独龍江行 宮本神酒男

 雲南をきわめつくしていたつもりの(今考えればきわめるというレベルには程遠いのだけれど)私にとって、雲南最後の秘境は独龍江だった。秘境ツアーという謳い文句があふれている昨今、真の秘境といえる場所は地図から消えつつあった。伝え聞くところによれば、独龍江の独龍族の女性は顔に入れ墨をいれているということだった。中国語でそれは簡潔に紋面と呼ばれた。二十世紀もあとわずかで終わろうとしていたとき、そんなプリミティブな風習が残っているのが信じられなかった。

ようやく念願の独龍江入りを果たすまで、いくつかの段階を踏まなければならなかった。結果的に三年の準備期間が必要だった。アクセスの悪さ、情報の少なさが秘境たる条件なのだから、当然のことだったかもしれない。


怒江上流の湾曲した地点。

1993年、バックパッカーのたまり場であった(つまり私が常宿にしていた)大理から六庫行きの長距離バスに乗った。チリのミニチュア版といってもいいような細長い怒江リス族自治州の南端に六庫は位置し、交通の要衝だった。町自体は殺風景だったが、ミャンマーへと流れていくサルウィン川上流の怒江が真ん中を通っているというだけで一見の価値があった。川にせり出している数軒のレストランの窓際に坐り、眼下の瑠璃色の川面の流れを眺めながら食事を取るのは気持ちよかった。レストランの店内は活気はあるものの薄汚く、食事の味もなかなかだったが、グルメの舌をうならせるほどではなかった。私は1993年、その翌年と訪れたので、レストランで働いている人々とは顔なじみになっていた。

 1994年、バスに乗せて六庫まで運んできたマウンテンバイクにまたがり、怒江の上流にある貢山独龍族怒族自治県をめざした。道中ときおりキリスト教の教会が目に入った。川向こうの丘の上に白亜の洋式の建築物がそびえたつのを見ると、数知れない伝道師たちの苦労をしのばずにはいられなかった。福貢県内の教会のなかに入ることができた。ちょうど日曜日だったので、参列者がどっとなかから出てきた。彼らはみなリス族だった。プロテスタントの教会だった。怒江をさかのぼっていくとカトリック教会もみられたが、このあたりから南のほうはプロテスタント一色だった。国境を越えてミャンマーのカチン州に入ればほとんど全員がプロテスタントのクリスチャンだった。私はクリスチャンであることをやめていたけれど、クリスチャンの人々には共感できるところが残っていて、もっと積極的に神様の話でもしたいと思った。でも私は通りすがりの者、しかも自転車野郎にすぎず、溶け込むだけの時間はなかった。

 
リス族のプロテスタント教会。

 怒江にはいくつかのロープ橋(中国語で溜索)が架かっていた。上流とはいえ、大河であるサルウィン川の上空を、村人たちは輪字の縄にからだをのせ、飛ぶように滑っていく。それだけでも尊敬してしまう。女の子やリス族の民族衣装を着たおばさんらが、ムササビのように飛んでいくと、着地したあと、何事もなかったかのように山のほうへ歩いていった。その先に村があるのだろうか。どんな暮らしをしているのだろうか。時間があれば行ってみたいと思った。数年後、まさにこのロープ橋とその向こうの村を取材したドキュメンタリー番組がNHKで放映された。川向こうの世界が気になったのは、私だけではなかったのだ。

 溜索(ロープ橋)で怒江を渡る少女たち。

 情緒あふれる木のつり橋もたくさんあった。農具をもつ人々や牛が歩いていくさまはどこか懐かし感じられた。こういう橋は独龍江に行けばもっとたくさんあるだろうと思った。私の頭の中で勝手に独龍江像が膨らんでいった。

 ペダルを何千回漕いだだろうか。二日後、貢山に着いたとき、私はへとへとだった。疲労困憊ながらも、怒江に架かる大きな鉄橋を渡って町へ入っていくとき、期待に胸がふくらんだ。しかし貢山はある意味で中途半端な町だった。記憶に何ものこらない、美しくもなければ汚くもない、どっちつかずの田舎町だった。秘境への入り口としてはこのほうがいいのかもしれないけれど。

 二年後の1996年、私は大理で出会った長髪で芸術家タイプの三宅さん、チベット自治区で前年に知り合い仲良くなっていた落武者風情の森田さん、そのガールフレンドのわが道を行くタイプのフランス人、イザベルを引き連れて六庫にもどってきた。四人という団体で行動するのは私にとって異例なことだった。

私は今度こそ独龍江に行こうと機会を狙っていたのだが、単独で行くのか、みんなで行くのか、決めかねていた。四人で町の郊外をぶらぶら歩きながら、独龍江という秘境があるが一緒に行かないか、と誘ってみた。そのとき田んぼのなかに動物園というより熊園とでもいうような施設があった。数頭のツキノワグマが檻の中にいた。よく見ると、小熊を含めてどの熊も片手の先を失っていた。高級食材になる「熊の手」を得るために切断されてしまったのだろう。手を失った熊を保護したのか、捕まえてから手を切ったのかわからないけれど、いずれにしても熊たちがかわいそうでならなかった。

「山に入ったら熊がたくさんいるのかしら」とイザベル。

「たくさんいると思うよ。手を失っていない熊がね」と私。

「じゃあわたし、独龍江へは行きたくない。熊が出るかもしれないでしょ」

 そういうわけでイザベルは行かないことになり、ボーイフレンドの森田さんも行かないことになった。ふたりは貢山までは同行することになった。

貢山へ向かう前に、われわれはバスに乗ってミャンマー国境の町片馬に行ってみることにした。外国人には開放されていないけれど、さまざまな交易が行われているはずだった。片馬へとつづく道は未舗装で、狭く、つねに崖縁に面していて危険きわまりなかった。とくに一箇所、とても危ないカーブがあった。そこを通りかかった車はすべて一度バウンドし、崖のほうに傾くのだ。目の前を走っていたトラックも大きく飛び跳ね、荷台の物資が空中に飛び出すかと思われた。危険な道路専門家を自負する私にとってもワースト認定したくなるほど危険な路線だった。

窓から外を見ると恐さが増すのか、イザベルはヘッドフォーンを耳にかけ、音楽をガンガンに鳴らし、上着を被って頭を膝のあたりにうずめた。崖からバスが落ちるなんてめったにあることじゃないし、乗客が気をもんだところで落下事故が起きる、起きないには関係ないだろう。私はそう考えて恐怖の時間を耐え忍んでいた。

 ようやく片馬に近づいた頃、バスが一時停車していると、突然車体が激しく大きく揺れ、私の座席のすぐ後ろの窓ガラスを突き破って、巨大な何かが闖入してきた。何が起こったか、一瞬わからなかった。闖入者は切り出されたばかりの丸太だった。最後部の席に乗客がいなかったのはさいわいだった。

 木材運搬トラックの運転手がハンドル操作をあやまり、積んでいた木材がバスに突っ込んでしまったのだ。片馬までの途中、バスから外を見ると山は赤杉だらけだったが、中国内では天然記念物に指定されているため伐採することができなかった。おそらくミャンマー側の赤杉が伐採され、トラックで片馬を通って中国へ運ばれるのだろう。

 われわれは六庫で車をチャーターし、貢山へのドライブを楽しんだ。貢山に着いた翌日は、車で30キロほど北の丙中洛を訪ねた。半ば廃墟と化したチベット寺(カルマ派)の色あせた雰囲気がよかった。修復工事などしてほしくないなと思ったけれど、僧侶からすれば迷惑千万な感想かもしれない。


 チベット仏教カルマ派の古寺。右は3代目カルマパ、ランジュン・ドルジェ。

 丙中洛から北のほうを見ると、巨大な門のようなものがあった。山がちょうど門のように見えるのだ。怒江は細くなり、この山の門を通ってチベット自治区へとのびていた。察瓦龍(ツァワロン)という町がそこにはあるはずだ。以前出会ったアメリカ人の青年は歩いて察瓦龍に達したと言っていた。この山の門を目にすると、どうしてもその先に行きたくてしようがなかったけれど、今回はあきらめるしかなかった。

                                    (つづく)