれのことだ?」僧の目は怒りに満ちていた。

「ラサにいるあの連中のことだ」と官吏は言った。「軍隊もあるだろう。人数は少ないけどね。強盗団もなしている。そちらの数はすこぶる多い」

「おまえが言っているのは……」僧は突然声をつまらせた。官吏の話ぶりにはあきらかに挑発性が感じられたのだ。

 群衆がざわめきはじめた。蛇のような隊形をなしたモンゴル人の部隊が群衆の中を蛇のようにうねりながら進んでいるのだ。

「こいつらが彼らだね!」貴人がこの機に乗じてなぞ解きをした。

 言い争っていた連中は押し黙り、空気は凍結した。ツァンヤン・ギャツォは心の中でぶるぶると震えた。

「オン・マ・二・ぺ・メ・フーム」だれかがマントラを唱え始めた。

「オン、マ、二、ぺ、メ、フーム!」海の潮流のようにそれらは唱和して大きな流れになった。ツァンヤン・ギャツォの目の前で狂風が吹き荒れ始めた。黒雲のかたまりがジョカン寺の金塔を飲み込んだ。彼が目を閉じると世界はさらに暗くなった。

 彼は突然腰のあたりに何かを感じた。目を開けると、ゲタンがそこに立っていた。こういう場合、何があろうとも自分を連れ戻そうとしているということを彼は知っていた。頭にたっぷりかいた汗から、いかにあわててゲタンが彼を探し回っていたかが想像できた。何も言わず群衆から離れて、彼らは遠回りをしてポタラ宮へと急いだ。

 歩きながらツァンヤン・ギャツォは少し距離を置いてついているゲタンに振り向きもせずにたずねた。「いったい何事だ?」その目は晴れ渡った空と安穏としたポタラ宮を交互に見ていた。

「北京の皇帝が派遣した使者が到着したのです」ゲタンは周囲を見回しながら小声でそう答えた。


 ディパが懇願したことによって、その監督のもと、ツァンヤン・ギャツォは長髪を切り、全身を沐浴し、白檀の濃厚な香りがしみ込んだ袈裟を着て、仏殿の宝座に座して皇帝の使者に謁見した。

 これより前、清朝の康熙帝はラザン汗の上奏文を受け取ったあと、半日もの間、熟慮を重ねた。上奏文には、ツァンヤン・ギャツォが本当にダライラマ五世の転生なのかどうか、また彼の放蕩行為は本物でないことを示している証拠ではないか、そういったことが列挙されていた。

康熙帝はしかしダライラマの真贋に脳みそを費やす気にはならなかった。むしろこのことからディパ・サンギェとラザン汗が不和であることを知り、チベットの政治危機と軍事衝突の発生の可能性を憂えたのである。ダライラマの真贋に関して、康熙帝はさほど興味がなく、結論を急ぐこともできなかった。一国の主として、このような僻地のことに関し、双方とも一定の実力者であることから、話し合いでまとめていくのが上策と考えた。こうしてチャナ・ラマを使臣として派遣し、まじめに調査をしているというポーズを取ったのである。同時にチャナ・ラマには直接指針を伝え、どちらかが有利になるような言説はつつしむようにと釘を刺した。

 ディパ・サンギェとラザン汗はポタラ宮の仏殿の中で、皇帝の使者を迎える場に同席した。抜け目ないチャナ・ラマが皇帝の命令を提示すると、緊張感あふれる雰囲気のなかで、皇帝に代わって彼がダライラマの精査をする儀式がはじまった。ダライラマの真偽がラザン汗とデシ・サンギェの政治家としての運命を決めることは、だれの目にもあきらかだった。仏殿内はひっそりと静まり返り、ゆらゆらと立ち昇るお香の煙が疑念を発散させていた。ただツァンヤン・ギャツォだけが平然としていた。実際、本物であれば無罪であり、偽物であれば無辜ということだった。また本物であっても偽物であってもダライラマの座を降りねばならなかった。いずれにしても彼の思うままにはならなかった。

 チャナ・ラマは六世に衣服を脱ぐようにと言った。裸になった六世が宝座に座ると、ラマはしげしげとそれを見た。上から下、下から上、前から後ろ、後ろから前へと何度も六世の体を観察した。ディパ・サンギェとラザン汗の四つの目はチャナ・ラマの一挙手一投足に釘付けになった。表情のちょっとした変化も見逃すまいとした。有利な材料、不利な材料を捕らえようとした。これは沈黙の決戦だった。主宰者は皇帝であり、ターゲットに選ばれたのは不幸なことにツァンヤン・ギャツォだった。

 チャナ・ラマは長い時間をかけて顔色一つ変えずに観察した。また顔色一つ変えずに観察を終えた。彼は仏殿の中に立っていたが、やはり顔色一つ変えなかった。

 サンギェ・ギャツォとラザン汗双方とも質問を発しなかった。チャナ・ラマはふたりとも結果を知りたがっていることを心得ていた。

「このラマがダライラマ五世の化身であるかどうか知らないが」チャナ・ラマは言った。

 ラザン汗の顔に笑みがこぼれた。

「たしかに円満なる聖体の法性があります」

 サンギェの顔に笑みがこぼれた。

 チャナ・ラマはそれ以上の言葉を述べず、ツァンヤン・ギャツォに対して何度か拝したあと、皇帝に報告するため京へ向けて出発した。


 デシとラザン汗ふたりとも笑みを浮かべていたので、ツァンヤン・ギャツォはいささかほっとした。二頭の獰猛な雪獅子はすでに雪山に帰っていた。

 彼はまたも気を紛らわすためにジョカン寺のほうへ歩いていった。頭は剃っていたのでピカピカだったが、この日はラサ中お坊さんに満ちていたので、だれも彼に注意を払わなかった。しかも彼はごく普通の袈裟を着ていたのである。このときにかぎり、彼はツァンヤン・ギャツォではなかった。タンサン・ワンポでもなかった。ひとりの名もなき若い僧侶だった。

 だれもいない路地の奥に同じように若い僧侶が祈っていた。その声はかすかに聞こえるほど小さかったが、語句のひとつひとつはかえってよく聞こえた。ツァンヤン・ギャツォは彼のすぐ後ろで歩みを止めた。盗み聞きするつもりはなかったが、敬虔なる祈祷を邪魔したくなかったのである。この若き僧侶が祈祷に選んだ地点にツァンヤン・ギャツォは興味をそそられないわけではなかった。若き僧侶は地上にひざまずき、髪をくるくる巻いた頭を低く垂れ、両目を閉じ、額の前で両手を十字に合わせ、一心不乱に祈りを捧げているので、後ろに人が近づいていることにまったく気づかなかった。祈りの言葉はとても奇妙だった。何度も同じ言葉を繰り返した。「万能なる仏さま、どうかご慈悲を! ダライラマ六世を出現させてください! この目で六世を見させてください!」

 ツァンヤン・ギャツォは自分の耳を疑うことはなかった。祈りを上げている者はまちがいなく彼と会ったことがあるはずだ。そう、この心を震わせるような声、それはなじみ深いもの。しかしそれがだれの声であるかどうしても思い出せなかった。彼は祈祷する者の前に立ち、ゴホンと咳払いをしてみた。

 祈祷する者は突然立ち上がり、目を大きくみはって彼をじっと見た。ああ、五年たち、衣服は変わり、背は高くなり、おさげも切っていた……が、目はまったく変わっていなかった。少女のはじらい、初恋の心はその瞳の中で輝いていた。

「リンチェン・ワンモじゃないか!」ツァンヤン・ギャツォは思わず叫んだ。

「ガワン・ギャツォ、いえ、その、ツァンヤン・ギャツォ!」リンチェン・ワンモも声を上げた。

 ツァンヤン・ギャツォとリンチェン・ワンモはリンコル路のリンカの中で肩を並べて座った。互いに別れたあとどういうことがあったかを話した。他人が遠くから見たら兄弟弟子が師匠から伝授された経典をおさらいしているように見えただろう。

 冬のリンカは見渡す限り枯れ葉色だった。ただ餌を探す野良犬が落ち葉を踏みしだく音が響くだけだった。この景色はツォナの山谷の春とは似ても似つかぬものだった。桃の花も、鳥の鳴き声も、顔を撫でる温かい風もなかった。足元の緑の草原、酔っぱらいの田畑、結婚への思い……これらはみなはるか遠くにいってしまった。彼らはただ古い友情にすがるしかなかった。古い友情とは花からできた種子のようなものだ。それが石の上に落ちれば干からび、泥土に埋まれば発芽するのだ。

 リンチェン・ワンモは強いられて嫁いだものの、夫が自分を愛してくれないのと同様、自分も夫を愛することができなかった。以来、彼女にはよくわかった、夫が要求する唯一のことは彼の跡を継ぐ子供を産むことだった。つまり子供を産みさえすればよかった。これで債務を清算することができるので、もうどこへ行こうがとどまろうがかまわなかった。債主にとっては興味の対象外だった。

 物事は人が願ったとおりになる、彼女はそんな境地にいたった。子供は三歳になり、夫は彼女に対して三倍冷淡になった。そして彼女のガワン・ギャツォに対する思慕も三倍になった。のちに彼女はガワン・ギャツォがツァンヤン・ギャツォとなり、ラサに行ってダライラマ六世になったことを耳にした。彼女は思った、自分もまた袈裟を着ればいい、そうすればツァンヤン・ギャツォといっしょに歩くことができる、仏の海をいっしょに漂うことができる、と。一念発起した彼女は寺院に入り、尼になった。彼女の夫さえ阻止することはできなかった。いや、彼女を阻止するいかなる理由がなかった。ギャンツェの娘ナムサはタチェンパ家の子供を産むかわりに出家して尼になった、という話がチベット歌劇のなかにあったのではないか。仏法に帰依することは最大の光明であり、尊敬されるべき行為だった。それが若い母親であればなおもむつかしいだけに尊いのである。

 リンチェン・ワンモはツォナ地区で尼僧の一員となり、ついに大モンラムの活動に参加する機会を得て、ラサに来ることができた。とはいえツァンヤン・ギャツォがダライラマ六世だということに関してはなおも半信半疑だった。十数日間、彼女は毎日朝から晩までジョカン寺の読経台の前の群衆の中に立ち、目を皿のようにしてダライラマが現れるのを待ったが、期待が大きい分、失望はいっそう大きかった。あと一日だけ待とう、彼女はついにそう決心した。いったんそう願うと、希望はたやすく生まれてくるのだが、絶望はそう簡単に生まれなかった。愛情もまたこういうものである。おそらく天は心ある人を見捨てないのか、ついに願いがかなうときが来たのだった。*訳注 チベット語でモンラムは願望を意味し、大モンラムは大願法会と訳される。作者はこのことをふまえているのだろう。

 はじめは思いがけず別れることになり、ともに苦痛を覚え、互いに疑い、誤解し、恨みあったが、すべてが過去のこととなった今、理解し許しあうことができるようになった。愛は転じて恨みとなったが、それも転じて愛となった。

 ツァンヤン・ギャツォは兄嫁ツァンムジェに助けてもらってジョカン寺からそれほど離れていない狭苦しい静かな路地裏の小部屋を借りることができた。彼とリンチェン・ワンモはふたりの兄弟の僧侶という名目で中に入った。

 リンチェン・ワンモの美貌が異なる年齢の男性たちの垂涎の的であったことを彼らは知っていた。リンチェン・ワンモが自分の安全のためにラサに来る前、すでに尼僧のかっこうをやめ、僧侶の恰好をしていた。とはいえ男装の恰好をする訓練を受けていなかったので、女性らしさがどうしてもあらわになってしまった。いわばもっとも女性に見える女性である。それゆえ逃亡した特殊な目を持った人の捜索はまちがいなく行われなかった。しかしツァンヤン・ギャツォと彼女が小部屋に入ることによって、追跡者が追跡するという事態がさらに引き起こされた。今に至って、最終的に判定が下されたのである――彼女は女性である、と。 

 この何日間か、デシ・サンギェは自分の存亡に関わる重要なことで忙しかった。それはつまりダライラマをしつけることができないこと、また彼の安全に責任を負うことに注意を払うようゲタンに重く委託することである。ツァンヤン・ギャツォはごたごたしている地点とごたごたしている時間をうまくとらえてその中に一時的な桃源郷を見出した。ユドン・ドルカルが拉致されてからというもの、彼はヤンツォンの酒店に行くことはなく、酒を好きなだけ飲むこともなかった。今、彼は酔っていた。酒に酔い、心にも酔う。彼は二重に酔っていた。彼はリンチェン・ワンモの近くで酔いつぶれていることで、得意満々だった。

 

最初に酒を飲むけど、酔いしれない 

また酒を飲むけど、酔いしれない 

大人になる前、恋人に酒をすすめられた 

一杯飲んだだけで酔いつぶれた 

 

 彼はリンチェン・ワンモにダライ仏(ギャルワ)でなく、ツァンヤン・ギャツォと呼んでほしかった。彼は心の中でリンチェン・ワンモこそが仏だと考えていた。そして自分は仏教徒の心の中の偶像にすぎないと思った。ふたりとも袈裟を着ているが、リンチェン・ワンモのほうが尊敬に値すると認識していた。なぜなら彼女は愛する人と会うためには尼僧になるのがいいと考えたからである。彼女には勇気があり、神聖な雰囲気を持っていた。彼はリンチェン・ワンモに対して歌をうたった。

 

あなたは金銅仏身 

わたしは泥塑神像 

ひとつの仏堂の中とはいえ 

われらはまったく異なっている 

 

 彼らは日がな一日いっしょだった。話さなくても心は通じていた。真心でふれあい、言葉は必要なかった。仏教から人生まで、幼年期から青年期まで、そのとおり、いや違う、はっきりしているのもよし、しないのもよし、すべてにおいて隠し立てなく、少しも配慮する必要なく、一切を理解し、全部了解した。ラサの夜がかくも短いとは! 彼はこのことを詩に書いた。

 

白いサムエの雄鶏よ 

こんなに早く鳴き出さないで 

幼い頃からのいとしい人と 

心の中の話が尽きないのに 

 

 ふたりとももう立派なおとなになり、見かけはだいぶ変わったとはいえ、二つの心が触れ合うと、まるで一度も別れたことがなかったかのようだった。あるいは別れてから何事も起こらなかったかのようだった。無理に力を入れる必要はなかった。昔のことと現在のことが同時に起きているかのようだった。彼らは今日の機会を利用して一昨日の損失を繕っているかのようだった。すると昨日のことを忘れることができるかのようだった。こうしてすべては似ていて、一昨日に戻ることができた。時とはこういうものだった。冷酷に人を成長させ、老いさせ、死なせようとも、愛情を滅ぼすことはできないのだ。

 彼らがラサの小部屋でツォナの山谷の旧交を温めている頃、彼らの会話を盗み聞きしているのは鸚鵡や小鳥ではなかった。日夜を問わずリンチェン・ワンモを追跡していた者たちは彼らの部屋の戸や窓に近づいていたのである。ある若い僧侶は、大モンラムの期間中ほかにすることがないので、混乱に乗じて目の当たりにした獲物を手に入れようと企図した。しかし心の中では嫉妬と怨恨の炎が猛烈に燃え盛っていた。彼ら追跡者たちはごく自然にチームを作っていた。わずかな時間彼らは話し合い、軽率な作戦を決行することにした。すなわち夜間に押し入り、男を殺し、女を連れ去ろうというのである。規則を維持するというのが名目だった。

 漆黒の夜。犬が激しく吠えたて、暗殺を企てる者たちの足音を目立たなくした。彼らは腰に短刀をつけ、縄を持ち、すみやかにツァンヤン・ギャツォとリンチェン・ワンモがいる小部屋へと向かった。彼らは四、五人で、玄関口に着いたが、だれも先頭を切って門をやぶろうとはしなかった。そのなかで肌が黄色い若者が前に出て、刀を挙げてちらつかせ、言った。「おれを見ろよ!」

 彼は踏み台を置いて門扉に足をかけ、体を寄せて軽く号令を発した。「さあ、みんな、おまえらはヤクの群れみたいなものだ。おれが一(チ)、二(ニ)、三(スム)と言ったらいっせいに立ち上がれ!」

 ほかの者は興奮して答えたり、袖をまくったり、腰帯をしめたり、腰刀をふるったりした。小部屋で熟睡していたツァンヤン・ギャツォとリンチェン・ワンモは門の外で何が発生しているか、どんな災難が迫っているか、まったく気づいていなかった。ほんの少しも察知していなかったのである。

 この頭(かしら)が「二」と口にしたとき、突然路地から兵士の一団が湧き出てきた。そして最前線に駆け出た兵士が「とっとと失せろ!」と叫ぶと、門を破ろうとしたヤク軍団は蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。兵士たちもどこかに見えなくなった。衝突も、流血も、追撃もなく、すべては平静に復した。犬だけは依然として吠えたてていた。

 翌朝早く、大モンラムはいよいよ佳境に入り、ジョカン寺前は沸き立っていた。大通りも路地も人であふれて大河のように、あるいは渓流のように流れた。ゲタンは俗装をまとって群衆の中に紛れこみ、ツァンヤン・ギャツォの「別宮」にたどりついたところで、中から出てきたツァンヤン・ギャツォと出くわした。

「おまえ……おまえも還俗したのか」六世はゲタンを見て、面白そうにたずねた。

「なかでお話ししましょう」ゲタンは身を翻して門を閉めた。

「おまえはどうやってわたしがここにいると知ったのだ?」六世はかすかに笑みを浮かべながらたずねた。

「わたくしどもは法王さまをお守りする責任がございますから」

「ああ、まあ、わたしツァンヤン・ギャツォを守りきるなんてできないよ。だれかがすでに恥ずかしい思いをしたはずだ。それなのにまただれかが来てわたしを守ろうというのか。言っておくぞ、わたしを保護する必要なんかないからな」

 ゲタンは昨夜門外で発生したことをとくと説明した。ツァンヤン・ギャツォは息を飲んだ。彼はリンチェン・ワンモを巻き込みたくなかったので、彼女を別のところに移し、自身はポタラ宮に戻りたいと提案した。

「いえ、それはなりませぬ。この三日間は外に出ないようにしてください。ここにいてください」ゲタンは丁重すぎるほどの口調で言った。「リンチェン・ワンモさまも出てはいけませぬ。おふたりの食事は随時お持ちいたします。門を開ける際の暗号は5ふたつでございます」

「どういうことだ? 何が起こったのだ?」六世はとまどいながら聞いた。何か重大なことが発生しているようだった。

「路上も宮中も安全ではございません」ゲタンは答えた。「外はたいへん混乱しています。くれぐれも外に出ないようにしてください。くわしい状況はわたくしにもはっきりとはわかりかねます。質問はお控えください」。ゲタンはここまで一気呵成に話したあと、話す速度を落とし、語気を強めた。「ここでの話は、デシさまご自身がわたくしに、法王さまに伝えるようおっしゃったものです」ゲタンは話し終わると、満面に苦渋の表情を浮かべたまま去っていった。

 ツァンヤン・ギャツォはデシの事情に関して何の意識もなく推測した。というのも往々にして推測することすら許されなかったからである。ことわざにも言うとおり、「ツァンパの袋をサテンで作れば、内側のツァンパは挽かれたエンドウ豆のようになる」のである。

 昨夜の危機的状況があってから、彼の心臓はいまだに鼓動を打っていた。いつも携帯している筆を取り出して彼は詩を呻吟した。リンチェン・ワンモが軽やかにやってきて、彼の肩の上に顔を伏せた。この娘は経文の一字一句読むことができなかったが、幼いころからツァンヤン・ギャツォの詩が大好きだった。ツァンヤン・ギャツォの処女作を書き記したのは彼女だったのである。尼僧になり、寺院でチベット語を学習する機会があったので、またツァンヤン・ギャツォの詩が通俗的でわかりやすかったので、詩の一句一句を彼女は読み上げながらつづった。

 

モンユルよりホトトギスが 

春の空気を持ってやってきた 

わたしと恋人は顔と顔を合わす 

心身ともなんて気持ちいいこと 

 

父母にも言えない秘密の話 

幼なじみの恋人にはすべて打ち明けられる 

恋人につきまとう牡鹿のなんと多いこと 

小部屋のひそひそ話を敵に聞かれてしまった 

 

 ツァンヤン・ギャツォは彼女の両手を握りながら驚き、喜んで言った。「字が書けるとは思いもよらなかった。詠むのもまたすばらしい。わたしはそんなにもうまく詠めないよ。詩をうまく詠むのは声だけでなく、手ぶりだけでなく、表情だけでなく、いかに感情をこめられるかが重要だ。われらふたりの感情はよく似ている。だからいっしょに詩を詠むことができるのだ」

 リンチェン・ワンモは首をひねって、ほのかに笑みを浮かべながら、また恥ずかしそうにしながら、詩の草稿を指して言った。「この牡鹿ってどういう意味なのかしら」

「それは当然おまえを追いかけてきた連中のことだよ」

「あなたは彼らが敵だと思っているの?」

「まあ、恋敵(こいがたき)ってとこだけど」ツァンヤン・ギャツォは「恋」を強調した。「ある程度は彼らを尊敬しているよ。でも彼らは悪人にはちがいない。彼らはおまえを連れ去ろうとしたし、わたしを殺そうとしたのだから。敵でないわけがないだろう?」

 リンチェン・ワンモはうなずいて言った。「あなたは保護してくれるデシに感謝すべきね。人を派遣して彼らを追い払ったのだから」

 ツァンヤン・ギャツォは両手を離し、冷ややかに言った。「当然感謝すべきだろう。もしデシでなかったとしても、われらは別れることができなかったはずだ。ああ、保護だと? デシはわたしを一生保護できるのか? 彼は一日中自分を保護することについて考えているのではないか。まあ、よかろう、彼のことはもう語るまい……」

 このとき突然門の外で大騒乱が勃発したようだった。ずしりと重い足音やあわただしい足音が入り乱れた。おなじラサの空のもと、どこか近隣で、人の絶叫や馬のいななき、犬の激しく吠えたてる声、そして剣がカチンカチンと当たる音が響き渡った。

 ツァンヤン・ギャツォは庭で耳をそばだてた。彼はいままでこのような人の魂を飛ばしてしまいそうな喧騒を聞いたことがなかった。あたかも世界の終日がやってきたかのようだった。あるいは太古の昔に発生した洪水がまたやってきて人を飲み込んでしまうのではないかと考えた。

 彼は出ていくことができなかったし、出ていく必要もなかった。彼にできることは何だったのか。外で発生していることは彼の意志によって発生したのではなかった。彼の意志は外で発生していることに左右されるものではなかった。ただわかることは、ラサが災難にみまわれていることだけだった。この災難を製造した者とその被害を受けた者の中間にいたのはデシ・サンギェ・ギャツォとラザン汗だった。

 彼はため息をつきたかったが、怒りの炎のようなものが彼の胸をふさいだため、つけられなかった。彼は祈りたかったが、悲哀のようなものが彼の喉を締めつけたため、祈れなかった。


 何が起きたか、彼はあとで知った。ジョカン寺の前で法会が行われているとき、デシ・サンギェの数人の腹心がラザン汗の家臣に向かって挑発行為をおこなった。ラザン汗の過信は非常に立腹しデシの腹心のひとりを殴り殺してしまった。サンギェ・ギャツォはすぐに兵力を集めて展開し、モンゴル軍の部隊を駆逐したのである。不意を突かれたかたちのラザン汗はラサから出ていかざるをえなかった。

 何が起きたか、彼はあとで知った。誤ってケガをしたり命を落としたりした人々の中にはあのマニ車を回していた老婦人が含まれていた。息を引き取るとき、彼女はダライラマ五世が触れた耳に手を当てていた。

 何が起きたか、彼はあとで知った。デシ・サンギェとラザン汗の手下全員がもとの主人に背き、新しい主人の政治的な渡世人のもとに身を寄せることになった。彼らの心の中では、国家も民族もなく、父母さえなく、さらには是非もなかった。あるのは強烈な愛憎だけだった。自己を愛し、他者を憎むことだけだった。これにより彼らは永遠に裏切りの道と身売りの道を交互に歩むことになった。

ラザン汗がラサから出たあと、ラサはサンギェ・ギャツォのもと天下が統一されたかのようだった。ジョカン寺前の大モンラムはまだつづいていた。昨日地上に流れた鮮血は今日すでに砂塵の下に埋もれてしまった。何も発生しなかったか、あるいははるか太古の昔に起こったかのようだった。雨のち晴れ、だれが雨傘を必要としているだろうか。日中光が降り注いでいるとき、だれが灯を欲するだろうか。

 ゲタンが路地裏までやってきて、うやうやしく六世にポタラ宮に戻るようにと言った。またデシの「絶対的に堅い要求」を伝えた。すなわち即刻リンチェン・ワンモにラサから出ていくことである。強盗らの魔手から逃れるのは困難であったが。

 ツァンヤン・ギャツォの心は明白だった。ふたりは別れるよりほかなかった。ユドン・ドルカルの退場はその例証だった。デシはましてやこの地位にあって能力が高く、ラザン汗を追い出したばかりなので、気炎が上がっていた。規則に違反しただけのごく普通の尼僧に対し、あえて毒を盛るようなことをするだろうか。ここまで考えてツァンヤン・ギャツォはリンチェン・ワンモをこれ以上拘留しないことに決めた。ふたりは互いの頭を抱きかかえたままおよそ半日泣きつくした。そうして永遠の別れを告げた。

 ツァンヤン・ギャツォはポタラ宮に戻り、すぐに三首の詩を詠んだ。

 

蜂は生まれてすぐ大きくなる 

花は花開くまですごく時間がかかる 

縁の薄い恋人よ 

出会ったのが遅すぎたのか 

 

川を渡るときの憂愁 

船頭はあなたを消し去ることだってできるのだ 

恋人が逝ってしまった哀しみ 

だれがあなたを消す手助けをするだろうか 

 

太陽は四大洲を照らす 

須弥山のまわりを休まず回る 

心から愛する恋人よ 

ここを去り振り返りもしない 

 

 憤懣やるかたないラザン汗はチベット北部の草原に退いたあと、「山岩上で出会わず、平野で反攻する」という考えを抱き、ダム地区でモンゴルの八旗兵を整え、迅速にラサに向かって侵攻した。サンギェ・ギャツォはライバルの反攻がこんなにも速く、勇猛だとは想像していなかった。彼は防衛するだけの兵力を整え、配置したが、ラザン汗の軍隊はすでにラサに入っていた。突然強烈な炎が降臨したかのようで、ジョカン寺前の法会の群衆を驚かし、蹴散らかすことになった。老若男女が泣きわめき、仏に平和を祈願した。しかし焼け石に水だった。政治闘争は軍事衝突を引き起こし、ことわざの言うとおり「地面は草と交替し、羊は体全部の毛を交替する」というありさまだった。

 宗教に身を置く人間は心から流血には反対するものだ。彼らは権力の争奪戦には興味なかった。極端なほど猛虎の口、野牛の角を持った世を乱す者たちを嫌悪した。彼らは知っていた、ラザン汗がチベットにおいて先祖が得た特権を回復したがっていることを。またデシ・サンギェがチベットにおける絶対的統治の拡大を図っていることを。前者は清皇帝の許可をひそかに得ている分、優勢だった。後者が優勢だとすると、それは彼らがダライラマを擁しているからだった。彼らは政治家というより位の高い仏教徒だった。それだけに各自の私的な利益を追求することはできなかった。

 調停しようという人々もいた。それはラサ三大寺の代表(ケンポ)たちだった。またもうひとり重要な調停人とされたのは、ジャムヤン・シェパ、すなわちラザン汗の師だった。

 停戦協定が成立した。ラザン汗が軍事的優勢を占めていたので、サンギェ・ギャツォは辞職を迫られ、ディパの職を離れることになった。息子のンガワン・リンチェンが跡を継ぎ、ラザン汗と共同でチベットの政務を行うことになった。こうしてチベットを覆った暴風雨は一時小やみになった。

 サンギェ・ギャツォは政治舞台からの退出に甘んじるつもりはなかった。退くどころか息子のンガワン・ギャツォが彼の影にすぎないほど影響力を維持していた。絶大な権力を保持していた彼とラザン汗との本当の決戦はこれからやってこようとしていた。

 ツァンヤン・ギャツォはポタラ宮の中に座し、事変の嵐が吹き荒れているのに、蚊帳の外に置かれていた。権力を争う人々はまるで彼のことを忘れたかのようだった。ただし忘れているといっても一時的なことにすぎなかった。まさに彼らが彼のことを思い出したとき、彼の運命は決定されるのである。不幸なことに彼はダライラマ六世だった。どうしたら思い起こさずにいられるだろうか。

 彼はサンギェ・ギャツォとラザン汗が平和について話し合うことを希望していた。チベットには康熙帝という皇帝がいるのに、なぜ小皇帝の座をめぐって争わねばならないのだろうか。彼にはふたりのことが次第にうとましく感じられるようになった。彼はサンギェ・ギャツォが「もともと虱(しらみ)を焼き殺そうとしていたが、その結果衣服を焼いてしまった」と認識していた。ラザン汗は「棒で水をたたきまわり、自分の衣装がずぶぬれになった」という。彼自身、衣服がずぶぬれになったが、それだけでなく、びしょぬれになった衣服は焼かれてしまったのである。この種の予感を彼は早くから持っていたが、現在はさらに眉間で予感があきらかになり、迫りくるものということがわかった。彼はすでに流れ星の軌道に入っていた。そこから身を脱するのは不可能だった。そのまま地面にぶつかるのが彼の唯一の「帰り」なのである。落ちていくときの流星は美しい光芒をきらめかせていた。彼はこの種の光をきらめかせることはできるのだろうか。人はこの種の光を見ることができるのだろうか。彼はどこに消えるのか。熟知している南方か、あるいはよく知らない北方か。いや、おそらく撃ち落とされた鷹のようなものなのだろう。彼は憤ったなかで憤怒のまま詩を詠んだ。

 

嵐とともに岩や石が飛ぶ 

散乱した鷹の羽毛 

あくどい嘘つきの連中め 

わたしはもう煩悩に耐え切れない 

 

 もし詩人の死しか詩人の煩悩を排除する方法がないとしたら、それは悲劇としか言いようがない。

  


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