チベットの英雄叙事詩

ケサル王物語

 ジョル、追放される 

 ジョルはリンで四年を過ごした。この間に彼はザチュ(メコン川上流)からディチュ(長江上流)にかけての地域の魔物を制圧した。衆生にとってこれはいいことだった。

 壬(みずのえ)の午(うま)の年の十二月十五日、ジョル誕生5周年の日の明け方、夢の中でパドマサンバヴァからの訓示を得た。


神の子ジョルよ!

わしの語ることをよく聞け。

鳥の王ガルダの雛に

風に乗るための羽毛が生えていた。

もし天に飛翔しないのなら

六本の羽毛に何の意味があろう。

勇猛な獣の王の子孫が

緑の鬣(たてがみ)を持ち

三種の武芸を身につけていた。

もし雪山の頂に至らないなら

三種の武芸に何の意味があろう。

神の子が人間界に降臨した。

無敵の神通力を持っているのに

もし征服するために世界へ出て行かないのなら

神通力に何の意味があろう。

降臨した地域はリンである。

居住するのはマチュ(黄河上流)の河岸。

よい地域はこの蓮華の谷。

よい日は甲(きのえ)申(さる)の正月一日。

よい事は神通力ですべてを掌握すること。

よい部落の六族を手中に収めること。


 パドマサンバヴァは歌い終わると、ジョルの耳元で長い間小さな声で語りかけ、飄然と飛び去った。

 ジョルはパドマサンバヴァの話をしっかりと記憶にとどめた。彼はグルの教えに従いこの地を離れ、マチュ流域へ行く決心をした。リンを離れるにあたっては、グルの教えを肝に銘じなければならない。

 ある日ジョルはゴクモに言った。

「母上、わが頭には帽子が必要です。足には履物が必要です。身体には衣服が必要です」と言うと魔杖ジャンカル・ベルカ(lCang dkar ber ka)に乗って去った。

 ジョルはセユル山へ行き、黄羊妖魔三兄弟を殺し、見かけはよくないが羊の角を挿した帽子を作った。夜には老総監の牛の放牧場に入り、七頭の牛魔を殺し、見かけはよくないが牛皮から衣服を作った。また牛の尾を衣服の上に掛けた。夜半にジョルはトドンの馬の放牧場に入り、馬魔を殺し、見かけはよくないが馬皮の赤い靴を作った。また馬蘭草を引っこ抜き、靴を飾った。

 ジョル自身が妖魔のように見えた。ゴクモは息子がこのように人を怖がらせる姿を取ることを奇妙に思い、その理由をたずねた。

「よく言われますように、自分の問題は自分で解決しなければなりません。金座に坐る高位の人でさえ人に強要することなどできないのです。私はチューペン氏族の地方を去ります。私には上司も部下もいないし、だれもが敵になりうるのですが、同時にだれも恐れる必要はありません。われら母子に財産はありませんが、後先のことを考える必要はありません。親戚もないので、情にほだされることもなく、他人のことを考える必要はないのです。さあ行きましょう。あちらには温かく、暮らしやすい土地があります」

 ゴクモは何も言わなかった。ジョルは自分の考えを話し続けた。彼はその地域を肉の山と血の海に変えられると述べた。人肉は食料、人血は飲料、人皮は絨毯になると彼は主張した。神でさえこの行為には恐れをなすだろう。人々は噂するにちがいない。神の子ジョルはついに悪魔になってしまった、と。神でさえ震え、赤い顔のラクシャサ(羅刹)でさえ顔色を変え、彼のことを怖がるだろう。

 老総監ロンツァ・ダゲンは憂慮せざるをえなかった。さまざまな予兆から、ジョルが四方の妖魔を倒す神の子であることは疑いなかった。しかし現在の行為はリン国の規則に反するものだった。もしほかに理由があるとするなら、それはいかなるものなのだろうか。そのまま放置していたら、リン国の規則が破壊されてしまう。

 ではどうすればいいか? ロンツァ・タゲンはリン国中の首領を集め、卜占をして天に問うた。占いはつぎのように出た。


鳥王ガルダの雛

どうやら人家に落ちたよう。

羽根を広げ風のままに飛び

日々天高く旋回し続ける。

もし如意樹の枝に止まらないなら

主人の家の四隅で塵が舞うだろう。

毒蛇の頭には宝がある。

貧しい者がそれを手に入れても

それを他者に分け与える度量がなければ

珍しい物ばかり集める強者に遭遇し

貧しい者はその宝の恩恵に与ることはない。

神の子変じて人となる。

誕生の地は吉祥の地。

もし妖魔を倒すことができないなら

マチュ両岸を占領したところで

リンの人々に何の利益があるだろう。

ザチュ(メコン河)とディチュ(長江)の間

巨象に道は狭すぎ

駿馬に山道は険路すぎ

教化すべきホルの国はあまりに遠い。

善悪さかさまの予兆

善良なる戦神は災厄に遭う。

リンの垢だらけの法の洗浄をするため

ジョルをとどめるな、旅立たせよ。

三年以内に

ザチュもディチュも綾絹で覆われ

野生の馬の蹄は天に昇り

マチュ流域の白い法螺貝が柱の上に供えられ

五種の珍宝で装飾される。


 この占いを見て喜んだのはダクロン大臣のトトンだった。
「われらはすぐジョルをリンから追い出すべきだ。もっともいいのは、黒山の貧困地域の向こうの最貧地区に行ってもらうことだろう」

 その他の大臣らも同意し、老総監もうなずいた。ただギャツァ・シェカルのみがやや時間をおいて声を落として意見を述べた。

「わが愛する弟が境外に出るのは心痛いことです。もし放逐されるのなら、ぼくも弟とともに放逐されたい。しかし叔父の命令であるなら、ぼくはそれに従うまでです。ただ駆逐される地方がキユツォン・ニマ・シャルヤの北ならよいでしょう」

 だれもがこの決定に賛同した。しかしいったいだれがこの決定をジョルに伝えるのだろうか。だれもがその役割を拒んだ。ギャツァ・シェカルはため息をつきながら言った。

「だれも行かないのなら、ぼくが行きましょう」

 大臣テンマ(Tsha zhang ’dan ma)はギャツァ・シェカルが顔に悲しみを浮かべているのを見て弟のジョルとの離別に耐えかねているのだと思い、前に出て奏上した。

「尊敬するチューベン氏族のシェカル様、どうか金座にお坐りください。わたくしテンマが行ってまいります」

 ザシャン・テンマが代わりにジョルの住居を訪ねた。住居は、縄のかわりに腸で縫い、人皮を張ったテント、人や馬の遺骸で成した塀、骨の山といった戦慄させるものだった。しかしザシャン・テンマはよく考えてみた。リン国のすべての人馬を殺したとしても、これだけの屍骸や骨を集めることはできないだろう。つまりこれらは変幻術にすぎないということだ。こう考えるともはや怖くなくなり、彼は帽子を脱いでジョルに向かって振ると、ジョルは丘の上から駆け下りてきて、彼をテントの中に招き入れた。

 テントに入る頃には、これらの屍骸や骨は消え、不浄な幻影はすべてなくなった。テントのなかは香気が漂い、身も心もすがすがしく気持ちよくなった。ジョルは天神の飲食でもってテンマを歓待し、ふたりの間はきわめて親密になった。ジョルはさまざまな予言を示し、数々の真相をあきらかにした。ザシャン・テンマはふたりの間柄が未来永劫続きますように、と願った。

 ジョルはそれを聞いてすぐさま言った。
「大臣テンマさま、どうか先にお戻りください。そしてジョルとは間近で会わなかった、声をかけただけだと仰ってください。私がいま言ったこと、あなたが見たことはけっして言わないように。しかと心に留めてください」

 テンマは約束を胸に秘め、リンに戻り、ジョルはまさに羅刹であったと話した。見たとおりのことを説明し、リン国の何人かがその毒牙の犠牲になったようだと述べた。トドンは即座に命令を下した。

「皆のもの、甲冑を着けよ、武器を持て!」

 ギャツァはしかしそれほどのことではないと思い、ぶっきらぼうに言った。

「あちらではそれほどのことでもないだろう。トトンどのに行ってもらってジョルには罪を懺悔してもらえばいい。リン国から追い出せば、驚かすようなことはもう起きないだろう」

 老総監は百人の女にひとひらずつ灰を取らせ、ジョルを放逐する呪詛の準備を整えた。

 ギャツァの心中は複雑だったが、平静を装って宣言した。
「ジョルはドンのムクポ氏族の後裔である。竜王ツクナ・リンチェンの外孫であり、ぼく、シェカルの弟であり、母ゴクモの一子である。彼に対し灰を撒く呪詛を行おう。戦神に対しても従わないことにしよう。もしリン国の法規に反しないなら、百掴みのザンパ(麦焦がし)でもってジョルを放逐しよう」

 ゴクモと子のジョルは衆人の前に引き立てられた。ジョルが黄色の羊皮帽を被り、牛皮の衣を身にまとい、馬皮の赤い靴を履き、ジャンカル・ベイラ魔杖を持つさまは、人々に嫌悪感を催させた。彼は母ゴクモを連れていた。その美しさは尋常ではなかった。馬に乗った姿は日の出のようにまぶしかった。

 リンの人々は母子のさまを見て動揺し、さまざまな声を上げた。

「ジョルはなんとあわれな子どもだろう!」

「ゴクモはなんと美しいことだろう!」

 心打たれたリンの人々は、以前の恐ろしい光景のことはすっかり忘れ、目の前のジョルの様子に同情し、眼に涙を浮かべた。

 ギャツァが馬に乗ると、荷牛と品物とそれらを運ぶ人々も手を止め、ジョルが旅立つのを見守った。

 ジョルは心の中では兄と離別するのが耐え切れなかった。しかし表にはあらわれないようにつとめながら言った。

「ギャツァ兄さん、私はここを去ります。というのも神の予言のそのときが到来したからです。私がいなくなったあとのことは、心配しないでください。私や物を運ぶ人は必要ありません。ポムラ山とマチュの土地神が送った迎えの使者は、昨日もう到着していたのです」

 ギャツァ・シェカルは確信を持った。そしてジョルに対して何か言おうとして見ると、ジョルは群集に向かってすでに語りかけていた。

「善良なる人々よ! ぼくジョルは、どんなことがあっても、衆生を傷つけるようなことはしません。そのことはのち、次第に明確になるでしょう。ぼくジョルは、無罪であるにもかかわらず、境外に追放されることになりました。不当とはいいながら、叔父の決定に逆らうことはできません。不公平であろうとも、これも前世の業というものなのでしょう。ぼくが去ったあと、あなたがたは善行のみを行い、真と真でないものを見極めなくてはいけません。さあ、叔父の命令が下っているので、ぼくはもう行かなくてはないません」

 言い終わると、ジョルはジャンカル・ベルカに乗り、キポ地方から北方へと去っていった。僧らが魔物を祓うために法螺貝を吹くと、まるでジョルを歓迎するかのように鳴り響いた。勇者らが魔物を駆逐するために矢を放つと、まるでジョルに献上したかのように上空を疾駆した。それは実際ジョルの手に収まったのである。ザンパの供え物は雪のように舞い降りてきた。手中の綾帯に降りかかり、ゴクモは叫んだ。

「尊敬するグル・パドマサンバヴァ、本尊ワンチェン・インパ、ダーカ(空行)イェシェ・ギャツォ、ダーキニー(空行母)ナンマン・ガモ、スシュ・ドゥベ・ギャルモ、叔母ゴクキャ・ガモ、兄ドンキョン・ゲポ、弟ルドゥプ・ウェキョン、戦神ニェン・ダルマポ、父王ツクナ・リンチェン、山神ゲド・ニェンポ、地方神キギェル・ダリよ、われら母子を救い、保護したまえ。リンの人、物、財すべてを守りたまえ。大海がいくつもの渓流を受け入れるように、母馬が子馬を先導するように、父母が子を守るように、われら母子を見守りたまえ」

 ゴクモの声は山の合間にこだまし、十三の谷の林と山神キギャル・ダリはゴクモと子の行く手を包み込むように守った。現在に至るまでキポ地方はこのときの様子をとどめている。


⇒ つぎ 









 ジョル自身が魔物のように見えた 



ジョルの奇抜な行動は人々の度肝を抜いた 



ジョル少年は村の家畜に憑依した妖魔どもをすべて殺した。ところが家畜が殺される事件が発生したとみなしていた村人たちは、犯人がジョルだと誤解し、村から追放するという決定を下す。



漫画版ケサル王物語では、ジョルはあやうくトトンに殺されそうになる。 


年の離れた兄(異母兄)ギャツァ・シェカルは、ジョル(ケサル)にとって、もっとも頼もしく、もっともかっこよく、なんでも打ち明けることのできる、いとしい存在だった。村人がジョルを見放したときも、弟を信じてかばおうとした。


 
センロンは妻ゴクモと(ジョルの両親)。ギャツァ・シェカルは異母弟ジョルとの一時の別れを惜しんだ 

ギャツァ 
 ギャツァ・シェカル(rGya tsha zhal dkar)。リン国のセンロン王とギャサ(漢妃)の間にできた長男。ジョル(ケサル)の異母兄。総監ロンツァ・タゲンの甥。この設定が一般的。母の名はギャサ以外には、ラカル・ドルマなど。漢妃のほうが中国人にはウケがいい? 
 ジョル(ケサル)が生まれるまでは、勇敢で、頭がよく、武芸に秀でたギャツァが次期国王の最有力候補だった。神の子(ジョル)が生まれると、ギャツァの母ギャサは激しく嫉妬した。また叔父のトトンも国王の座を狙っていたので、ジョルを殺そうとした。しかしギャツァは弟の誕生を素直に喜び、ずっと弟の理解者でありつづける。
 のち、ケサルが北の魔国へ行ったまま何年間も帰ってこなかったとき、リン国はホル軍に侵略されてしまうが、ギャツァはそのときに命を落としてしまう。ケサルにとっては痛恨の極みだった。




追放されたジョルと母ゴクモは、山間の道を通って新天地へと向かう。そこで待っていたのは……