夢の中で物語を授かる吟遊詩人

 「活仏として私は痛めつけられたのです」とツェラン・ワンドゥは体中の傷跡を見せてくれた。チベットの民衆に愛されてきた吟遊叙事詩ケサル王英雄物語を歌う詩人であるツェランを、皮肉にも、文革当時の官憲は活仏と同等とみなし、拷問を加えたのである。
 活仏とみなしたのは、毎晩夢の中で神から物語を授かるという特異稀な能力が、官憲の想像をはるかに超えたものだったからだろう。ケサル研究の第一人者、楊恩洪氏によればツェランの歌う物語の数は148にものぼるという。寝ると物語は増えるので、レパートリーは毎晩のように増えていく。
 中国内(チベットや内モンゴル)だけでもケサル詩人は140人ほどいるが、おおまかなところでは、ストーリーが一致している。下界に妖魔が横行し、人々が苦しんでいるさまを見かねた観音が白梵天と相談し、天神の子を降下させ、救助に当たらせる。それがリン国のケサル王である。ケサル王は魔国、ホル、ジャン、ムン国などの強大国を平らげ、さらに18のゾン(中小国)も平定し、地獄の母や妻を救済したあと、天界に戻る。
 ツェランは夜、3時間程度しか眠らない。しかし睡眠後の何時間かは瞑想にあてるというのだから、半覚醒状態のときに物語を入眠時幻覚のように「見る」のかもしれない、と私は勝手に推測する。 ツェランの生い立ちは彼がシャーマンであることを示している。ツェランは、長江源流タングラ山脈の麓、アムド(アムド地方と同名だが異なる)に遊牧民の子として生まれた。8歳のとき、北方からカザフ人匪賊が来襲し、母親を含む親戚縁者のほとんどが殺された。母親は内臓が露出するほどの重傷を負いながらも数日間生き、虫の息で息子にカイラス山などの聖地を巡礼するように言った。故郷を喪失したツェリンの長い流浪生活はそのときにはじまったのだ。
 13歳のときツェリンは聖なるナムツォ湖のまわりを廻っていた。そのとき湖上に鎧兜を装着し、紫色の馬に乗った将軍のような姿を見たあと、突然昏倒し、七日七晩夢を見続けた。たまたま一緒に廻っていた三人の若い女性が介抱し、状態がよくなると、彼をレティン寺に連れて行った。ツェランは訳のわからないうわごとを喋っていたが、活仏はそれがケサル王物語であることに気づき、ハゴシ(神の門を開ける)という儀礼を行なった。するとツェリンの喋る内容が物語のかたちを取り始めたのである。
 こうしてケサル詩人は生まれた。ツェリンはチベット各地を流浪しながら、人の集まるところで歌い、請われて村や寺に出向いた。ひどい文革の時代を生き抜き、時代も変って、伝統文化の担い手として重宝がられるようになったのだ。