アレクサンドラ・ダヴィッド=ネール、ケサル王物語と出会う 

B&M・フォスター『アレクサンドラ・ダヴィッド=ネールの隠された生涯』より(宮本訳)


 アレクサンドラは出発計画を練りながら一年近くをジェクンド(青海省玉樹)で過ごした。彼女とヨンデンは、ターチェンルー(打箭炉、四川省康定)からラサへと向かう道路上を、ヤクの隊商がゴトゴトと音をたてながら進んでいくさまをいつも見ていた。

 ある日鬱憤がたまった彼らがぬかるんだ道をぶらぶらと散歩をしていると、図体の大きなカムパの男が旧式の刀を振り回しながら家から飛び出してきた。そのあとを何十人もの人が追いかけ、捕まえようとしていた。

 アレクサンドラがそこにいた女たちに何が起こっているのかたずねると、男は戦士ディクチェン・シェンパの化身で、その戦士が憑依したのだという。ディクチェン・シェンパといえばチベットの国民的英雄叙事詩のリンのケサル王の大臣である。

 ケサル王の敵であるホル王は、ある少年に転生していたのだが、チャン(麦酒)を飲みすぎて酔っぱらったディクチェンは、わめきちらしながら邪悪な者を探しだしてこらしめようとしたのである。ほかの人たちは、彼がかわいそうな転生少年に危害を加えないよう、見張っていなければならなかった。

 アレクサンドラはディクチェンが、千年以上も前から存在する長大な叙事詩から抜き出してはうたう放浪する吟遊詩人であることを知り、喜んだ。翌日、彼女は女たちに混じって彼の歌い語りを聴きに行った。男たちは逆側に坐った。だれもが汚い床の上に小さなカーペットの端切れを置き、その上に腰を下ろした。

 狂気の男はいま落ち着き払い、何も描かれていない白い紙をじっと見つめながら、歌い、身振りを使って表現をした。アレクサンドラは、彼の姿かたちのよさや見た目の美しさ、また内側に展開する物語の世界を反映し、きらめき輝く眼光を絶賛した。

 ケサル詩人は色彩豊かな叙事詩を歌うにおいて、トランペットやその他の楽器を模写するなど、さまざまなパフォーマンスの役割を担うことができた。聴衆はおなじ話を何度も聴いているので、タイミングよく「アン・マニ・ペメ・フム」(蓮のなかの宝石よ!)と叫んで合いの手を入れることができた。

 何も記されていない紙が語り手の前にたてかけられた。というのもその紙に浮かぶ情景を彼は歌うからである。叙事詩人は意識下の記憶にアクセスすることができ、望み通りに必要な一節を取り出した。一部の学者は、ケサル王は伝説的な存在にすぎないと主張するが、トゥルク・トンドゥプ・リンポチェは1996年に書かれた新しい翻訳(*ペニックの『ケサル王の戦士の歌』のこと)の序説のなかで「ケサルは実在する人物であり、彼の勝利は実際に起こったできごとである。この人々への精神的、あるいは社会生活における影響は、いまだにチベット、モンゴル、ブリヤート、カルムク、トゥヴァなどに残っている」と述べている。

 アレクサンドラはケサルの語り手を招き、ケサル王を誹謗することはないと語り手本人に保証することによって、私的に演じてもらった。アレクサンドラとヨンデンは語り手の歌を筆記し、6週間後には、筆記としてはもっとも完成されたものを作り出すことができた。

彼女はケサルの語り手が、現在というよりもケサルの時代(チベットの黄金時代である7世紀から8世紀にかけて)に生きているのだと感じた。語り手の男はしばしば行方をくらまし、偉大なる正義の味方の友として老後を過ごすことを夢見ながら、草原をさまよっていた。

 彼は自らをディクチェンと称し、過去と現在を行き来できると主張した。

 零下の真冬、カムパの男がケサルその人から彼女に贈られたという新鮮な青い花をもってきた。大地は凍り、近くを流れる揚子江上流も180cmの雪に覆われていた。花が咲くのは常識的には7月のことである。この青い花はどこから来たのだろうか?

 おなじく謎めいていたのは、ケサル物語をもとにディクチェンが予言した内容である。それは2年以内にパンチェンラマが中国に逃走するというものだった。アレクサンドラはせせら笑っていたのだが、ラサへ向かう1924年、生命の危機を感じた友人(パンチェンラマ)が中国の領域に亡命したことを聞いて驚くことになる。

 当時10歳の少年僧がホル王(の転生)になることも、ケサルの語り手は予期していた。その悪しき性格はしだいにあきらかになっていった。少年は石で鳥を殺し、仲間の新米僧を殴ることに喜びを感じていたのである。

 ケサル物語の異文は山ほどあり、アレクサンドラにとって決定稿と呼べるものを作るのは困難をきわめた。しかし歴史的なケサルはカムパと思われるので、カムパの流布バージョンがもっとも理解しやすいのはまちがいなかった。

遍歴する騎士道の英雄物語は、名目上は仏教であったが、実際は古代の魔術と驚嘆の精神にあふれた物語であった。神の化身であるケサルは、羽根が生えた黄金の駿馬に乗り、四方向の悪魔と戦いを繰り広げた。

彼は偉大なる英雄であり、火を食べる虎の神であり、ときには金の甲冑をまとい、ときにはトルコ石でできた兜や盾、弓矢で身をかためた。

彼は好んで姿を変えた。みすぼらしい鍛冶屋の小僧に変身したかと思えば、白衣を着てヤギに乗ったナムティグ・カルポ神になり、魂のこもった黒い目と、敵方の妻を誘惑する魅力的な笑顔をもった二枚目で魅力的な王になった。

 饒舌な物語はラブレーを思わせるものがあった。古典的なチベット語ではなく、方言の口語で歌われた。

ケサルはブッダのように無知を駆逐したが、力を用いることに躊躇することはなかった。ケサルは王妃と寝たあと、王妃は彼においしいものを食べさせ、夫のホル王が戻ってくると彼をベッドの下ではなく台所の床下に隠した。ケサルは結局人食いの魔王の頭をまっぷたつに叩き割った。

 ケサルはバルド(煉獄)をさまよう悪しき者の魂に、どうしたら地獄に落ちずにすむのか、どうやって西方浄土に達するのか、正確なガイダンスを示していく。罪人もまた救われるべきなのである。

 その長さにおいてホメロスにも匹敵する叙事詩(ケサル物語)は、さまざまな役割を持っている。純朴な民衆は何度も繰り返し聞きたがるものである。というのもそれは彼らの関心事であり、物語によって別次元の魔術的世界にいざなわれるからだ。

 しかしチョギャム・トゥルンパ・リンポチェによってあきらかにされたのは、ケサル王物語は勇敢さに関する真剣な哲学をもっていることだ。

「ケサルは理想的な戦士である。言い換えれば絶対的な勝利の原理を表わしている。正気の側の中心的な力として、彼はすべての敵を征服していく。(敵とは)仏教の真の教えから人々の心をそらそうとする者たちである。(仏教は)究極的な自己解脱を可能だとする宗教なのである」

 チョギャム・トゥルンパの息子であるサキョン・ミパム・リンポチェは『ケサル王の戦士の歌』の序言につぎのような一節を加えている。

「彼(ケサル)はわれわれの理想の姿を体現している。ほとんど負けそうなときにも勝つこと、勝利者でありながら親切であること、途方もなく大きいのに道端の小石に気づくことなどである」


 アレクサンドラは楽しみながら、ゆっくりとしたペースで旅をつづけた。彼女は年末の二か月を万里の長城の下にある小ゴビ砂漠の端の甘州で過ごした。すきま風が入る家で、彼女とヨンデンは、温度計が零下を示す寒さにもかかわらず、火もなく、すごさなければならなかった。そんな場所で、彼らはいくつかのテクストを参考にしながらケサル王物語を研磨していった。

 奇妙なことに、彼女は物語中のエピソードの多くは卑猥すぎると感じていた。ともかくも完成した物語の英語訳は1934年に出版された(フランス語版は1931年に出版された)。しかしなんということか、英訳はビクトリア風だった。(バイオレット・シドニーの訳は時代遅れだった)

 学者たちはアレクサンドラの後継者が出るのを心待ちにしていた。そして『ケサルの超人的生涯』はベストセラーになるのではないかと考えていた。しかしそうはならず、長大な神話としては、世界でもっとも知られないものとなってしまった。