チベット仏教のダーキニー
ジュディス・シマー=ブラウン 宮本神酒男訳
質問者「ダーキニーとは何ですか?」
答え(チョギャム・トゥルンパ・リンポチェ)「だれにもわかりません」
心の本性を見る者には
無知の霧を吹き飛ばす者には
ダーキニーはその素顔を見せる。
それでも現実の領域では
だれにも何も見えないのだけれど。
心の中の慎重な「非・観察」なしに
すべてのダルマは起こり、それ自身によって幻惑される。
これがすべてのダーキニーによって教えられることである。
ダーキニーを系統的に説明しようとするのはおそらく愚かなことだ。なぜなら彼女はつねにその本性を矛盾のない形で表しているのだから。チベット仏教金剛乗(ヴァジュラヤーナ)の学者たちは、ダーキニーという言葉を「意味論的にあいまいで多価値的」「奇妙」「ひとつの定義に決める、あるいは制限するのは不可能」などと呼び、定義づけを絶望視する。ラマたちにダーキニーについてインタビューするとき、私はかならずおなじ質問をするが、いつも違う答えが返ってくる。カタログになるほどのダーキニーの定義で私のノートはいっぱいである。
ダーキニーには哲学も大系もないと言われる。つまり彼女の活動には外的な法則もパターンも見えないと。にもかかわらずたしかに、口の上ではダーキニーのシンボルに関して語られることが多いのだ。彼女の属性や活動、しるしを通して、ヴァジュラヤーナ仏教の実践者のスピリチュアルな道を示す、彼女の誤りのなさ、ゆるぎのなさの評価をわれわれは高めていくことができる。
インドにおけるダーキニーの発展
ダーキニーという語は、卑猥という意味を含んだ、土着の非バラモンの伝統と結びつけられた神々の体系のなかのマイナーな神を表すインドの地域のプラクリット語かサンスクリット語から派生したものである。ダーキニーは、人間の血や肉を喜び、腐敗した遺体の骨から作った首飾りをつけて踊る、墓場や火葬場(シュマーシャーナ)の悪魔のような住人だった。彼らは妊娠中や出産時に死んだ女性が魔女になったものとされた。信仰心のない妻はダーキニーになったのではないかと疑われた。これらの魔女たちは、怒ったとき悪疫、とくに熱病、憑依、肺病、不妊などをもたらすと考えられた。彼らは怒りの具現化であり、戦場では虐殺に加わり、敵の犠牲者の血をすすって恍惚とした。
ダーキニーは、憤怒の女神ドゥルガーやカーリー、あるいは「範疇の神」ガナパティの姿でのシヴァ神のような非バラモン教的な神の支配のもとで奉仕するマイナーな神々のひとつのクラスと考えられている。
ダーキニーが血、すなわち尊いラサ(rasa 精髄)、アーリアの伝統の活気ある身体の精髄を飲むのは意義深いことである。カーストの法にしたがって、身体の聖性を保持するためにそれは純粋さが維持され、統合されなければならない。純粋さを破る者は、アーリア社会では不道徳で危険とみなされた。彼らの有名なチャンピオンであるカーリーやドゥルガーのように、アーリア社会の主流に対する周縁の存在、すなわち女性、アウトカースト、不浄を代表している。それゆえ力強いアウトローといえる。
ダーキニーの「女性」性が女性の性行動、生理、出産などに根差しているとするのは、インド文化においては決まりきった学問的解釈である。インドでは女性は男性よりもリビドー的(衝動的)で、性の欲望が満たされることはないと考えられている。インドの大衆文化のなかでは、拒まれたとき、女性の一部は魔女(ヒンディー語でダカンかダハニ)となり、相手の男の首を切って、その血を捧げて復讐を果たすと信じられている。夫や息子たちは弱くて傷つきやすい存在なのである。けがれた生理の血によって、生理期間中に隔離された女性たちはその危険性とパワーが増大するという。
「隔離と血から、人々はダカン、すなわち魔女のことを連想する。彼女らは定期的に、暗い部屋に閉じこもり、敵の欲望に身を捧げ、彼女を侮辱した者たちの血を飲み、肝臓を食べる」
ダーキニーの非バラモン教的成分は、ドラヴィダ文化にそのルーツをたどることができる。すなわち母神信仰、ヨーガの修行、洗練された芸術、木や動物に対する崇拝などである。
基礎的な考古学的調査からは、これらの文化が実際どのようなものであったか、ほとんどわかっていない。しかしながら、インド亜大陸のさまざまな宗教運動が刺激となって、ヴェーダの精神的影響によって色づけられたドラヴィダ人の文化に対する熱狂的な好奇心が戻ってきたといえる。
研究に値する宗教運動はつぎのようなものだ。たとえば、シュラマナ運動(紀元前7世紀から紀元前5世紀)。これは歴史的ブッダ、シッダールタ・ゴータマを誕生させることになった運動である。こうして秘教的なタントラ教が興隆し、結果的に仏教とヒンドゥー教のタントリズムが発展することになった。
インド仏教においてタントラが勃興するまで、ダーキニーはマイナーな神にすぎなかった。7世紀と9世紀の間のインドとネパールで、タントラと呼ばれる儀礼のテキストが写本になってあらわれはじめた。それは女性のシンボルを強調した絶対的なる対(つい)の聖なるパワーに集中している点が特徴だった。そのようなテキストのなかで、ダーキニーと関連したものでもっとも重要なのが、ヒンドゥー教の「シヴァ・バイラヴァ」信仰とも関係が深いチャクラサムバラ・タントラだった。
たしかにこの時期より前に書かれたとされるタントラのテキストもあるのだが、実際その成立年代はあやしく、歴史は曖昧なままである。これらのタントラ・テキストによると、絶対的なるものは、究極的な本質において並はずれた存在であり、男女両方の側面を持っている。
男となってあらわれたとき、ひとりでは不能であり、女神として実体化した女性のパートナー(ヒンドゥー教のシャクティ)を通してのみ活動できる。彼女は圧倒的なパワフルな創造主となり、宇宙の維持者となり、ヒンドゥー教のシャークタのタントラの伝統において、彼女は究極的な第一の存在になる。
インドのさまざまなタントラの伝統の発展によって、さまざまな非バラモン教的な女神が、シャクティ信仰と結びついた母神という至高の地位にまで高められた。これらのタントラのムーブメントとともにあらわれたのはプラーナ・テキストである。それは神話学的な要素と帰依の重要性を強調した。女神の地位上昇の例はドゥルガーやカーリーに求めることができるが、彼らの眷属の地位もまた上昇しているのである。ダーキニーは非バラモン教的神々のなかのマイナーな神のひとつとして前面に進み出る。
インドの初期のタントラには、さまざまなものがあったことを注記しておかねばならない。それらのほとんどは、パワフルな女神をその中核に据えていた。しかし女神に対する理解や解釈、興味のもちかたは、タントラがインドのほかの考え方や実践法とどう影響しあうか次第で、まったく違ったふうに発展した。
たとえば、シヴァ派の伝統では男の神がパワフルで、優越し、明妃(パートナー)を従えた。一方のヴィシュヌ派では、しばしばシャクティは男の神の創造的側面とみなされた。それはおそらく言葉(真言)や種字で宇宙を作り出すのだ。
多くの学者は古典的ヒンドゥー・タントラのさまざまな教派よりも、仏教タントラのほうが早く発展したこと、仏教タントラの神々がのちにヒンドゥーの神々に同化されたというふうに考えている。
彼らの観点からみると、ダーキニーはヒンドゥー・タントラのテキストに現れる前に、仏教的理解にしたがって解釈されている。のち、ヒンドゥー教のなかで彼女はさまざまなものに生まれ変わる。たとえばタントラ・ヨーガの身体のチャクラ・センターの女神に生まれ変わる。またタントラ寺院や宗派(カルト)のシャクティ女神の侍女になる。
ヒンドゥー教の主流で、ダーキニーが宗派(カルト)といえるほどのステータスを得たのは、6世紀、デーヴィー・マーハートミヤと呼ばれるプラーナ経典に現れたときである。そこで大女神はすべての創造の源と説明されている。このテキストとその注釈によって、大女神はヴェーダ、ウパニシャッド、6つの哲学学派、叙事詩(マハーバーラタとラーマーヤナ)の古典的なテーマを通じて解釈され、理解される。
簡潔に言うなら、インド・タントラの伝統から生まれた女性原理シャクティは、古典的ヒンドゥー教であるバラモン教のテーマに取り入れられた。そして女神はヒンドゥー教の本質的な神学的一面となったのである。この信仰において、彼女はたんなる個別の女神以上の存在となり、創造と関連した聖なるものの本質的な女性原理の側面としての女神となったのだ。
チベット仏教における女性原理を理解するためには、ヒンドゥー教の歴史のなかで起きたプロセスを簡単に振り返るのが有効だろう。正確に言うなら、インドのタントラにおける経典上の女性の描写は、それが意味を持ってくる文脈上でこそ理解されるのだ。
女性原理のシャクティに力点を置くヒンドゥー教タントラにも数多くの種類があり、解釈の仕方もさまざまである。シャクティは女性パートナー(明妃)として、シヴァのパールヴァティーのように、特別な男神の活動的で、創造的な力の源泉となっている。またシャクティは宇宙の創造と関連した唯一の至高神、あるいは女神のなかにあるものだ。それはカーリー神のような生成する力かもしれない。より抽象的にいうなら、シャクティは宇宙に内在する女性原理の力とみなされるべきである。
仏教タントラ、とくにチベットのそれは女性原理を異なった仕方で解釈した。タントラ仏教はインドとチベット双方で発展したものだが、女性原理をより本質的なものとしてとらえたのは仏教だった。それは世界の物質的創造においては重要ではなかったが、そのかわり、仏教徒は女性原理をその本質的な教え、つまり非永遠性、空(シューニヤター)、鋭い洞察(プラジュニャー)、慈愛などに反映させた。
シャクティという言葉は初期仏教タントラ経典のみに現れるが、それほど頻繁というわけではない。仏教とシャクティ崇拝が合流したため、タントラ仏教がシャクティ仏教と呼ばれるようになったとき、タントラの解釈においても、ざまざまな複雑な要因によって、誤解が生じることになった。