チベットの英雄叙事詩

ケサル王物語

 魔がはびこる地上。見かねた天界が神の子を送る 

 むかし、チベット人の祖先は雄大な雪山に囲まれた緑の美しい山里に暮らしていた。衣食住に事欠くことなく、争いも嫉妬もなく、平和で幸福に満ちた生活を送っていた。

 ところが突然、どこかに怪しげなつむじ風が起こった。つむじ風は「悪」という毒を吹き散らしながら、平穏なチベット人の里にしのびこんだ。晴れていた空は暗くなり、緑の草原は枯れて茶色になった。善良な人々さえもが疑いや悪意を持つようになり、仲たがいをし、ねたんだり、ウソをついたり、攻撃したりして、憎みあうようになった。あちらこちらに戦乱が勃発し、狼煙(のろし)があがった。
 ある村の男衆が隣村を襲って人々を殺し、家畜や女性らを奪い取ると、隣村の男たちは復讐に燃えて、ある村の人々を殺しまくり、奪われた数以上の家畜や女性らを奪った。こうして疫病のように「悪」という毒は蔓延していった。


 絶望に打ちひしがれた人々は天に祈り、慈悲深い菩薩の救済を願った。

 天界から人間界を見下ろすと、無数の妖魔たちが地上にはびこっているのがわかった。たとえばダムシ三兄弟(dam sri spun gsum)と呼ばれる悪鬼が我が物顔をして闊歩していた。悪鬼どもは人肉を食らい、人血を飲み、人骨をむしゃぼり、人皮をはぎ、衣として着た。人間にはその姿が見えなかった。 

 衆生が塗炭の苦しみを味わっているのを見て、慈悲深い観音菩薩(アヴァローキテーシュヴァラ)はいたたまれなくなった。しかしブッダにはなっていない菩薩の手には余るので、極楽浄土の主、阿弥陀仏(アミターバ)に奏上した。

「西方極楽浄土にいます阿弥陀仏よ、この苦悩の海にあえぐ人間世界をご覧になってください。あなたの慈悲は尽きることがありません。どうかこの悪道に堕したチベットの地に仏の光を射してください」

 阿弥陀仏は観音の要望にたいしてこたえた。
「天の父は梵天(*仏教化したブラフマー。ただしペハル神の姿で描かれることが多い)である。その子のひとり、トゥパ・ガワThos pa dga' ba)を南贍部(なんせんぶ)洲、すなわち人間世界に降臨させるというのはどうであろうか。彼はいわば人間界における菩薩となり、衆生を教化する使命を持つのだ。
 とはいっても、ひとたび人間界に降臨すると、天界での記憶がなくなり、本来の使命を忘れてしまうこともある。さまざまな手を使って彼に使命を思い出させ、いつ、何をすればいいか、つねに知らせるようにこちらもつとめねばならない。
 どうやって、どこに、どの両親のもとに降臨するかは、現在、牛貨(ごか)洲にいるパドマサンバヴァ(蓮華生)に聞くがよかろう」
*トゥパ・ガワは「聞喜」の意味。彼の言葉をだれもが喜んで聞くことからつけられた名。詩聖ミラレパもこの名を持つ。

 観音は阿弥陀仏のことばを聞くと、即座に牛貨洲へ向かった。

 牛貨洲は北にあり、羅刹(ラクシャサ)が住んでいる。ここに蓮華光無量宮があり、その大楽自成殿は荘厳な建物である。閻魔王さえ恐れ、梵天もしり込みし、魔王も避けるという、普通の人が行くことのない場所である。

 しかし衆生を苦しみの海から救うため、観音は行くことを決めた。観音は身を隠すため、頭上に貝殻を載せた羅刹の童子に化けたが、体からまぶしい白光が輝いていた。このように吉祥の仏光に守られていたので、観音菩薩は魔物に襲われることがなかった。

 観音菩薩が牛貨洲の東門に着いたとき、宮殿を守護していた羅刹大臣がその様子を見ていた。大臣は観音の化身を見て、奇異なことだと思った。この子どもはいったいだれなのか。神か羅刹なのか。体が白光を放ち、輝いているのは瑞兆だろうか。
「牛貨洲はだれもが身震いするような恐ろしい場所なのに、こんな子どもが来るとは。よっぽどの事情があるにちがいない」
 羅刹大臣は直接子どもにたずねることにした。



みすぼらしいなりをした童子よ、おまえはどこから来たのか。

ここに来て何をしようというのか。

牛貨洲は悪に満ちた血の海である。

羅刹の食欲は火よりも熱く、

女羅刹の魔手は水よりも冷たく、

人肉を探す羅刹は風よりも速い。

古いことわざは言いえて妙、

もし心中に苦痛を耐え忍ぶ忍耐がなかったなら、

水の中でおぼれてしまうだろう、

もし大きな冤罪に巻き込まれるのでなければ

財宝を役人に贈る必要などない。

もしこどもに乳のにおいが取れていなかったなら、

ここに来た目的は何なのだろうか。

おまえはどこから来たのか。おまえの父母はいったいだれなのか。


 羅刹大臣はそう尋ね、目をしばたきながら返答を待った。観音は考えながら話し始めた。


われは慈悲の子ども 

父は普遍救済菩薩 

母は空性のダーキニー 

われは大楽の里から来た。

蓮華王パドマサンバヴァのことと話す重要な用件があるのだ。

 

 羅刹大臣は童子を見下して「なにかあるならおれに言えばいいんだよ、坊や」とばかにして言った。すると童子は言った。

「ことわざに言います。五穀を草の上にまいたところで益なし、と。あなたさまにお話することは何もございません。上の人に知らせていただければ結構なのです。私は蓮華王に会わなければならないのです」。

 羅刹大臣は怒りに身をふるわせた。

「わ、われは羅刹の王だ。蓮華王さまのもと、その法は雷のごとく轟き、領土は天を覆う雲のごとく広がり、力は魔王ラーフラにも負けないほど強いのだ。おまえごとき放浪乞食のガキに言われる筋合いはないぞ。わしはいつも王のもとに仕えて、罪を犯したことがない。
 もとよりわれらは新しい王を戴き、空性、仁、慈悲、それに寛容、勇猛、温和といった品格を身につけてきた。われらはそろえた衣服、そろえた念珠の玉のように、一致団結しておる。神聖でけがれのない神殿に雑草を入れるわけにはいかんのだ。
 おまえは大王に謁見したいというが、カタ(吉祥の絹のスカーフ)は持っているのかね?活仏に会うのに十分なお布施はあるのかね? 蓮華王に謁見する前に引き合わされる長官に、見合った贈り物は用意できているのかね?

 童子は羅刹大臣のことばを聞いて、言い返した。

「もちろんありますとも。三十種礼品、六字真言、六波羅蜜、客観六境、主観六識、器官六門、なんでもあります。あなたさまには見えませんか」

 羅刹大臣は、童子の話すことは恐れるに足らずと思い、威張り散らしてしゃべったが、心中は穏やかでなかった。

「聖なるツァリ山にお参りするなら(厳しい山岳なので)九節の藤杖が必要だ。地獄の谷を歩くにも白銀の小判がないとな。で、おまえの贈り物とやらはでかいのか、小さいのか?」

「大きいのですが、そんなに大きいというわけではありません。それは弓です。ただしこのからだが弓なのですが。高貴なからだという弓なのです。いや、小さいのですが、そんなに小さいわけではありません。それはこの世と来世の尽きることのない財産と食べ物なのです。いかなるものも望めばあるのです。得がたい如意宝といったところでしょう。もしこういったことが想像もできないなら、それは三悪道(畜生、餓鬼、地獄)の底の石のようなものです。いわば歓楽と苦痛の根。汚物を隠した皮袋なのです」

「よかろう、ここで待つがよい。大王さまを呼んでくるとしよう」
 童子に圧倒されてしまった大臣は宮殿へ向かった。

 パドマサンバヴァは無量寿仏(アミターユス)であり、衆生を救い、仏法を広めてきた。求められるものによってさまざまに変化した。凶悪な羅刹に対するときは、パドマサンバヴァ自身恐ろしい姿をとった。

 牛貨洲に来て、パドマサンバヴァは蓮華王と名乗っていた。黄金の装飾が施された玉座の座布団の上に座り、目をかすかにあけたまま、法性と人間の性について思いをこらしていた。

 外で起こっていること、つまり大臣と子供の会話などすべてのことをすでに知っていた。ただし大臣がやってきたとき、彼は知らないふりをした。

「ほほう、その誰かが歌ったとかいう歌は、どんなものなのか? 何か重要なことを知らせようとしているのではないのかね」

 羅刹大臣は暗澹たる気持ちになった。彼はむかしから伝わることわざを覚えていなかった。

「大王は玉座に座り、その両目は四方をくまなく見渡す。太陽は天空を動き、その光は世界を照らす。雲は空を覆い、その雨の雫は大地を濡らす」

 大王はすべてをお見通しだったのだ。へりくだって大臣は尋ねた。

「四方にその威力を轟かす大王様。羅刹城仁慈大殿の門に人でも魔物でもない小僧がおります。小僧は神ではないと申しておるのですが、その背には白光が輝いておるのです。これは神ということなのでしょうか。あるいは羅刹の子のようでもあります。小僧が申すには衆生の幸にかかわる重大事があり、大王さまになにやら奏上したいとのこと」

「ほほう、それはよきこと」と蓮華王は思わず微笑んだ。

「俗にも言うではないか。信者を悔い改めさせることができれば、人を導くラマであると。ラマにとって、お布施よりも嬉しいもの。将軍の威勢が強ければ、人々は忠誠を誓う。さまざまなお礼の品物をもらうよりも嬉しいもの。福がもたらされ、吉兆のしるしが見られるのは、財宝を得るよりも嬉しいもの、と。今日は吉日。いい兆しの見え始め。さあ今すぐ呼んでくるがいい。神竜、天竜八部、衆生、みな集めてくるがいい」

 羅刹大臣が門から出ると、童子の姿はまだあった。子供がはじめにいたところには金色の八弁蓮華が咲いていた。蓮華の蕊の上には「フリー」という聖なる文字があった。花弁の上にはオーム、マ、ニ、パド、メ、フーム、フリー、アーという8つの文字があった。不思議なことに、花弁ひとつひとつが音を発したので、真言(マントラ)を唱えるのとおなじだった。

 羅刹大臣は奇妙なことだと考えた。目の前で起こっていることをどのように大王に伝えるべきだろうか。ほかの大臣に言うべきなのか、それとも奴婢にでも言おうか。彼は、チベットでよく言うように、12回考え、25の案を練りだした。

 もし心が空性であり、滅することがないなら、男児たるものの策略は尽きないだろう。もし舌が歯の噛むのを許さないなら、賢者の話も完璧ではない。もし両足が無制限に走るなら、曲がりくねった道も終わりがないだろう。もし緑色の河水を火消しに使わないなら、赤く燃え盛る炎を止めることなどできないだろう。

 目の前で起こっていることは無意味な舎利(仏舎利とちがって霊験がない舎利)ではなさそうだ。子どもはなにかえらい神様の化身だろう。金色の蓮華も子どもの変化にちがいない。この蓮華の花弁は大王に進呈すべきだろうか。羅刹大臣は12回考え、25の案を練りだした。

 大王が語っていたことを羅刹大臣は思い出した。福のある者は、神であれ、魔物であれ、その吉兆のしるしをもたらすもの、と。

 この金色の蓮華は形がなく、いわば虹のようなものだ。これは吉兆にちがいない。そう思い、大臣は金色の蓮華の花を摘み、一直線に宮殿の門に入り、大王に謁見すべく走った。そのあいだ手の中の金色の蓮華は白く燦然と輝き、大王の胸に飛び込んだ。

 と、心の中で白光が輝いたように羅刹大臣が感じると、口から観音のことばが発せられた。



オーム・マニ・パドメ・フーム!

蓮華の咲き誇る国に

世尊阿弥陀仏は浄化を求めていらっしゃる。

品のいい蓮華は知恵の宝庫、

化身の大王にお願いしたい。

雪山に囲まれたこの国に

邪悪な者どもがはびこっている。

九人の大臣が我がもの顔にふるまっている。

四方は四大魔王に囲まれている 

北は魔国の魔王ルツェン・ギャルポ 

東はホル国の魔王クルカル・ギャルポ 

西はジャン国の魔王サタム・ギャルポ 

南はモン国の魔王シンティ・ギャルポ 

世の中の妖魔と鬼、

形のある敵と形のない魔物、

チベットの民をそそのかして悪い道に走らせ

衆生にたいへんな受難を与えている。

衆生を救うのは神の子トゥパガワである 

五柱の仏陀に教えられ、

三柱の救世主(文殊、観音、金剛持)に加持をいただき、

人の世界に降臨するだろう。


 蓮華王は驚くべきことばを聞いて無限の喜びを感じた。


ああ善なるかな、菩薩よ。

声聞の解脱した大菩薩よ。

諸星のなかの明月よ。

草原の雪蓮花よ。

諸仏の行を一身に集め

一切勝者の知恵を一所に集め

衆生が苦しみの海から離脱することを願い

幸福の彼岸に到達する。



 慈悲深い観音は、蓮華王が十方の諸仏から事情を聞いたのをたしかめると、ポタラカ(補陀洛山)へ去っていった。

 十日はダーキニー(空行母)やダーカ(空行)が集まるめでたい日。蓮華王はこの日、神の子を誕生させることにした。*ツェチュ(tshe bcu)、すなわちチベット暦十日は節目となる吉祥の日であり、ニンマ派のチャム(仮面舞踏)はこの日おこなわれる。 

 王は法界に座して瞑想し、マントラを唱えた。すると頭頂から緑色の光線が出た。この光線はふたつに分かれ、ひとつは普賢菩薩(クントゥ・サンポ、サマンタ・バドラ)の胸に、もうひとつは女神ナムカイ・ラモの胸に入った。普賢菩薩の胸から光線は五尖の青い金剛杵となって輝き現れた。金剛杵には「フーム」の文字が見えた。金剛杵は一直線に天神の子の頭頂に入った。するとすぐさま馬頭明王(ハヤグリーヴァ)に化身した。女神の胸からは十六弁の赤い蓮華が輝き現れた。花蕊にはアの文字が見えた。この蓮華はひょうひょうと飛んで、天女の頭頂に入った。すると即座に金剛亥母(ヴァジュラ・ヴァーラーヒー)に化身した。

 馬頭明王と金剛亥母は三昧の境地に入り、耳に心地よい音を発すると、十方の諸仏の心弦に響いた。十方の諸仏は交叉した金剛杵を作り、それが馬頭明王の頭頂に飛び込むと、大楽の火に溶け、金剛亥母の胎内に入った。ほどなく光が現れ、聞く者が歓喜し、見る者が解脱にいたるような赤子が八弁蓮華に包まれ、天女にいだかれて降下してきた。赤子の誕生に際して百字マントラが唱えられ、つづいて因果を示す歌がうたわれた。


オム・マニ・パドマ・フーム!

五仏世尊は明智を請う、

願わくば天、衆生とともに

五仏の叡智を得ることを。

六道輪廻から解脱し

三宝に帰依することを。

苦痛の深淵から脱し

菩提心を発することを。

世間の衆生に 

愛憎、憂愁、苦悩は日々増えるばかり。

高位の苦悩は地位が落ちるのではないかということ、

低位の苦悩は兵役や税、労役。

強暴な者の苦悩は事業がうまく運ばないこと。

弱小者の苦悩は他人に侮られたり、だまされたりすること。

富裕な者の苦悩は財産を守れないこと。

貧乏な者の苦悩は衣なく寒いのと食なく飢えること。

人生の苦悩は寿命に限りがあること。

四百種の病が疾風のごとく吹いてくる。

不慮の災難による死者の数ははかりしれず、

運命から逃れるのはむつかしい。

立派な男は生前意気込みがある。

死んだら身の上にあるのは土くれだけ。

富裕な人は生前財を喜捨しない。

死んだら葬儀は水面の灯りのよう。

玉座に座した王侯。

寿命が尽きるとき頭は枕の上。

綾絹を着ていた王妃。

死ぬときその身は炎に包まれる。

六種の武芸を身につけた勇者でも

死ねばハゲタカに内臓を食らわせるだけ。

六種の智慧をもつ主婦も

黒縄に(葬送のため)四肢を縛り上げられるだけ。

一生涯、衣を着、食べ物を口にしてきたが

死んだら何も持っていけない。

六道の仏心のない愚か者、

軽はずみはよくない、真面目にやるべき。

将軍は因果をさかさまにする必要はない。

強い者は弱い者をだます必要はない。

富裕な者は供養と布施をやるべき。

一般人はつねに仏典を読経すべき。

精進してまじめにすべき。



 パドマサンバヴァは銅色山(サンドペリ)上で、神の子の歌を聞き、灌頂を施す時期がやってきたことがわかった。このとき、諸仏の加護が必要となった。パドマサンバヴァはマントラを唱えながらからだから仏光を発した。諸仏を起こすためパドマサンバヴァは眉間から白い光を放つと、それは色究竟天(アカニシタ天)の毘盧遮那仏(ヴァイローチャナ)の心弦に、胸から放たれた青い光は阿シュク仏(アクショービヤ)の心弦に、へそから放たれた黄色い光は宝生仏(ラトナサンバヴァ)の心弦に触れた。喉から放たれた赤い光は西方浄土の阿弥陀仏の心弦に触れた。陰部から放たれた緑の光は不空仏(アモーガシッディ)の心弦に触れた。そして同時に真実をあからめる歌をうたった。


オーム、五毒を除く五智如来よ、

無生界から発起して誓願せよ。

五行を清浄する五天女(ダーキニー)よ、

無天界に衆生を事にあたらしめよ。


世のことわざにもあるとおり、

教えのないラマ(師)はよくない。

誓いにそむく弟子はよくない。

誰も従わない上官はよくない。

礼節を知らない部下はよくない。

刃の切れのない刀は鞘があっても敵に勝てない。

効き目のない六種薬は色・においがよくても病を治せない。

土地が痩せていれば六穀の種を蒔いても実りがない。

権力と賞賛を与えたまえ。

よく切れる刀と鞘を与えたまえ。

六道の良薬を与えたまえ。

これらのことで衆生を教化せよ。



 天の諸仏はパドマサンバヴァに鼓舞されて行動を開始した。
 色究竟のヴァイローチャナ仏は眉間から光を放ち、十方を照らし、十方の諸仏にオームの字を与え、ともに八つの輻をもつ法輪を形成した。この法輪は天にいる神の子のもとへ飛び、歌った。


オーム、法界から生まれた勇者よ。

彼にトゥパ・ガワ(Thos pa dga’ ba)という名前を与えよ。

身を粉にして四敵を倒し

遭った者がふたたび悪道に堕ちないようにし

見た者が清浄な地へ行けるようにし

聞いた者の罪が取り除かれるようにし

そうして彼はすでに灌頂を受けているのだ。

オーム。



 法輪は歌い終わると、神の子の眉間に入った。このときから神の子の名はトゥパ・ガワとなった。

 東方の阿?仏の胸から光が放たれ、青い五尖金剛杵となり、神の子の胸に飛び込んだ。神の子は一切三昧の境地を得た。五種の神が宝瓶の甘露を用いて神の子のからだを洗った。


好男子、神の子トゥパ・ガワ、

三毒の障害を除き

三仏の身体を具え、

金剛の灌頂を受けた。



 宝生仏はへそから光を発した。一切諸仏の功徳と福分をあわせて宝物を作り出し、神の子のへそに入った。また十地菩薩が用いた指輪や長短の胸の鎖、衣類などを神の子にささげた。そして祝福の歌をうたった。


この桂冠をかぶり

すべてが吉祥円満であることを願う。

この耳輪や首飾りをつけ

天もおしなべて吉祥円満であることを願う。

この珍貴で美しい衣を羽おり魔を倒し、

吉祥円満であることを願う。

尊い神の子トゥパ・ガワ、

これら宝物を得て灌頂を受けた。



 西方極楽世界の阿弥陀仏は喉から光を放った。一切諸仏のことばから赤い蓮華を作り、神の子の喉に入った。神の子は六十種の音律を得た。また一切諸仏が誓った金色の五尖金剛杵が空中から神の子の右手に入り、うたった。


この金剛杵は誓いの象徴、

衆生の救済にあたることを願う、

上は天神が力を与え

下は竜王が宝庫の門を開く。

黒色の魔王、黄ホルは

有形無形すべてを征服した。

衆生の魂を送る神の子トゥパ・ガワは

蓮華の灌頂を受けた。



 不空仏は陰部から光を放った。一切衆生の嫉妬を除き、一切諸仏の業(行ない)から緑色の十字架を作り、神の子の陰部に入った。彼は業(行ない)において超越的な力を得た。また一切諸仏の四種の業を象徴する白い鈴が空中から神の子の左手に入り、灌頂を受けた。


そなたは仏陀の功と行を満たし

平和と慈悲の雲から

雷を轟かせ

山の障壁をも取り壊す。

物質を求めるラマ(師)は

智慧ある者の教義をもって(敵を)倒したいと願う。

自尊自大になった上官は

因果をもって倒したいと思う。

法螺を吹く女は

自然の災難をもって倒したいと思う。

そなたに金剛の武器を授けよう。

そなたの心識は法界と金剛界にあまねくあり

菩薩の慈悲を一身に集め

敵を破る事業を成し遂げるだろう。

神の子トゥパ・ガワよ、

すでに事業の灌頂を受けた。



 五人の世尊が灌頂を与えた後、憤怒明王や諸神が四種灌頂を与えた。これによって神の子トゥパ・ガワは無量の功徳を得て、人間界に降臨し、衆生を助ける準備が整った。


⇒ つぎ 




英雄ケサル王と神馬キャンゴ・ペルポ 
広大なチベット文化圏に伝播し、いまなお語り部(説唱芸人)によって語られ、歌われる英雄叙事詩「英雄ケサル王物語」 の主人公。妖魔によって乱れた地上を救うため、天界から降臨した神の子である。



漫画に描かれた「地上が乱れ、殺し合いに明け暮れる」場面 


パドマサンバヴァ (スピティのラルン寺) 
 天界の長である梵天から主役の座を奪った感のあるパドマサンバヴァは、8世紀の70年代にチベットの最初の仏教寺院サムイェー寺が建立された際、チベット中の魔物を調伏したとされる実在のインド出身のタントラ僧。
 チベット人からは、第二のブッダとして親しまれ、尊敬されている。
 とくにニンマ派からは祖師としてあがめられている。パドマサンバヴァが洞窟やストゥーパの中などに隠したとされる経典(テルマ)が発見され、それに記されたゾクチェン思想を至高の教えとして尊ぶ。
 パドマサンバヴァ(サンスクリット)はチベット語でペマチュンネ、蓮華生(蓮華に生まれし者)という意味。庶民はグル・リンポチェと親しみを込めて呼んでいる。
 「ケサル王物語」においてパドマサンバヴァは重要な役割を持っているが、ケサルをパドマサンバヴァの化身とするのはニンマ派だけであり、全体からすれば少数派である。チベット人の大半が仏教徒なので、ケサル王は仏教の守護者であるが、特定の宗派の味方をしているわけではない。ただニンマ派は積極的にケサル王物語を自派に取り入れようとしているようだ。
⇒ 第4章の註 パドマサンバヴァ八変化 



漫画に描かれたパドマサンバヴァ 


ケサル王物語のことわざ 分類 
 ケサル王物語はお母さんが子供に聞かせる物語でもなければ、古老が若い衆に語る民話やおとぎ話でもありません。ドゥンパという専門職の人(説唱芸人)が、集まった人々を前に、歌い、語るケサル王を主人公とする英雄物語なのです。(⇒ 本文)