前言   チョギャム・トゥルンパ 訳:宮本神酒男 

 

 チベットの偉大なる戦士王、リンのケサルを理解するためには、まず戦士精神そのものの原理を理解する必要があるだろう。この精神は何世紀にもわたって、リンのケサルの王統の核心だった。この王統は今も存続している。チベット文化すべてがそうであるように、ケサル王物語も仏教の影響を強く受けてきたが、基本的に戦士精神は自らの基盤の上に立つ存在である。

 精神を奮い立たせて戦争をしようというとき、いまさら戦闘の技術について話しあったりはしない。攻撃を仕掛けて、敵を倒そうというとき、いまさら武器の扱いかたや攻撃の仕方について話しあうことはない。

 戦士精神とは、つまりわれわれ人間に内在する力、威厳、覚醒を認識することなのである。それはわれわれの基本的な確信を呼び覚ますものであり、それがあってこそわれわれは目覚め、直観力を高め、成すべきことを成すのである。

 戦士精神は人間にもとからそなわるものなので、戦士になる方法、すなわち戦士の道は、人間としてわれわれは誰なのか、何なのかを探求し、掘り起こしていくことなのだ。もし自分自身を真正面に見たなら、躊躇や困惑なしに、強さや秘めた力量をたっぷりと持っていることがわかるだろう。

その観点から見れば、もし力量を持っていないと感じたら無力さを覚えるだろうし、もし発想が尽きるとしたら戦士精神を持った敵に攻撃されてしまうだろう。それがわれわれ自身の臆病さというものだ。戦士精神という考えは、人間が潜在的に持っているものであるがゆえ、それを乗り越え、臆病心という敵を打破し、われわれ自身のなかに力の源泉とインスピレーションの岸辺を発見するのだ。

 臆病心の根底にあるのは死への恐怖である。通常われわれは、自分が死へと向かっていることを連想することさえ避けている。死の刃(やいば)から自分を守るための盾のような環境を人工的に作り出そうとしている。われわれは暖かい繭を紡ぎだし、そのなかでぬくぬくと、うたたねをしながら安楽に生きている。われわれはすべてのものを自分のコントロール下に置き、そうして自分たちが永遠ではなく、死すべき運命であることを思い出させるようなことが突然起こらないようにしている。こうした努力によって、死から自分自身を守ろうとしているのだ。

それはしかし、人生を祝福することとは対極である。われわれはこうして守りの姿勢を取ってなじみ深い霧をまわりにめぐらす。われわれは憂鬱が大きくならないように、不幸がもたげてこないように注意を払う。実際のところ、我が家のようになじんだ環境にばかりいられることはないので、憂鬱さから解放されることはないのである。この臆病な心がけからは、真の喜びと陽気さを得ることはできない。それは戦士精神でもってはじめて得られるものである。

 戦士になるということは、自分自身をまっすぐ見るということである。臆病な心の本質を見て、そこから踏み出すことである。安全を求める小さな心を、はるかに大きな心、すなわち恐れのない、開かれた、純粋な勇猛さと交換することである。これは一度になせるものではないが、ゆっくりと、徐々に進めていけるものである。閉所恐怖症を認識し、自らを閉じ込めた繭のなかの息苦しさを感じ始めたとき、可能性が生まれるのだ。

この時点でわれわれの安全な家が罠のように思われ、ほかの可能性も感じられるようになる。われわれはある種の換気扇のようなものを強く欲する。そして最終的にカビ臭い巣に入ってくる新鮮な空気を吸って楽しいと思う。

 この制限された、いまやむかつくような自己防衛的で臆病なメンタリティーは、われわれ自身の選択であったことを理解する。同時にわれわれは簡単にこのメンタリティーを捨て去ることができることを理解する。われわれはこの暗くて堅固な牢獄を打ち破り、足を伸ばし、歩き、走り、踊り、遊ぶことさえできるのだ。そして抑圧的な戦いをやめることができる。それによってわれわれは臆病心を養ってきたのだ。そのかわりに大きな確信のなかでくつろぐことができる。

 戦士の確信が何を意味するか理解することは重要である。戦士は何事においても確信を発展させるわけではない。剣術のように、たんにその技能を学ぶのではない。彼はそこにいると安全な場所であるかのように感じるのだ。また彼は選択の余地なしというメンタリティーに陥ることもない。もしその状態を保ち、長く持ちこたえたら、なんとかなるのである。この古臭い確信は、ふたたび自己防御と攻撃に基づいたさらなる繭である。

 この場合には、戦士は自ら存在する確信を持っていると言う。これは競争も戦いの概念もないところでの確信があるという意味である。戦士の確信は無条件である。言葉を変えて言うなら、彼はどんな臆病な考えにも煩わされないので、戦士の心は、不動の、目覚めた状態にある。それには何も言葉を付け足す必要もない。

 一方、戦士が秘めていた確信をあきらかにすれば、彼がすべきことは何もない、と言っているわけではない。いろいろな意味合いで、戦士の道はボーディサットヴァ(菩薩)の無私の行為とよく似ている。ボーディサットヴァとは、彼自身をサムサーラ(輪廻)の苦しみから解放するだけでは満足しない実践者のことである。しかし勇敢なことに、彼はすべての生き物を救済するまでは、休もうとはしないのである。

同様に、確信を持った戦士は彼自身の繭の本質を見て、そこから抜け出すことを誇りにするだけではない。達成したことに自己満足することはなく、自由や安堵を得てもそれだけでは事は足りたとは考えないのだ。むしろ彼の理解と閉所恐怖症の臆病な心の個人的な体験によって、彼自身だけでなく、他者をも解放しようと言う気持ちを強くした。彼は実際、周囲の人の苦悩と憂鬱を見過ごすことができない。そうして無条件の確信から、自発的な慈悲の心が自然に湧き上がってくるのである。

 戦士の慈悲の心はさまざまな形で現れるが、それは基本的な確信から生まれるものである。戦士の確信の心の状態は自ら存在するものであり、攻撃性によって作られたものではないので、慢心にも傲慢にもならない。そのかわりに彼は、他者との関係は控えめで、親切で、冷静である。戦士は疑念にとらわれることはない。それゆえ彼はふるまいにおいても、ユーモラスであり、意気高揚として、元気がいい。彼はちょっとした希望や恐怖の罠にかかることはないので、彼の展望は大きく、失敗を恐れない。

また、彼の心は宇宙のように底知れないので、彼は現象世界に完全に熟達する。こういったことから、彼は障害物によって傷ついたり気がふさいだりすることはない。知りたがりで、元気あふれる彼はそれらすべてが道の一部だと考える。

 確信を持った戦士はおだやかに、恐れないで、知的に行動する。おだやかさは、人間の心の温かい性質である。彼の心は温かいので、戦士の確信は固すぎたり、もろすぎたりしない。とはいえ、それは傷つきやすく、開放的で、柔らかい。われわれに暖かさや親切さを感じさせ、恋に落ちさせるのは、おだやかさである。

同時にわれわれは完全にやさしいというわけではない。われわれは柔らかいとともに、固い存在である。戦士は超然として、隔たりと正確さをもって、世界と接する。確信のこの一面は恐れを知らない直感であり、それによって戦士は高潔さを失うことなくチャレンジすることができる。そしてわれわれの確信は内在する知性であることを表明する。

それは普通のおだやかさや恐れない心を戦士精神のレベルにまで引き上げる。言い換えるなら、おだやかさがいかなるビジョンもない、安っぽいロマン主義に陥らないようにしているのは、恐れない心がたんなるマッチョにならないでいるのは、知性のおかげである。知性は、世界に向って好奇心が旺盛な目覚めた感覚である。それがわれわれのまわりの活き活きとした特質のなかで、評価し、楽しむものなのである。

 さてこれらのことと、魔法のような武器を持ち、羽根のついた駿馬に乗り、無数の悪魔と聖なる教えにはむかう敵を殺した強靭な戦士王、リンのケサルとはどんな関係があるのだろうか。これまで論じてきたことにより詳細な説明を加えたなら、その関係性が見えてくるだろう。

 われわれはすでに臆病心を戦士の敵と呼んできた。臆病心というのは、誘惑に負け、落ち着きがなくなり、自然の状態で休まることができなくなった、さまよう神経過敏な心のことである。自然な状態とは、われわれが戦士の確信と呼ぶ、揺るぎない、目覚めた状態のことだ。

臆病心は実際、われわれが基本的な善と呼ぶ心、すなわち内在する確信を阻害する邪悪な力である。その確信は本来邪悪さからは自由で、臆病心や攻撃性を避けることができるのである。その観点から言えば、戦士精神の目的は敵を倒すこと、すなわち臆病心の邪悪さを鎮め、基本的な善、すなわち確信をあきらかにすることである。

 敵を征服することについて話すとき、攻撃について話しているのではないことに留意する必要がある。純粋な戦士は立腹したり、傲慢になったりはしない。野心や高慢はたんに臆病心の一面にすぎない。戦士精神の内部にあるもうひとつの敵である。だから絶対に戦士は彼自身の野心を鎮めなければならない。そして同時に他者の敵も鎮めなければならないのである。このように、戦士精神の理想とは、恐れることなく、やさしさと知性でもって敵と立ち向かい、自分自身を発展させ、そうして自己覚醒を得ることなのである。

 戦士精神を理解してから、われわれはリンのケサルに立ち戻り、その歴史を見ることができる。その物語全体を見渡して、それを戦士の心の働きとみなすことができるだろう。ケサルは理想的な戦士を、すなわち、すべての勝利の確信の原理を表わす。

健全さの力の代表として、彼はすべての敵、つまり四方の邪悪な勢力を征服する。その勢力は仏教の本当の教えから心をそらそうとする。本当の教えによってのみわれわれは究極の自己覚醒を成し遂げることができるのだ。四方の敵は、臆病心のさまざまな形での現れである。理想の戦士は、不屈の確信の力でもってこの臆病心を征服する。

 ケサルの超絶的な武器と彼の翼が生えた駿馬、キュンゴ・カルカルもまた、戦士世界の重要な力の原理である。武器は戦士精神の象徴である。戦士はしかし武器を携帯しない、というのも、彼は攻撃されるのを恐れるからだ。それはむしろ彼がだれであるかを示すためのものである。

武器は実際、戦士精神を引き寄せ、戦士を勇敢でやさしくあるよう鼓舞する。ケサルの翼が生えた馬は戦士の確信を表わす。それは美しく、ロマンチックで、エネルギッシュな、そして野性的な、理想的な姿を持っている。戦士はそれを捕獲し、乗っているのである。そのような馬は危険で、働こうとしないこともしばしばである。しかし戦士が四方の敵に挑戦し、征服するとき、威厳と誇りをもって、この翼の生えた確信と成功の馬に乗ることができる。

 私はこの前言を依頼されたことを喜ばしく思う。というのも私は自身をケサルの末裔だと考えているからだ。私は戦士精神の伝統の一員であることを誇りに思い、これらの教えを明確にすることによって、ケサルという戦士精神の典型に息吹きを与えることによって人々を助けることができればと切望する。

 

ヴァジュラーチャリヤ(金剛師) 

チョギャム・トゥルンパ・リンポチェ 

1979年5月

コロラド州ボルダ―にて