エリック・デイヴィスという名の文化的過激分子 宮本神酒男
「エリック・デイヴィス」で検索すると、真っ先に大リーグの元選手のwikiが出てきてしまう。もちろんこれは同名異人で、こちらのエリック・デイヴィスはカウンター・カルチャー(対抗文化)の申し子のような、異色で多才で饒舌な米カリフォルニアの作家、批評家である。90年代からヴィレッジ・ヴォイスなどの雑誌に寄稿してきた。
私にとってエリック・デイヴィスはちょっとした発見だった。たまたま入手した『The Visionary
State カリフォルニアのスピリチュアルな風景を旅して』(2006)という西海岸の精神文化の最前線を取材した豪華で美しい写真本を読み、思いがけず感銘を受けた。
当然ほかの著書も読みたくなり、『TechGnosis(テクノーシス)』(1998)や『Led Zeppelin W(石崎一樹訳の邦題はレッド・ツェッペリンW・ロックの名盤)』、そしてこの「ビルマの眩惑の日々」が所収されている『ノマド・コード 現代神秘主義の冒険』(2011)をたてつづけに購入した。
エリック・デイヴィスがオレンジ郡に在住していたSF作家フィリップ・K・ディック(1928−1982)のコアなファンであり、ディックに関するいくつものエッセイを雑誌に発表していることを知り、私はいっそう関心をもつようになった。『テクノーシス』所収の「聖なる干渉」はそのひとつである。最近刊行された『フィリップ・K・ディック解題』(2011)にも彼は編集者のひとりとして参加している。ディック好きの私としてはそれだけでも一目置く存在である。
カリフォルニアでは珍しくないのか、エリック・デイヴィスは高校生のときすでにストーナー(ドラッグ常習者)であったという。カウンター・カルチャーの代名詞的存在であるウッドストック・コンサートが開催されたのは1969年であり、エリックはそのときまだ2歳だった。つまりストーナー第二世代に属するのだ。彼はこともなげに愛用していた(あるいは流行していた)ドラッグとしてタイ・スティック(マリファナ)、ブラック・ハッシュ(ハッシッシ)、フンボルト香などを挙げている。
当時の彼は「(TVシリーズ&映画の)『ときめきサイエンス』について語りあい、メディテーションに熱中し、(ゴンゾー・ジャーナリズムで知られる作家の)ハンター・S・トンプソンや(フランスの漫画家)メビウス、また(ヨガナンダの)『あるヨギの生涯』を読み、イーノ、ピンク・フロイド、フランク・ザッパ、イエス、そしてトーキング・ヘッズを聴いていた」という。
こうしてカリフォルニアのドラッグ文化のなかに生まれ育った(大学はイェール大学だが)カリフォルニアをこよなく愛すエリック・デイヴィスが、どうやってミャンマーにたどりついたのだろうか。
本文中に書かれているように、彼をタウンビョンに導いたのはサン・シティ・ガールズのリーダーであるアラン・ビショップだった。私はこのロックバンドのことを知らなかったので、あわてて彼らの音楽MP3をダウンロードした。彼らの音楽は革新的すぎてついていけない面もあったが、その鬼才ぶりには圧倒された。
ユーチューブで彼らの昔のパフォーマンスを見ると、ロック音楽というより前衛芸術の舞台のようだった。80年代や90年代はじめにカリフォルニアで彼らのギグを見ることができていたらどんなによかっただろうかと、溜息が出た。
アラン・ビショップは世界中を旅して、自分の音楽の肥しとすべく、新しいモティーフやアイデアを探した。ミャンマー人の夫人と知り合ったのはその途上のことにちがいない。彼女の影響からか、彼はミャンマー文化の、とくにタウンビョン精霊祭のようないわばハイパー・フェスティバルが気に入ったようである。
エリックはアラン・ビショップが撮ったビデオを観て、タウンビョン精霊祭に衝撃を受けた。彼はそれを「ブードゥー教のようだ」という印象を受けた。うがった見方をするなら、ドラッグなしでトリップできるナップウェ(精霊祭)の底知れぬパワーを感じ取ったのだ。
エリック・デイヴィスがこのエッセイを書いたのは2006年であり、タウンビョンに行ったのはその前年だろう。私がタウンビョンを訪れたすこしあとであり、ほぼおなじものを見たといっても間違いない。ニューハーフ・シャーマン(ナッカドー)の踊りも、目の前で踊っているかのようにわが脳裡に浮かべることができるが、それはエリックが目撃したものとおなじだろう。