電気仏陀パヤー火炎樹
                              宮本神酒男 


電気仏陀(エレクトリック・ブッダ)と勝手に命名した。衝撃的にポップな仏像。

スンウーポンニャーシン・パヤーにお参りし、そのあとタクシーで移動し、日本人兵士の慰霊碑を見たあと、坂の下の別のパヤーに入ったつもりだった。別のパヤーだと思っていたが、同一のパヤーの別の入り口だったのだ。なんだか狐につままれたような感じだった。もちろんトリックに引っかかったわけではなく、このパヤーが巨大だったために、勘違いしてしまったのだ。

 それはともかく、この眺めのよいパヤーには、有名な45体のブッダよりも面白いものがたくさんあった。そのひとつは、神社猫ならぬ寺院(パヤー)猫である。


神社猫ならぬパヤー(寺院)猫。仏前のカーペットが住まい。

 しかしこの猫は一瞬怒ったあと、カーペットにぺたりと坐りこみ、ペロペロと指先をなめはじめた。いまお手入れで忙しいので邪魔をしないでちょうだい、と言わんばかりだ。生後一年くらいの雌猫だろうか。おそらく生まれたときからずっとここにいるのだ。一瞬やってきただけの人間にどけ、と言われる筋合いはない。ここはアタシのウチなのよ、覚えておいて。

 パヤーのなかをぐるりと回って戻ってくると、猫は男の人の横にちゃっかりと坐って撫でられていた。しっぽをいじられるのは嫌いだが、撫でられるのは拒まないようだ。

いつも思うのだが、猫と人間の関係は不思議だ。犬に番犬の役目があるように、猫にはネズミを駆除する役目があるが、実際、世界のほとんどの家猫の役目は人間の心の癒しである。


善男善女が参拝に来るけど、猫は毛の手入れに忙しい。

ジャンプ猫は評判を呼んで相当の観光客を呼んでいたので、お布施だけでかなり潤ったことだろう。これからは「産めよ、増やせよ」で猫の数を増やし、ジャンプ猫僧院からキャット・ヘイブン(猫の楽園)僧院をめざすべきだろう。


インレー湖のジャンプ猫は、ジャンプをやめて、寝るだけの日々。

 日本人は違和感を覚えるが、ミャンマーの仏像には派手なイルミネーションのような後光が付随していることが多い。聖地とされるヤンゴンのシュエダゴン・パゴダの仏像さえそんな感じである。この仏像も御多分に漏れず、頭部の後ろにはレインボー・カラーの後光イルミネーションが光っていた。その光がすさまじく、金色の仏像本体に電流が流れているかのように輝いていた。

 私は思わず電気仏陀(エレクトリック・ブッダ)と命名した。日本人仏教徒が期待するような、古びて、奥ゆかしく、質素で、味わい深い仏像とはまったく異なっていた。いつからこんなキラキラ・ブッダを作るようになったのだろうか。はじめてミャンマーを訪れた90年代にはすでにこの種の仏像を見たような気がする。こういう仏像は仏教の精神に反するのではないかと思ったものだ。


肉欲をいさめる絵。ことさらビッチ風に描かなくてもいいのにと思う。


ロック・コンサートやキャバレーにうつつを抜かす風潮を批判している。





 をしていると、意外なものに出会い、あるいは目にして驚かされることがある。一方、旅を終えて帰国し、写真を整理しているうちに、じわじわと気づかなかった面白さがわかってくることがある。

ザガイン・ヒルの絶景ポイントのパヤー(寺院)もそのひとつだった。じつはその名がよくわからなくて、入り口の寺院名らしき文字を写真に撮り、帰国後にミャンマー語辞書を調べてそれがスンウーポンニャーシンであることが判明した。

スンウーポンニャーシン・パヤー? これって三日月型の柱廊に45体の仏像が並んだ有名なパヤーではないか。わずか1時間前に訪れたパヤーだ。記憶をたどってみる。

どぎつい紅、底知れぬ緑。アンリ・ルソー風の火炎樹に心が溶けそう。

 ここの大きな本尊は、やさしくて、とても尊いお顔立ちをしているのだけれど、仏像だらけのミャンマーにあっては、特別ユニークというわけではない。庶民にまじって大仏の前に坐り、手を合わせて尊容を拝したとき、カーペットの上に一匹の猫が寝そべっていることに気がついた。白地に虎模様の毛並が美しい猫だ。人間様専用のカーペットに猫とは! そう思ったのか、たんにイタズラ心からか、男の子が猫のしっぽをしきりに引っ張っている。普通の猫なら場違いに気づいてさっさと逃げていくだろう。


三日月型柱廊に仏像が並ぶ。ミャンマー人の信仰心の強さを感じる。

 このパヤー猫(あるいはカーペット猫)は参拝者の心を癒しているのだから、十分に功徳を積んでいるといえるだろう。この功績によって、来世は人間として生まれることができるだろう。(と仏教徒なら言うだろうが、来世もまた可愛い猫でいいような気がする。ストレスの多すぎる生き物である人間に生まれ変わる必要はない)

 二日前、インレー湖のンガーペー・チャウン僧院、いわゆるジャンプ猫僧院で「ジャンプをやめたジャンプ猫」を見たばかりだった。ガイドブックにも載っていて、たしかテレビでも紹介されていたのだが、猫にジャンプさせ、輪をくぐらせる芸を仕込んだ僧侶が最近亡くなったため、猫たちは昔のようにビニールシートの床の上で寝そべるだけの気ままな生活を送っていた。


これもまたイルミネーションが輝く神々しいブッダ。

 話をもどそう。大仏の前にいたカーペット猫とじゃれたあと、境内のなかをぐるりと回った。そのときに見た等身大の仏像のひとつを私はおおいに気に入ったのである。


あやしげな会員制バーのようなどこかの入り口。

 仏教は、もともと現在のイスラム教のように偶像崇拝を嫌う宗教だった。許されるのはせいぜいストゥーパ崇拝(つまり仏舎利崇拝)までだった。ガンダーラやマトゥラーに仏像や菩薩像が現れるのは、ブッダの死後6世紀以上もたってからのことである。そんな仏像が、ミャンマーではおびただしく作られ、ついには電飾の仏像が拝まれるようになったのだ。なんという先進的で前衛的な仏教国だろう。

 この電気仏陀の近くに、謎の紫がかったレインボー・カラーの空間があった。もしこれが新宿歌舞伎町の裏路地にある会員制バーの入り口なら、中はボッタクリ・バーに違いない。しかしミャンマー人的にはこの雰囲気は厳かで、尊いものなのだろう。右手の扉をあけたら僧侶の領域なのだろうけど。

 ミャンマーの多くの寺院や聖地には、連続漫画風に物語が描かれた絵が飾られている。ここでも仏教をテーマにした訓戒的な絵が壁伝いに掛けてあった。その中身は、われわれの感覚からするとリアルで、過激すぎ、すこしピントが外れているように思えた。現世の悦楽や欲望に捉われてはいけない、と作者は主張しているのだろう。しかしもしかしたら作者は絵の中のビッチ風の女や絶叫するロックンローラーが好きなのではないか、という疑惑が芽生えてきてしまったのも事実である。

 パヤーのテラスから眺める遠景はたしかに絶景である。しかしもっとも感動したのは、テラスのすぐ隣にある緑濃い葉とどぎつい赤い花だった。私は長い間この木がタマリンドだと思っていたが、植物図鑑を見るかぎり、鳳凰木、別名火炎樹である。

 私はこの真っ赤な花を見るたびに亜熱帯が好きになる。アンリ・ルソーならきっとこの色彩を気に入るだろう。ほかの国でも、とくに台湾でも見ることができるのだろうけど、ミャンマーの、とりわけこのパヤーの火炎樹が気に入っている。