1章 ジョーティシュの起源 

ヴェーダ、ヴェーダンガ、ヴィディヤー 

 口承文化は――それはインドにはたくさん残っている――文明全体が組織立って口頭で伝えられていた時代の名残である。インドで最初に教わるべき、聞くべき、学ぶべきテキストはアーリア人の神聖なる書、ヴェーダだった。ほとんどの西欧化されていないインド人は、彼らの文化の基礎は通常の人間によって作られたのではなく、古代のリシと呼ばれる超能力者(仙人)によってヴェーダ(聖なる知識)として認識されたものだと信じている。

 一般的にヒンドゥー教として知られる信仰の根本的な経典として認められる4つのヴェーダは、賛歌の集大成、あるいは聖なる歌である。その深い意味は言葉の上面にはなく、象徴的な意味、リズムやメロディ、誦する人の個人的パワーのなかにあった。印刷されたページはヴェーダの本質のほんの一部を見せるだけで、オーディオやビデオでもそれよりマシな程度にすぎない。しかしヴェーダの吟唱を完璧に学んだ人でさえ、奥義を伝授された者がつぎの者へと受け渡してきた深い知識にたどりつくのは容易ではない。

 ヴェーダ自体が生きているものと考えられているのかもしれない。長年にわたってグルは身を捧げて受容器となり、人々を研究へと導いてきた。彼ら(ヴェーダ)は本当の姿をさらしながら、その身を深い知識で満たすようになったのだ。不幸なことに、いくつかのヴェーダの伝統はインドで生き残ってきたが、今日、ヴェーダに含まれる深い知識を完全に知っている人が存在するかどうかも疑わしい。なぜなら秘教的な教えを理解する鍵が紀元前にすでにおおかた失われていたからである。適合する弟子がいないのは、家族や(生物の)種に後継ぎがないのとおなじである。

 それが生まれた時でさえ、ヴェーダはリシたちにのみ完全に理解することが可能だった。神のように認識できた彼らはヴェーダンガ(ヴェーダの肢)と呼ばれる6つの補助的な修練を発展させた。この6つのヴェーダンガは、ヴェーダ本体を理解する前に学ばなければならない。それらはヴャーカラナ(文法)、チャンダス(韻律)、シクシャ(詠唱)、ニルクタ(語源)、カルパ(儀礼)、ジョーティシュ(占星術)である。ヴェーダが生きているものとして人間化したとき、ヴャーカラナは顔、チャンダスは足、シクシャは息、ニルクタは耳、カルパは手、ジョーティシュは眼とみなされた。それぞれのヴェーダンガは生きているものだが、それを会得できるのはリシたちだけである。

 これらのもの、あるいはこれらと似たほかのものは、ヴェーダの詩本体から生まれたもので、しばしばヴィディヤーと呼ばれた。それはヴェーダという語から生まれた言葉であった。すべてのヴィディヤーはあがめられるべき女神だった。あなたと女神が個人的関係を深めると、彼女はあなたを所有することになる。ジョーティシュはジョーティル・ヴィディヤ(光の歌)である。すなわちジョーティシ(ジョーティシュの実践者)だけが持つことのできるヴィディヤーである。というのもジョーティシュは光の神(太陽、月、惑星、星々)のすべての面の研究だからである。