チベットの英雄叙事詩

ケサル王物語

 リンの部隊、ゴク部落を攻める 

 パドマサンバヴァは神の子トゥパガワが降臨する場所と生みの親を決定した。

 父方はリン国の古い氏族である王族のドン氏(gDong)である。この系統はチューペン・ナクポ(Chos ’pen nag po)のとき三つの支流に分かれた。
 チューペン・ナクポは三人の妃を娶った。セル妃(
gSer bza’)から生まれたのがラヤ・ダルカル(Lha yag dar dkar)、オム妃(’Om bza’)から生まれたのがティジャン・パルギェル(Khri spyangs dpal rgyal)、ジャン妃(sPyang bza’)から生まれたのがダギャル・ブムメ(dGra rgyal ’bum me)である。この三支は長系(che rgyud)、中系(’bring rgyud)、幼系(chun rgyud)と分類される。

 幼系のダギャル・ブムメからトラブム(Thog lha ’bum)が生まれ、トラブムからチューラペン(Chos lha ’phen)が生まれ、チューラペンはロン妃(Rong bza’)、ガ妃(sGa bza’)、ム妃(sMug bza’)の三人を娶った。

リン国の総監ロンツァ・ダゲンはロン妃の子である。ガ妃の子ユギャル(gYul rgyal)はホルとの戦いのさなかホル人の手中に落ちた。ム妃の子センロン(Seng blon)は外見も温和な感じだが、内面も善良だった。総監ロンツァ・ダゲンはメト・タシツォ(Me thog bkra gshis mtsho)を娶り、三男一女、すなわちユペン・タギャル(gYu ’phen stag rgyal)、レンパ・チューギャル(gLen pa chos rgyal)、ナンチュン・ユタ(sNang chun gyu stag)、ラモ・ユドン(Lha mo gyu sgron)が生まれた。

センロンはギャナ(中国)王室の娘ラカル・ギャル(Lha dkar rgyal)を娶り、水の牛の年の十二月一日、子が生まれた。この子は普通ではなかった。顔は満月のようで、眉目秀麗だった。なんといっても、成長するのがおそろしく速く、ほかの子が一年かかるところを一ヶ月で大きくなった。僧侶は長生きと富み栄えることを願い、叔父は祈祷し、叔母は歌い踊った。
 家族はその子をシェル・ニマ・ランシャという名で呼び、外部の人はブムパ・ギャツァ・シェカル(
’Bum pa rGya tsha zhal dkar)と呼んだ。
 その子が生まれて十三日以内に大宴席が設けられ、誕生を祝した。長系の長ラプラン・カセンシェ、中系の長リンチェン・タウェ・ソナム、幼系の長ロンツァ・ダゲンの三人はシェガルの首に吉祥のカタ(絹の吉祥スカーフ)を掛けた。総監ロンツァ・タゲンは祝して言った。

「この祝宴は、未来の幸せを示すものだ。力を増すことの予兆である、夢の予兆が実現されようとしている、四魔を調伏する端緒である」

 ギャツァ・シェカルはすさまじくはやく成長した。大きくなると、人々は彼をギャツァ大人(たいじん)と呼んだ。
 あるときギャツァが狩りに出ていたあいだに、リン部落とゴク部落とのあいだで戦争が勃発した。リンはゴクの十八部落を滅ぼしたものの、その際に総監ロンツァ・タゲンの子レンパ・チューギェルが捕らえられ、殺された。

 この知らせは本来ギャツァに隠すべきだったが、わざと知るように仕向けられた。ギャツァが戻ってきたあと、レンパ・チューギェルの兄が、仇をうつべくゴク部落の残余を掃討するために兵を送ることにした。

 ギャツァの叔父トトン(Khro thung)は別の考えを持っていた。ギャツァという若者は、獅子の耳をつかむのも厭わない、白獅子だって生け捕りするような猛者だと、トトゥンは聞いていた。もしこのギャツァと兄弟の部隊をゴクの国に行かせたら、いともたやすくその地を征服することだろう。

「おい、トトンよ」と彼は自らに問いかけた。「それでよいのか。ゴク部落を征服するということは、彼らが所有している絶世の美女といわれる竜王の娘や竜宮の財宝が彼らのものになるということだぞ」

 トトンは眉をしかめて神経を集中して考えた。
「ゴク部落に書信を送るべきだ。これで彼らはわしに感謝するだろうし、美しい竜女をわしに差し出すことになるだろう。竜女がわしのものとなれば、竜宮の財宝はもうわしのものだ。いや、まあ、財宝はともかく、竜女はわしのものだ。竜王の娘婿か、悪くないのう」
 トトンはこのように考えて、さっそく書信をしたためた。

「ゴク・ラロ・トゥンパ・ギェルツェン(’Gogs ra lo stonpa rgyal mtsan)閣下、ダクロンの大臣トトゥンが申し上げます。総監の子の仇を討つため、ギャツァ・シェカルを首領とした軍隊をゴクの国に派遣いたします。もし戦いがはじまればあなたがたはそれを食い止めることはできません。そのような事態は避けるべきでしょう。ここはわたくしが手を打つことにいたしましょう。将来あなたがたに要求することがありますので、このことは心にとめておいてください」

 書き終えて矢尻に書信を結わえると、マントラ(真言)を唱えながら、トトンは弓を引いた。書信のついた矢はゴク国に到達した。

 ラロ・トゥンパ・ギェルツェンはこの書信を見ると、各部族の兵士以外、つまり女性や老人、子どもらに避難するよう勧告した。自身も家族を集め、天幕を引き払い、いつでも逃げられる準備を整えた。竜宮の天幕や大般若経などの宝物を屈強な騾馬に載せたが、重すぎて動かず、竜世界の緑の角の乳牛のみが動くことができた。

 ゴク部落の人々は避難を開始した。しかし財宝を積んだ竜世界の緑の角の乳牛はなぜか後ずさりをするのだった。
 奇妙なことには、それを見たのは竜女メトラツェだけだった。彼女は馬に乗り、乳牛を追おうとしたが、馬は動きたがらなかった。そこで彼女は馬から下りて歩いて乳牛のあとを追った。しかしふだんはおとなしい乳牛が突然あばれだし、天空を駆け巡らんばかりに走りまわった。メトラツェは乳牛に追いつけず、大声で人を呼んだが、だれもその声を聞くことができなかった。
 マチュ(黄河上流)の荒野を、メトラツェは乳牛のあとを追って進んだ。竜女も乳牛も走りつづけた。竜女が休むと、乳牛もとまって草を食んだ。ついて離れずの距離が保たれたままだった。彼女はひどく疲れ、飢え、喉の渇きを覚えた。

 リン国の兵馬を率いたギャツァがゴクに着いた。しかし目の前には荒野が広がるだけで、家畜の糞以外人や動物の気配はなかった。

 ギャツァは呆然と立ちつくした。ゴクの人々はいったいとこへ行ったのだろうか。彼らはどうやって逃げたのだろうか。われらがゴクの地を制圧することを天は望んでいないのだろうか。いやそんなことはありえない! 彼らがどこへ逃げようとも、捕らえねばならない。ギャツァの考え方にリン国の若い兵士らは賛意を表し、すぐにでも追跡を開始しようとした。

 しかしトトゥンは反対した。
「彼らがどこへ逃げたか知らないのに、われらはいったいどこへ行くというのだ? さっさと帰るべきではないのか」

 年を取った人々は賛成した。しかし若者たちが不満を言い始めると、長老である総監ロンツァ・タゲンは言った。

「われらはリン国の兵士である。なにも手に持たないで帰ることなどできようか。ここはセンロンに、どこへ行くべきか占ってもらおうじゃないか」

 老総監のことばに反対する者はいなかった。荒野に占いの道具はなかったが、センロンは矢を使って占うことができた。占いの結果はつぎのようなものだった。

「一回の食事ほどの努力で十分。剣を鞘から出す必要もなし。矢を構える必要もなし。美女と宝物が簡単に手に入る」

 トトゥンはそれを聞いてほくそえんだ。語気にあざけりをたっぷり含ませて言った。

「この広い荒野で、剣を鞘から出さず、矢を構えずして、どうやって美女や宝物が手に入るというのか」

「よかろう。今日の事はダクロンのトトンの言うとおりだろう。休んで食事でも取ることにしよう」

 老総監はセンロンを信頼し、その占いもまた尊重していたので、トトンの戯言にこれ以上つきあうつもりはなかった。

 リンの部隊が休憩し、食事をとっていることなど知らず、竜女メトラツェは乳牛の後ろを歩き続けた。ぐったり疲れた彼女は牛を止めて休みたかったが、牛の前に出ることはできなかった。そして急ごうとした瞬間、何かにつまずいて、足がもつれ、倒れた。疲れと飢えと渇きに苦しみ、倒れたまま目を閉じて休もうとしたところ、そのまま眠ってしまった。

 このとき赤い絹の衣を着たこどもが近づいてきて、乳の入ったトルコ石の盆を彼女に差し出した。

「これはお姉さまがあなたに差し上げるものです。お姉さまはおっしゃいました、あなたは乳牛の後ろにずっとついてある場所まであるいていかなければならない、と。あなたが衆生のためになさるそのときが来たのです」

 その子どもに詳しいことを聞こうと近づいたとき、夢から覚めた。しかし乳の満たされたトルコ石の盆はそこにあった。子どもの姿はどこにもなかった。彼女は心の中で父王と姉に感謝した。お祈りをあげながら乳を飲みほすと、活力が戻ってきたように感じた。乳牛は彼女が元気を取り戻したことを知ると、ふたたび元気よく走り始めた。彼女もそのあとを追った。ゴクのダルギェ・ロンド谷に至ったとき、リンの部隊に遭遇した。

 食べ終わったばかりのリンの兵士たちの前に、牛と女が飛ぶような速さでやってきた。乳牛は兵士たちを見ると、突然止まり、振り返って竜女が来るのを待った。メトラツェは乳牛ばかりを見ていたので、それが止まったのを快く思わなかった。乳牛の角に手をかけたとき、はじめてまわりにたくさんの兵士がいることに気づき、びっくりした。

 リンの兵士たちも竜女の美貌に茫自失として、凍りついた。目の前の美女は湖上の蓮花の上にはねる陽光のようだった。透き通った瞳は、湖上を舞うミツバチのようだった。はじけるような肢体は、風で動く夏の竹のようだった。やわらかな絹のような肌は、うるわしいバターのように輝いていた。髪の毛は綾絹のように、あるいは玻璃のようにつややかだった。

 貪欲で好色のトトンはその美貌に心惑わされ、近づくと、甘い声で言った。

「仙女のような娘さん、あなたはリンに投降するために来られたのかな。われらは敵のゴク部落を追って来たリン国の部隊でありますぞ。ゴク部落の連中がどこへ行ったかご存知ですかな。それからあなたはどこから来たのですかな」

 メトラツェは心の中で思った。私はゴク・ラロ・トゥンパ・ギェルツェンの妻、どうしてゴクの人々を彼らの手中に追いやるだろうか。自分のこと以外、彼らに何を教えるというのか。彼女はリンの兵士たちの前で言った。


あなたがたは私を知らない。

私の前世はダーキニー

富み栄えた竜宮が

現世のわが住み家。

私の父は竜王ツクナ・リンチェン。

三人姉妹の三人目。

私の名はメトラツェ。

師パドマサンバヴァに献上され

ゴクのラロ家に賜れた。

とはいえゴクにいるのはしばしの間。

ゴク部落に異変が起きたとき

どこへ行ったか私は知らない。

私はただ乳牛を追っているだけ

遠くの部落からここに来た。

もし神仏が慈悲をお持ちでないなら

魔物を避けることはできないでしょう。

いにしえのことわざは言う、

両親と配偶者が住むところ

これらは前世に定められたもの。

苦楽、禍福、財産

これらはあらかじめ決まった運命。

いま私は竜の世界へ帰ります。

ここに来たのは私の意志ではありません。

死ぬまで私は乳牛のあとをついていきます。

私は死んだあとも衆生のために尽くすつもりです。


 リンの人々は竜女メトラツェの話を聞いても半信半疑だった。老総監は撤兵してリンに戻るという決定を下した。センロンは言った。

「ダクロン大臣(トトン)がおっしゃったように、このたび得た戦利品はわが占いの成果と思われます」

「このおなごは戦利品ではなかろう」とトトゥンは反駁した。

 そこへリンの公証人ウェルマ・ラダが仲介役を買って出た。

「女はラロ・トゥンパ・ギェルツェンの財産ですから、戦利品ということになります。ことわざに言います。口から出た話は駿馬でも追いつけない。弓から発射された矢は手で捉えられない。竜宮の十六巻の大般若経典と竜宮の天幕、これらはリンの公共財産であります。しかしこの女と乳牛は占いの報酬としてセンロンに与えられるべきと存じます」

 みなが賛同した。トトゥンは不満に思ったが、どうしようもなく、異議は唱えなかった。しかし後悔の念はしだいに大きくなっていった。

 

⇒ つぎ 



竜女メトラツェ(のちのケサルの母ゴクモ)は、はじめゴク部落に嫁いだのだが、リン部落に襲われ、連れ去られ、センロンの妻となる。 


漫画に描かれた総監ロンツァ・タゲン、(ケサルの叔父)トトン、(トトンの兄であり父の)センロン。


トトン Khro thung
ケサル王の叔父トトンは、貪欲で、好色で、嫉妬深く、その浅はかな行為によってしばしば国を危機に陥れる。とはいってもタクロン18部落の長であり、元国王の弟でもあるので、権力者にはちがいない。また敵役(ヴィラン)を演じる神という側面もある。
 トトンはまた、タムディン(馬頭明王、ハヤグリーヴァ)の化身と目される。どんな悪役を、あるいは滑稽な役を演じようとも、その存在は予定調和的なのである。


欧米人が描くトトン 
米国で出版された絵本に出てくるトトン。個人的には私が頭に描いたトトンのイメージに近い。着ているものはチベット人らしくないが。


漫画版トトンのアップ