1章 ジョーティシュの起源 

口伝と文書 

 ジョーティシュの正史と呼べるようなものは、いまだ書かれたことがないように思われる。その歴史上の起源を探ると、古代の闇の中に消えてしまうからだ。ある人は、ジョーティシュは神の摂理だという。インドの聖者はそれが人類に贈られた神からのプレゼントだということを明らかにした。一方、ある人はほかの文明からの借り物を寄せ集めたにすぎないという。いわば文化の窃盗である。しかしわれわれはジョーティシュが進化する知識であるととらえている。インドの天文学や占星術は感応して生まれた土着でオリジナルのものだが、他の文化の要素を吸収し、統合してきたのである。

 人によっては、ギリシアが北インドの一部を征服する以前にジョーティシュについて書かれた記録がないことから、ジョーティシュは借りものにすぎないと断言する。近年の研究者は口頭の伝承に懐疑的で、それらは神話や伝説に姿を変えているはずだと考えながらも、それについて記された古文書がないかどうか調べている。しかしながら、神話や伝説の知識が秘教的な知識を世代から世代へ伝えるために古代人が用いたという可能性も残っている。書かれた言葉は、話された言葉よりもすぐれているとかたくなに信じる者は、エジプトの神王タムスが文字を創出して自らを祝っているトート神に向かって話した言葉をよくかみしめるべきだろう。

 

 文字の発明は、それを使うことを学んだ人々の心の中に「忘れやすさ」を生み出している。なぜなら記憶する訓練をつい怠ってしまうからだ。外側のものであり、内側から出てきたものではない書かれたものを信じるあまり、彼らは彼ら自身の記憶を使う気になれないのだ。

 おまえが発見した特別なものは、記憶の助けになるのではなく、追憶の助けになっているにすぎない。だからおまえが弟子たちに与えているのは真実ではなく、真実に似たものにすぎない。

 

 書かれた言葉はどの文明においてもいわば後知恵であり、最適の表現ではない。インドの伝統文化に権威のある者は、継承する弟子が見当たらず、知識の伝承が危機に瀕したとき、聖なる知識の管理者が文書という形で保存すべきだと考えた。インドの古典の伝統(シャストラス)は今日にいたるまで、記憶、韻文の朗誦、議論を通した口承によるところが大きいのだ。ごく最近まですべての生徒は記憶術を高める訓練を受けていた。また現代インドでは、碩学はジョーティシュを含むさまざまな書物に通じ、ページをめくるように読み上げるなど、信じがたいほどの記憶力を示すことができる。

 直線的な進歩を信じてきたわれわれは、黙読にたいして偏見をいだいているが、じつはこれは書くことよりもあとになって発展したものである。われわれは目に見えるものを崇拝する文化に属している。それゆえかつて知識は口承によって世代から世代へ正確に伝承されたこと、書くことはそれほど価値のあるものとみなされなかったことを認めるのは、それほど簡単ではない。われわれの心を祖先の心と比べるだけでなく、ある意味では、彼らはわれわれよりもすぐれていることを理解すべきである。われわれの大半は記憶の容量をいっぱいにしているわけではないのに、どうやって祖先の考えを知ることができるだろうか。