臆病者から勇者へ  シャンバラ・トレーニングのはじまり 

キャロライン・ローズ・ギミアン 宮本神酒男訳 

 

 チョギャム・トゥルンパ・リンポチェが北米にやってきたのは1970年初頭のことである。1976年までに、つまりわずか6年で、彼と彼の生徒たちは洗練された仏教社会を作り出していた。それは早くも伝統として定着しはじめていた。

彼は50か所以上のメディテーション・センターを開設し、北米初の仏教を基盤とした大学、ナーローパ学院を創建した。彼はときどきそこで千人以上の聴衆を前に講演をした。ナーローパ学院の講師には錚々たる名がつらなった。アレン・ギンズバーグ、アン・ウォルドマン、ジョゼフ・ゴ−ルドスタイン、シャロン・サルズバーグ、ジャック・コーンフィールド、ラム・ダス、前角老師、グレゴリー・ベイトソン、ウィリアム・バロウズその他数多くのスピリチュアルな、かつ知的でアヴァンギャルドな名士たちである。

リンポチェは北米中の都市をまわり、大学のキャンパスや教会、タウンホールなどで何百回も瞑想や仏教の修行についてのセミナーを開いた。そして500回以上にわたって大衆を前に講演をした。ニューヨーク、シカゴ、ロサンジェルス、サンフランシスコ、ボストン、トロント、その他北米の大きな都市で、500人から数千人の「スピリチュアルな探索者」である聴衆にたいして話をした。

彼には千人を越える帰依した生徒をかかえていた。彼らは広範囲に及ぶ仏教の修行に励んでいた。彼は上級(シニア)の生徒がより進んだトレーニングを受けられるよう、「3か月セミナー」を開始した。彼は西欧人の生徒を彼のダルマ(仏法)の後継ぎに、つまり法統を継ぐ者に指名した。

彼の著作はベストセラーになった。どの点から見ても、彼および彼がなすことは、信じられないくらいの成功を収めていた。彼の世界は広がり、深まっていった。いったいこれ以上何を必要とする、あるいは望むことがあるだろうか。

 彼のまわりの世界はつねにとてつもないスピードで逆巻いていたが、中心部にはメディテーション・センターの沈黙と空虚があり、彼の絶対的静寂と絶対的力があった。

1976年、チョギャム・トゥルンパは、翌年の一年、リトリート(隠棲)に入るつもりだと宣言した。それは彼にとってリフレッシュし、充電するのにいい休養期間だった。そして彼が不在のあいだに生徒たちがいかに過ごすかを見るのにいい機会だった。彼があたらしいことをはじめる出発点ともなった。すでに成し遂げた地点に安住することなく、つぎのことに取り掛かり、さらには複雑なティーチングの体系に着手するようになったのだ。1976年後半から彼が死去する1987年まで、シャンバラ・ティーチングと聖なる勇者の道の教えを広めることに彼は情熱を捧げた。

 1977年、彼はマサチューセッツ州チャールモント近くの古い農家でまる一年リトリート生活を送った。そこで彼は生徒たちの活動の最新情報を頻繁に受け取っていた。リトリートの期間中、彼はシニア(上級)の生徒たちにシャンバラ・トレーニングをはじめるよう頼んでいた。シャンバラ・トレーニングとは、あたらしい聴衆のためのシャンバラ・ティーチングであり、瞑想の実践をおこなう一般大衆向けのプログラムである。

 リンポチェのまわりに仏教コミュニティが形成されつつあった。当時、生徒たちのあいだに仏教やヴァジュラヤーナにたいする一種の狂信主義が芽生えはじめていた。同時に、シニアの学生たちによるティーチングが仏教といいながらねじまげられたものになりつつあった。

なぜ修行をするのか、仏教とはそもそも何なのかと問われたとき、われわれの口から出てきたのは外国の言葉や概念の洪水だった。ボーディサットヴァ(菩薩)になるにはどうするか、マイトリーとカルナー(慈悲)について、シャマタやヴィパッサナ、マハームドラー、マハー・アティ、サムパンナクラマなどの行法体験について、話せることはなんでも話した。

われわれは瞑想を実践することによって、またチョギャム・トゥルンパ自身と接触することによって触発され、パワーを得た。しかし不幸なことにわれわれはひどいうぬぼれ屋だった。アメリカに生まれたばかりの仏教徒の最良血種と信じて疑わなかったのだ。いかなる意味においても自分たちはナンバーワンだと考えた。アメリカ中に名を轟かせた男のおかげだというのに、いい気になっていた。

リンポチェはわれわれの心にダイレクトに英語で話しかけ、印象的な指示を伝えた。彼はわれわれが仏教を学ぶだけでなく、瞑想の実践をおこなうよう鼓舞した。同時にわれわれが2、3年のトレーニングしか積んでいないにもかかわらず、他者にも教えを広めるよう促した。われわれの試みは、十分に理解できた結果というより、見様見真似にすぎなかった。教えの深みをわかっていないのに、覚えたてのサンスクリット語やもっともらしいフレーズの切れ端を使った。

 私はなにもトゥルンパ・リンポチェの生徒の努力を過小評価しているのではない。実際、先例のない、まったくあたらしいことを成し遂げようとしていたのだ。われわれがはじめたばかりの旅をすでに経験している西欧人はほとんどいなかった。だから高慢ちきになったり模倣したり、躊躇したり失敗したりするのは当然予想されていたことだ。

ブッダダルマ(仏法)についてリンポチェが説いているときも、実際われわれはよく理解できていなかった。リンポチェはわれわれの能力を過信していたかもしれない。しばしば彼の期待に押しつぶされそうになることがあった。

医者はこんな表現をするものだ。「見て、やって、教えなさい(見て覚えて、やって覚えて、教えて理解する)」。リンポチェにも同様の方針があるかのようだった! 

 振り返ってみると、トゥルンパ・リンポチェがシャンバラ・ティーチングとシャンバラ・トレーニングを取り入れたのは、大衆の啓蒙活動というよりも、すでに自分の生徒になった者たちに統合的トレーニングを与えるためだった。シャンバラ・トレーニングを取り入れることによって、リンポチェはわれわれがさらに遠くへ、深く進むことを望んでいたのだ。

シャンバラの教えを他人に伝えるとき、重宝しているサンスクリット語のフレーズを用いることはできなかった。シャンバラ・トレーニングにおいて、外国語の専門語なしで、また言語学的宗教学的な助けなしで、教えを示すようリンポチェはわれわれに指示を与えた。それゆえわれわれは教えを英語で示すことを学ばねばならず、そのためには知性よりも心でもって話す必要があった。

 1976年秋、トゥルンパ・リンポチェはテルマを受け取った。それは「黄金の太陽と偉大なる東」と題されたもので、勇者精神と信念に関するもっとも重要なシャンバラの教えが書かれていた。テルマとは、偉大なるインド人グル、パドマサンバヴァが未来の世代のためにチベット中に、あるいは心や空間のどこかに隠したと信じられている教えのことである。パドマサンバヴァはさまざまなものを書いてカプセルのような金と銀の容器に入れ、チベットの異なる地域の適切な場所に埋めた。未来のいつの日か、だれかが再発見することを願って。この宝物の再発見のプロセスはいつもどこかで起こってきたことである。じつにたくさんの聖なる教えがテルマによってあきらかにされてきた。知られた例としては、『チベット死者の書』がある。

智慧の宝物を保存するもうひとつの方法に、思想の伝承(法統)がある。教えはある特定の適切な師匠たちによって再発見されてきた。彼らはその記憶をもち、記憶をもとに書き下ろしてきたのだ。これはもうひとつの隠された宝物といえる。『黄金の太陽と偉大なる東』はそのようなタイプの心のテルマなのである。チベットにいた頃、チョギャム・トゥルンパはテルトンに認定されている。テルトンは、テルマを発見する、あるいいはあきらかにする師のことである。

 このテキストのなかで、ジギ(ズィジ?)、すなわち「確信」や「威厳」については、さまざまな状況に則してかなり長く論じられている。このテキストにおいて、確信は、もっているふりをするのではなく、高めていくものでもなく、われわれがあらかじめもっている本質的な状態のことである。自分自身を鼓舞する感覚があるのだが、鼓舞するのは自分の存在の強さのなかにある無条件の確信であり、自分のなかに存在しないものを存在させようと試みることではない。

このシャンバラのテキストは、シャンバラ・トレーニングの準備のための研究材料である。1977年、ボルダーに生活しているリンポチェの生徒のなかから、潜在的にシャンバラ・トレーニングの教師となる者として、およそ50人が選ばれた。週に二度、このシャンバラ・ティーチングについて論じるために、仕事のあと、われわれは集まった。そしてシャンバラ・トレーニングをプレゼンテーションするための模擬対話、模擬討論がおこなわれた。互いに模擬プレゼンテーションをおこない、そのときわれわれは聴衆に向って話をしている状景をヴジュアライズした。そしてわれわれはシニアの生徒から、できるだけ人を圧倒すること、シャンバラ・トレーニングがなぜすばらしいか、勢いよく人を納得させるよう命じられた。

われわれの試験的な対話はほとんどの場合中身がなかったが、伝道者のような熱狂をもっておこなわれた。われわれはほかの人々に彼らが潜在的に確信と威厳の能力をもっていることを理解させようとした。威厳と確信と、いやになるほどわれわれは熱狂的な声で繰り返した。われわれの大半は材料を十分に理解しているとは言い難かった。われわれの多くにとって、他人に教えようとしている「確信」は抽象的すぎ、なじみのない概念だった。それは見つけられるべき内なる本質というより一種のポーズにすぎなかった。

 数か月の練習のあと、数人の生徒がリーダーに選ばれた。ある週末、シャンバラ・トレーニングのプログラムが実践された。私たち残りの多数はアシスタントとしてリーダーの補佐をすることになった。

 一般的にいって、われわれの「現実のこと」、すなわち実際の終末プログラムにたいするアプローチは、トレーニング・セッションととてもよく似ていた。リーダーは「確信」を捻出し、彼らの快活な権威とカリスマによって参加者を圧倒しようとした。アシスタントの私は、個別の面談のさい、生徒たちを質問攻めするよう訓練された。質問は、たとえば「偉大なる東の太陽とは何か?」といった謎めいたものだったが、彼らの答えはけっして満足できるものではなかった。

われわれはこうした独参(どくさん)方式の面談について話しあったが、実際のところそれは洞察から生まれたものではなく、禅の師匠と弟子が出会ったときの緊張した場面の摸倣、というより物真似にすぎなかった。私たちは一日に2回生徒たちと会った。そして2番目の面談で面談した相手をひどく怒らせたことがあった。それは私が彼に罠を仕掛けたからだった。私は彼の言い分がもっともだと思い、謝罪した。アシスタントをした最初の週末を終え、このあたらしい試みによって意気が上がるどころか、私はすっかりみじめな気分になった。

 こんな体験をしたのは私ひとりではなかった。マサチューセッツでリトリート中だったリンポチェは、この週末プログラムで起こったことが記されたレポートを受け取った。彼が受け取ったフィードバック(反応)は、それほどポジティブではなかったはずだ。2、3か月、もたつくような試みがおこなわれ、輝きや真の心が感じられることはあっても、それは一瞬にすぎなかった。

そして私たち、つまりシャンバラ・トレーニングの最初の、あるいは未来のリーダーは、リトリート先のリンポチェから手紙を受け取った。リンポチェの手紙は組織のなかのコミュニケーション・オフィスの室長に宛てられたものだった。しかしそれはあきらかにシャンバラ・トレーニングに関わっているすべての生徒に宛てられたものだった。リンポチェがリトリートから戻ってくる寸前、最後のトレーニング・セッションのとき、その手紙は私たちの前で読まれた。彼が言っていることを知って私たちはすっかり途方に暮れてしまった。

 それにもかかわらず私にとってこの手紙は、教えに関する、あるいは純粋な「確信」についての最高のアドバイスを含んでいた。この手紙を受け取る前、シャンバラ・トレーニングとは、人々に分け与えるべき何か特別なものをわれわれが持っていて、そのことを人々に納得させることだと考えていた。振り返ってみると、そんな努力はいわばスピリチュアルなセールスマン根性であったことがわかる。

リンポチェが望んでいたのはそういうことではなく、ほかの人類にたいし、交わり、自分たち自身を純粋にさらけだす機会を与えようとしたのだ。ともあれ嵐の期間を過ぎるまで、われわれは事の次第を理解していなかった。われわれは真実を見出すために、まちがった確信をもって自分たち自身を高揚させていた。この初期の時代を振り返ると、このリンポチェの手紙がシャンバラ・トレーニングの本当のはじまりであったことがわかる。

 チョギャム・トゥルンパはつぎのように書いている。

 

 生徒らはシャンバラ・トレーニングを創出するようにと言われていたのに、かわりに暗中模索し、シャンバラ・トレーニングを模倣している。知っているように、確信(confidence)という言葉は、もしわれわれが仏教の教義に則した健全さをもっていなかったなら、何も意味しない。威厳(dignity)という言葉は、もしわれわれが英国式のテーブルマナーを観察しなかったなら、何も意味しない。もしわれわれが自分たちのベッドの整え方を知らないなら、またこれからはじまる日々の仕事を楽しまないなら、偉大なる東の太陽について語ったところで意味がないだろう。

 ほんの少し息をつき、偉大なる東の太陽のビジョンがもたらされたことがどんなに幸運であるか、考えるべきだろう。われわれはシャンバラ・トレーニングをいかに人に示せるかということばかり気にかけるべきではない。第一に、われわれ自身がいかに幸運であるかを認識すべきである。そうするとつぎに、何か言いたいこと、すなわち世界に向けて発したいメッセージが生まれるだろう。

 もしわれわれに宣言したいメッセージがあるなら、シャンバラ・トレーニングは歴史上画期的なできごととして記憶されるだろう。いまのところわれわれには、いかなるメッセージもないが。われわれがこれまで言ってきたことのすべてから導かれるのは、われわれはスピリチュアルではなく、世俗的な人間ということである。これはわれわれのウィークポイントであり、どうしようもない人間を培養してきたことになってしまう。彼らは瞑想のために坐ろうともせず、かわりに自分の人間性をかかげ、自分には絶対的な確信があると宣言するだろう。なぜなら彼らは権力欲が強く、にせのスピリチュアルをふりかざして奢侈にふけるのだ。自分に甘えた連中にとって、堕落した仏教は都合がいいのだ。

 シャンバラ・トレーニングをおこなうにおいて、われわれは健全さを推し進めなくてはならない。そして人は純粋でなくてはならない。そうでなければ覚醒した社会を作り出す可能性はかぎりなくゼロに近いだろう。欺瞞や攻撃のない純粋なやりかたが必要だ。純粋な個人が彼ら自身のカルトを創ることはない。そうではなく、互いの健全さに身を差し出すべきなのだ。

 

 この抜粋から、人がなぜこの男を恐れたかがわかるだろう。欺瞞を切り裂く鋭いカミソリの刃のような物言い、そしてすべてを見抜く慧眼に恐れをなしたのだ。またなぜ生徒たちが彼に魅了させられたのか、なぜ彼に恋をしたかもおなじ理由であることがわかるだろう。それに無限の純粋さが理由に加えられる。彼の批判精神が同時に彼の魅力を裏打ちしていた。彼はわれわれにおおいに期待を寄せていた。われわれ、というのは有情のことであるが。真実以外のことに彼は身を置いていたくなかった。

 1977年12月にリトリートから戻ってくると、リンポチェはすっかりしぼんでしまったシャンバラ・トレーニングのリーダーたちを呼び、彼らを含む生徒たちに、純粋さといくじのなさの原理に関するテーマのレクチャーをはじめた。このテーマは勇者精神を発展させるさいの基礎だった。そしてまた他者に教えを広めるときの基礎でもあった。私はそのときの部屋の中の感覚、すくなくとも私自身の感覚をよく覚えている。ある種の恐怖感のようなものを覚えたが、同時にほかのときと同様に自分自身がみすぼらしい空(から)のコップのような気がした。先生が教えの本質をそそいでくれるのを待っているようなコップの感覚である。

 リンポチェ自身が主導するシャンバラ・トレーニングのセッションの一部として、彼はわれわれにルンタを伝授してくれた。それはわれわれのルンタ(風馬)を増やす、あるいは上げるためだった。これはリンポチェによる最初の伝授だった。このパワフルな風、あるいはエネルギーの爆発はわれわれに内在する、原初の「確信」を解放した。それはまた他者に「確信」を伝えるよう教えた。そうすることによって他者もまた勇者精神の智慧に目覚めるだろう。

彼にとっては伝授するために、われわれにとっては純粋にそれを受け取るために、基本となる地面を整えるのは必要不可欠なことだった。傲慢とまちがった確信という堅固な土の塊を打ち砕くために、そして未来の勇者になるための純粋な涙で地面を濡らすためになくてはならないことだった。このことは彼がリトリートからボルダーに戻ってきたときに成し遂げられた。そのことは彼が書いたシャンバラのリクデン王たちに捧げた歌のなかに描かれている。

 

おおリクデンの父よ 

あなたのやさしさと寛大さによって 

野蛮な者たちの憂鬱から救われました 

そしてあなたの甘いほほえみから菊の花が生まれました 

それぞれの花弁(はなびら)が育つのを眺めながら 

私たちは喜び、泣きました 

私たちの涙から未来の勇者たちがうまれました 

 

 チョギャム・トゥルンパから指導を受けたオリジナルのメンバーの大半がシャンバラ・トレーニング・プログラムのシニア教師となった。彼らはほかの多くの生徒らとともに、実質的な意味で、リンポチェが宣言したシャンバラの智慧の継承者だった。何千人もの生徒に瞑想と勇者の道を示すことができ、トレーニング・プログラム自体きわめて見事な成功を収めた。プログラムはその中核に、設立者(リンポチェ)が個人的にもちこんだ輝かしい「確信」とともに、それと聞見合わせながら控えめな精神を保っていた。彼は人間の心のやわらかいところからやってくる真の「確信」についてわれわれに教えてくれた。それを勇敢とか恐れ知らずと呼んだ。それは真の芸術であり、人間であるとことの表現だった。

 振り返ってみるに、チョギャム・トゥルンパのような妥協を知らない人間が北米にやってきて、ここで教えを広めたことにたいし感謝したくなる。彼は厳しいが、慈愛に満ちた人物だった。彼は純粋に実践的な法統の継承者だったので、シャンバラ・ティーチングの真の意味がわれわれの人生のなかで理解されたのである。

彼がこの世を去ってから20年の時が流れたが、教えの無神論的メッセージを個人的に受け取り、それを理解するようになったのはごく最近のことにすぎない。それは各自の捉え方の問題である。(私はとくにのろまな勉強家だ!)

彼がはじめたことがいつ根付き、花咲くかはわからない。それを保証する魔法なんていうものはない。西欧の土に彼は戦士精神という種をまいたが、その種をどう育てるかはわれわれひとりひとりにかかっているのだ。

 われわれは内側に確信と勇気をもっている。チョギャム・トゥルンパはそのことを詩に書いて多くのシャンバラの歌を作った。そのうちのひとつはこのような歌だ。

 

真の命令は大いなる東の太陽 

躊躇を越えた確信 

正義の命令は戦士の剣 

純粋で慈愛深いもの 

 

 勇者の世界を築くために、われわれはこれらの言葉、つまり確信、純粋さ、慈愛を使うべきなのだろうか。私たち各自がその問いにたいする答えをみつけなければならない。人生において一度だけでなく、何度も。その意味でシャンバラ・トレーニングの起源は何度も、あちこちで、瞬間、瞬間、選びながら、発見されるのである。勇者の世界のなかでさえ、素直に、だまされることなく、臆病者が傲慢になったり、慢心したり、身勝手になったりせずに。リンポチェはこう言っている。

 

 しくじった勇士なんていうものはない。あなたが勇者でないのなら、あまたは臆病者なのだ。一方で、不成功は勇者のさらなる勇敢さへのステップなのだ。臆病さはすべてのチャレンジを提供するものである。臆病さはあなたを追い払うのではなく、それ自体がステップとなるのだ。こうして臆病さから勇士が生まれる。

 

ここには賞賛も批判もない。ずっと昔、チョギャム・トゥルンパが生徒たちに確信と風馬を紹介したとき、彼はわれわれのエゴなプライド、混乱、攻撃性を、伝授に滋養を与えるためのよい肥料として活用した。もしわれわれ自身がわれわれのなかのこういった素材を活用するなら、素直さの豊作を手に入れることができるだろう。それは勇者の純粋なプライドと威厳の根源なのである。