チベットの英雄叙事詩 

ケサル王物語 

24  ホル国のクルカル王、ドゥクモを求めてケサル王不在のリン国に攻め込む 

 木の虎の年、リンのケサル王はヤルカムのチャンメリ(北の山岳地帯)へ行き、魔物を調伏し、衆生に平安をもたらした。それから3年、火の竜の年、見渡すかぎりの草原は黄色のホル(Ser bo Hor)の版図に入っていた。*黄色ホルは、黄頭ウイグル(mGo ser Hor)すなわち甘粛省のテュルク語系少数民族ユグール族と関連がありそうである。ユグール族の半数はイスラム教徒で、残りの半数は仏教徒。

 リン国の北東はホル人の住む地域だった。ホル人の天帝の名はホル・セルチェン、すなわち大いなる黄色のホルといった。黄色のホルの地域は拡大し、勢いを増していた。

 王には3人の子があり、それぞれ黒、白、黄のテントに住んでいたことから黒テント王(クルナク王)、白テント王(クルカル王)、黄テント王(クルセル王)と呼ばれた。3人の子は長じるにしたがい武芸に秀でるようになったが、とりわけ白テント王(クルカル王)は抜きんでていた。クルカル王は自らを猛虎と呼び、虎帽王と称し、権力を一身に集めた。

 この年、クルカル王ナムギ・ギャルポの王妃、中国出身の公主が突然病没した。翌年の正月、法螺が鳴り、太鼓が轟いた。大臣や家臣らが何事かと集まってきた。このとき群衆を前にクルカル王が歌い始めた。

 

不幸にも公主はこの俗世から離れることになった 

私大王はひとりさみしく過ごしている 

けれども絶世の美女を探すときがやってきた 

私クルカル王と生涯をともにする者を 

ラル王子の母となる者を 

シェンパ(英雄=家臣)らの母となる者を 

ホル国の国母となる者を探すときがやってきた 

その暖かい光でわれらの国土を照らせよ 

 

シェンパたちよ 

珊瑚の頭飾りをつけた乙女を探せ 

庭園の黄金のあずまやに迎え入れよう 

四色の靴をはく乙女を探せ 

トルコ石で飾った門に迎え入れよう 

指が白く柔らかな乙女を探せ 

螺鈿の入った白木の扉を開かせよう 

 

よく火を起こして飯の焚ける乙女を探せ 

わが台所には堆く積まれた茶葉がある 

乳搾りが得意な乙女を探せ 

わが谷を流れる川の畔には乳牛があふれている 

馬を引き鐙(あぶみ)をはずすのが得意な乙女を探せ 

戦いから凱旋する私を迎えてくれるだろう 

女神のように美しい乙女はいずこ 

ただちに探してこの富貴な宮殿に連れて来い 

 

 クルカル王が歌い終わると、パトゥル(英雄を意味する大臣)が奏上した。

 

威厳あるクルカル王グヤン(尊称)さま 

臣下の意見を申し上げます 

大いなるホル国にてそのような美女を探すのは困難であります 

お妃は外の国にお求めなさるべきであります 

 

雪のように白い鳩を送ってください 

はるかインドにまで飛んでいくでしょう 

花模様の孔雀を送ってください 

天空を飛翔し、山神に尋ねてくれるでしょう 

嘴の赤いオウムを送ってください 

竜王のもとへ行って尋ねてくれるでしょう 

かあかあと騒がしい黒カラスを送ってください 

さまざまな国へ行って尋ねてくれるでしょう 

 

あらゆる苦心を惜しみません 

かならずや理想のお妃を探し当てることができるでしょう 

憂える時は長くありますまい 

幸福の予言はまさに王の黄金の口から発せられたのですから 

 

 クルカル王はパトゥルの言葉を聞いてとても喜んだ。そしてただちに白い鳩、花模様の孔雀、赤い嘴のオウム、黒いカラスを放った。

 四羽の鳥は分かれ道にさしかかって停まり、それぞれどこに行くべきか思案した。しゃべることのできる赤い嘴のオウムが言った。

「われらは特使として矢のごとく放たれたわけだが、私欲のために行くのではない。クルカル王の王妃を、ラル王子の継母を、シェンパ大臣らの母のようなお人を、ホル国の国母となる美女を探しに行くのだ。これはそんなに簡単なことではない。もし美女を探し出したとしても、王様と結婚したくないと言い出したら、武力によってでも奪おうとするだろう。そうすると世は乱れ、死者もたくさん出ることになるだろう。われわれは恨まれ、憎まれるだけのことだ。さあ、みんな好きにするがいいさ。おれは南方の家に帰ることにするよ」

 赤い嘴のオウムがそう言うと、白い鳩と花模様の孔雀は賛同した。この三羽は家に帰ることにした。ただ黒いカラスだけが家に戻りたくなかったので、あちこちを飛び回り、天上の梵天宮や山上の神殿、海底の竜宮にいたったかと思えば、ンガリ三部やウーツァン(中央チベット)四翼、ドカム六ガンなどを隈なく飛び回った。およそ3か月、大小の無数の国々を見回ったが、クルカル王の目にかなうような絶世の美女を探し出すことはなかなかできなかった。

 このとき、季節は晩春、東方のリン国ではホトトギスが歌い、雲雀が舞っていた。竜虎が伏せているような谷間にある宮殿では、ケサルの王妃キャロのセンチャム・ドゥクモが黒髪をかきむしりながらテントから出てきた。ケサル王が北の魔も国へ行ってから3年がたち、おめかしをする気にもならなかった。しかしこの日はたまたまふたりの下女をつれて髪を洗うことにした。そこへ黒いカラスが飛んできて、歌をうたった。

 

このウグイスが舞うトンワの地に 

この芳香漂うリンの国に 

長くて丸い目のすべてが注視する 

長くて丸い耳のすべてが傾聴する 

 

時期が来れば本音を明かそう 

時期が来れば願いはかなうだろう 

われは遠方より来たる者 

翼には塵がこびりついているものの 

そなたに心地よい音を聴かせてあげるだろう 

 

われはホル大王の家来の黒カラスなり 

エンドウ豆に似た目は小さくて丸いけど 

ソバに似た鼻は尖って曲がっているけれど 

ゴマに似た舌は長くてペシャンコだけど 

黒い鉄のような爪はとがって硬いけど 

わが翼は幸福の帆なり 

もたらした喜ばしい知らせはたおやかな夢のよう 

 

ドゥクモよ 

そなたは人を驚かせるような美貌の持ち主 

それは愛と美が作り出した謎であります 

わが歩みは高貴なものへと向かっていきます 

失速したのはひとりテントを守るそなたの清楚なる姿を見たがゆえ 

ホル王の王妃をついに探しあてました 

どうかトルコ石の宝座にお上がりください 

ラル王子の継母(はは)となってください 

シェンパ(大臣)らの母となってください 

ホルの国の国母となってください 

われらが切に待ちこがれるなかで 

あなたの至高の力をお示しください 

 

われは黒い羽をひろげて 

いくつもの国や村々の上を飛んできました 

花のように美しい乙女を何人も見てきました 

しかるにそなたを前にすればその色も失せてしまいます 

 

勇敢なる英雄、それは白テント王 

その名は雷のごとく轟きます 

王の牛や羊は紺碧の空の白雲のよう 

王の騾馬は紺碧の海の波のよう 

臣従する国々にかこまれて 

王は光り輝く太陽のよう 

 

幸ある国も多いとはいえ 

ホルほど幸福な国はございますまい 

新興の国も多いとはいえ 

ホルほど強く栄えた国はございますまい 

あなたは黄金の花のように美しいお方 

クルカル王にふさわしい人はあなたのほかにはいますまい 

 

 せっかく上機嫌だったのに、黒カラスが現れ、ドゥクモはすべてがぶちこわされたような気分になった。黒カラスは昼間に悪い兆しを伝え、夜に悪夢をもたらす災いの鳥と考えられていたのだ。ドゥクモは祭壇の灰をつかんでカラスに向って投げつけた。しかし灰はカラスに届かず、そのときつけていたトルコ石の飾り物が地面に落ちてしまった。するとそれを見た黒カラスは、すかさず飛んできて嘴にトルコ石をくわえ、羽ばたいて、ホル国のほうへ飛び去っていった。

 その頃、クルカル王は焦りを感じていた。四羽の鳥を送り出してから百日たつというのに、一羽の消息も聞こえてこなかったからである。そんなときに黒カラスが鳴き声をあげずに戻ってきた。

 黒カラスは嘴にくわえて持ってきたトルコ石を王の前に吐き出した。クルカル王は吉兆のしるしである宝石を見てよい知らせであることを知った。

「ご苦労であった、カラスよ。その美しい娘がどこにいるのか言うてみよ」

 疲労がたまり、飢え、喉が渇いた黒カラスはまず鳩や孔雀、オウムなどに対する罵詈雑言をくどくどと述べ始めた。クルカル王は烈火のごとく怒ったが、なかなか話し始めようとしなかった。彼らは口の白い聖なる羊を殺してカラスに捧げた。それでも放さなかったので、毛の長い聖なる牛を殺した。それでも頭を揺らすだけだったので、雁のように黄色い聖なる馬を殺してカラスに捧げた。クルカル王の怒りが収まりそうになかったので、ようやくカラスは歌い始めた。

 

リン国に美しい娘がおりました 

ドゥクモという美しい娘がおりました 

前へ一歩行くだけでも百頭の駿馬の値がありました 

後へ一歩行くだけでも百匹の肥えた羊の値がありました 

冬には太陽より暖かく 

夏には月より涼しい 

その体からは遍く花の香りがあふれ出て 

ミツバチの群れが体を覆うほど集まってくる 

人の世界に美女は多いといえども 

国王にふさわしい美女となるとほかにいない 

でもケサル王は北方へ行ったまま帰ってこないので 

寝室(ねや)は空いたままなのです 

 

「ああ、なんとすばらしいことだろう。神様がこの機会を与えてくださったのだ。おれはすぐに彼女のところへ行って妻にしてしまおう」

 クルカル王はもうカラスの騒がしい声を聞きたくなかった。すぐにドゥクモのもとへ行って彼女を連れ帰ろうと考えた。

 クルカル王の家臣であるシェンパ・メルツェは、すぐそばで王とカラスの話を聞いて、心の中で考えた。

「リン国など敵ではない。しかし天の徳に反するような行いをしたら、国民に災いをもたらすことになってしまうだろう。リン国は小国ではあるけれど、獅子王は並外れて強い方だと聞いている。出兵が義に悖(もと)るなら、どうやって勝利を収めることができようか。王はそのことをわかっていらっしゃらない。のちに王に後悔させることがあってはならない」

 メルツェは思い切って王に諫言した。

「王さま、われらとリン国はいままで戦争をしたことがありません。もう何年も仲良くしているのに、娘をひとり得るために戦火を交えようというのですか。あなたさまがドゥクモを連れ帰ったら、リン国の獅子王はそれでよしとするでしょうか。もう一度よくお考えください」

 クルカル王はドゥクモのことで頭がいっぱいで、メルツェの諫言に耳を傾けようとしなかった。王はメルツェを黙らせたものの、リン国に兵を送るためにはもっと根拠が必要だったので、ジェツン・イェシェに占いをさせることにした。

 王妃ジェツン・イェシェはホルのガル・パナ王の娘で、美しいだけでなく、聡明で、占いを得意としていた。その占いはよく当たったので、ホル国の人々から愛され、尊重されていた。王が占いを要望されていると聞いた王妃は、虎皮の占い用敷物と白い法螺貝でできた占い用の矢、縁の赤い占い用の絹の布、トルコ石のサイコロなどを持って白テント王のもとにやってきた。

 クルカル王はジェツン・イェシェに、出兵によって目的が達成できるかどうか、勝利を得られるかどうかについて占わせた。彼女はそれを聞いてすぐに占いをやってみたところ、大凶という結果が出た。彼女はあわてて王にもとへ知らせに行った。

「占ってみましたところ、三つの山が現れました。これらの山の間に草原があり、上のほうには銀の刀がきらきら光り、下のほうには血しぶきが散って海のようでした。これは王の弟君が刀で殺されることを暗示しています。王も災難から逃れるのはむつかしいでしょう。これらの大凶の占いの結果からは、どれだけの災難が起こるかはわかりません。しかし王にはこのことを忖度されて、兵を差し向けるのはおよしになったほうがいいでしょう」

 クルカル王はジェツン・イェシェの言葉を聞いて納得しがたいと思った。

「おまえの占いは当たらないだろう。だから占いの結果について二度と口にするな。もしおまえが若くなくて、美しくなかったなら、その首をはねていたところだぞ」

 そう言って王はジェツン・イェシェを退出させた。

 クルカル王が出兵の意思を変えるようには見えなかったので、シェンパ・メルツェは説得をあきらめ、軍に従うことに決めた。

 

 一方リン国の王妃ドゥクモはカラスがトルコ石を落とすのを見てからというもの、不安でいっぱいだった。侍女のアキョンキとリキョンキにとっても、心配事だらけだった。とりわけ王妃が陽光のもとに出たとき、暗雲が陰を作ると、不吉なしるしではないかと案じるようになった。

 その夜、ドゥクモは夢を見た。夢の中で山は崩れ、大地は裂け、洪水が起こり、家々を壊し、すべての牛や羊を飲み込んだ。またハヤブサはあちこち飛び回り、凶暴な狼は下山し、馬の群れに襲い掛かり、牛や羊を殺した。

 悪夢から覚めたドゥクモはびっしょりと汗をかいていた。彼女は突然、メーサが悪夢を見たという話をしたあと魔物に連れ去られたことを思い出した。このあとどんな災難がリン国にもたらされるだろうかと彼女は考えをめぐらした。災難はかならずやってくるだろう。いや、それはリン国にではなく、自分に降りかかってくるだろう。

 ああケサル王よ、三年もたつというのに、あなたはなぜ帰ってこないのだろうか。恐怖におびえながらも、彼女はケサル王に対する思念の気持ちをさらに強めていた。彼女はアキョンキとリキョンキを呼び、自分が見た夢について語った。ふたりはそれを聞いて思わず叫んでしまった。

「王妃さま、それはよろしくありません! メサ妃は悪夢を見たあと、魔物に連れ去られてしまったのです! 何日か前、ホルから黒カラスがやってきて、なにやらホル王に報告したそうです。ホル国の兵隊たちがやってきて、王妃さまを連れ去ろうとしているのかもしれません!」

 さすがにドゥクモも恐くなって、ふたりの侍女を国中にやってさまざまな将軍や英雄を集めさせた。そして敵が攻めてきたらどうすべきかについて話し合いをさせた。

 ギャツァとロンツァを長とするリンの三十英雄や多くの臣民が一堂に会した。ドゥクモの話を聞いて、だれもがその悪夢は悪い兆しだと考えたが、トドンだけはこれを吉兆とみなした。獅子王がリン国に帰ってくる予兆だと主張したのである。しかしその言葉を真に受ける者はいなかった。

 ギャツァ、ロンツァ、ドゥクモは話し合い、大系氏族から7人の騎兵を、中系氏族から7人の騎兵を、小系氏族から7人の騎兵を出し、ホル国にやってその動静を探らせることにした。英雄のひとりテンマが三七二十一人の騎兵のリーダーになりたがると、ギャツァとロンツァはその申し出を受け入れて、承諾した。

 テンマは21人の騎兵を率いてリン国を出発した。しばらく進むと小高い丘があり、その頂から石ころだらけの平原に黒と赤の12の部隊が整列しているのが見えた。しかしその向こうにはまだ多数の兵士がいるように思われた。

 テンマはもっと高い山の頂に登り、石ころだらけの平原のはるか向こうのほうまで人の波が海のようにうねっているのが確認できた。人煙もまた針で縫い合わせたかのように広がっていた。

 テンマがよく観察すると、ホルの軍隊の右翼は白テント部、中央は黄テント部、左翼は黒テント部という構成になっていた。その他は9部3隊から成り、白、黄、黒テント部の後方につけていた。先鋒部隊は、勇猛なる将軍シェンパ・メルツェ率いるパトゥル軍(勇者軍)だった。これらの大軍がまさにリン国の方向に向いていた。兵馬の配列を見ても、リン国へ攻め入ろうとしているとしか考えられなかった。テンマは21の騎兵をひとたび国に帰って報告させ、自分は残って観察をつづけた。

 21人の騎兵は疾駆してリン国へ向かった。一方の天下は急がず、あわてず、陽山からモチノキを、陰山から杜松(ねず)の枝を、また谷から香りのいい茅草を採ってきて、サン(香煙を捧げる儀礼)を焚いた。サンの香煙がもくもくと上空に立ち昇っていくとき、テンマは戦神をたたえる歌をうたい、自らを奮い立たせ、身ひとつでホル軍を食い止める心の準備を整えようとした。そのとき突然テンマの銀灰色の馬がしゃべりだした。

「ホルの兵馬は牛の毛のように多いですよ。われわれは人ひとり、馬一頭ですよ。直接攻めたところで、叩き潰されるにきまってます。われらはびっこの人、びっこの馬に扮するべきでしょう。あなたはゆっくり歩いてください。私は空(から)の鞍をつけたまま前を歩いていきます。そうしてホル軍の前に着いたら、猛烈な攻撃を開始するのです」

 テンマは銀灰色の馬の言ったとおりに、足をひきずりながら、びっこの馬を牽いて兵隊のほうへ近づいていった。ホル人の注意を引くことはなく、軍の本営の前に出た。彼は白かぶとの覆いを投げ捨て、白い甲冑をしっかりと着て、銀灰色の馬の腹帯をつかみ、馬に飛び乗ると、電光石火のごとくホル軍の陣営に飛び込んでいった。

 シェンパ・メルツェの軍隊は不意をつかれてしまった。18のテントが倒され、18のかまどが壊され、その灰は四方に飛び散って大地を覆い、空に広がって天はまっくらになった。シェンパ・メルツェとその部隊はあまりにも急な来襲であったため、どうしていいかわからず、混乱するだけだった。そしてテンマは陰山、陽山、谷のすべてに放牧されていた戦闘用の馬を追い立てた。

 テンマがホル軍の馬を追い立てるのを目の当たりにしたシェンパ・メルツェは、すぐに白テント王のもとに参じて告げた。

「国王さま、われらはリン国に攻めるべきではないようです。ご覧のように、びっこの馬に乗ったびっこの戦士でさえこんなに強いのです。もしリンの大軍が攻めてきたら、われらに勝ち目がありましょうか。女子供も、ひとりとて無駄に傷つけるべきではありますまい。ホルにも美女はたくさんおります。そのだれを娶っても申し分ないではありますまいか」

「わしはただドゥクモがほしいだけなのじゃ! メルツェはもう余計なことを言うな! リンのびっこの馬に乗ったびっこの戦士がおまえの馬を盗んでいったようだが、おまえは追いかけるどころか、ぐだぐだと申しておる。三軍を率いた勇猛な大将であるおまえがいったいどうしたことか。ちょっとリン国の連中を脅かして、戻って来ればよいだけの話じゃ」

 王が当てこすりを言ったのも、メルツェを怒らせるためだった。王が言い終わらないうちにメルツェは席を立ち、2万のパトゥル軍(勇猛軍)を率いてリン国へ向かった。

 一方リン国の軍隊は準備万端整っていた。両軍は途中で対峙した。水と火のように両者は相いれなかった。壮絶な、くんずほぐれつの激戦となり、相手と自分の区別がつかないほどだった。骨と肉の山が出来上がり、そこから流れる血は河となった。ホルの兵士の数は数えきれないほどだった。リン国側の死傷者も少なくなかった。

 

 ギャツァはリンの12人の王妃が戦乱に巻き込まれないよう、チャム寺にかくまった。ドゥクモは心が焼けるようで、一睡もできず、ずっとおなじことをばかり考えていた。

「ああ、私はなんという運のない女だろう。もしゴロクがホル王の手に落ちたなら、逃げることもできず、死ぬこともできないだろう。もしホル王が私に武器を持たせないなら、それにこしたことはない。どうすべきだろうか? もしホル王をだますことができるなら、時間を稼ぎ、そのうちケサル王がかけつけてくれるかもしれない。ケサル王が来てくれさえすれば、ホル兵が百万人いたって恐くない」

 ドゥクモはふたりの侍女をギャツァとロンツァのもとへ送り、彼らからホル王に意志を伝えようと考えた。すなわち現在はこもって修行中なので、寺を離れるまでもう少し時間が必要だと。それと同時にドゥクモはケサル王に宛てて手紙を書いた。それをリン国の寄魂鳥である白鶴に託し、魔国に送ろうというのである。

 ドゥクモの策略はロンツァの支持を得ることができた。ギャツァは相変わらず賛成しなかったが、リンの兵士たちが蒙った損害を見ると、ケサルが戻ってくるのを待つしかないという考えに傾いていった。こうして結婚の申し出に対し、偽りの受諾をクルカル王に伝えた。

 クルカル王が有頂天になったのは当然だった。この世でもっとも美しいといわれる人が自分のものとなると考えただけで、頭がくらくらした。シェンパ・メルツェは王のそんな様子を見て、ただちに兵を引くよう諫言せずにはいられなかった。しかしクルカル王が諫言を聞き入れるだろうか。ドゥクモを手に入れるのにあと一日待てといわれ、王は一日兵を引くのを延期する、そういう日々がつづいた。

 こうして待てど暮らせど、ドゥクモをわがものにすることができないまま3年の月日が流れた。黄テント王や黒テント王も待ちきれず、クルカル王はしだいに焦りの色を隠せなくなった。彼はシェンパ・メルツェをドゥクモのもとへ派遣し、早く出発するようにと促した。

 ドゥクモはクルカル王以上に焦りを感じていた。待ち焦がれていたケサル王からの消息がまったく聞こえてこないのだ。一日一日、一年また一年、ケサル王からの音信が来ることもなく過ぎ去っていった。ケサル王はもはやこの世にいないのだろうか。そうでなければ、なぜ連絡がなおのだろうか。こうして焦りを覚えているとき、シェンパ・メルツェがやってきて催促する。

「ドゥクモ王妃さま、われらが王は辛抱強く待っておられます。毎日毎日、ひと月ひと月、待っておられますが、こうして3年がたちました。もう耐えるにも限界というものがあります。日々おっしゃっていることが違っておりますが、結局のところ出発を延ばしているだけのこと。つまりこれはいかなることですか。もしすぐに出発されないようでしたら、われらの三王も、このまま手をこまねいているわけにはいきますまい」

「メルツェさん、そんなに急かさないで。そんなに怒らないで。私はリン国に生まれ育ちました。ここを離れるのはそんなに簡単なことではないのです。嫁ぐというのはたいへんなことです。おままごとではないのです。今日はまた谷の上の叔母のところを訪ねなければなりません。叔母はもうたいへん年を取っています。出発したら、今生では二度と会えないでしょう。だからどうしても行かねばならないのです」

 と、ドゥクモは焦りと不安を感じながらも、表に出さないように努めながらシェンパ・メルツェに語った。

 メルツェはただ「はっ」と返事をするだけだった。しかしドゥクモに逃げられるのではないかと恐れ、彼女のすぐ後ろをつかず離れず歩いていった。

 谷に着くと、ドゥクモはメルツェに酒瓶を渡しながら言った。

「メルツェさんは本当にいい人ねえ。ここで酒を飲みながら待っていてください。私ひとりで叔母の家に行ってきます。叔母が殺気立ったあなたを見たら、どんなに驚いてしまうでしょう」

「それもそうですね」とメルツェは谷につづく道を見ながら、ドゥクモが逃げ出せそうにないことを確認した。

 ドゥクモはひとりでリン国最高峰の頂に登った。息を切らしながら山頂に着くと、懐から水晶の鏡を取り出した。この鏡は世界の情勢を映し出すことができた。これによって彼女はケサル王が人間世界にいないことがわかった。

鏡のなかにようやく王の姿を認めることができた。しかし隣には愛妃メサと天女のような美女を侍らせ、ともに酒を飲みながら歌をうたっているではないか。ドゥクモは直視することができず、万の矢で心を射抜かれたような痛みを覚えた。

王は人でなしで、私のことを忘れてしまったのだろうか。いまリン国は黄ホルの軍隊に取り囲まれ、人は殺され、馬や富は略奪されているというのに、人民はみな一日でも早い王の帰還とホル軍の駆逐を待ち望んでいるというのに、どうしたことだろうか。国家存亡の危機だというのに、女たちと浮かれ騒いでいるとは言語道断ではないか。

「ああ、なんてことでしょう!」とドゥクモは叫んで気を失った。

 そのとき一羽のカササギがやってきて、チチチと鳴いてドゥクモを起こした。彼女は涙がたまって朦朧とした目でカササギを見ると、喜んで、「ああ、カササギよ。ケサル王にリンに戻ってくるよう伝えておくれ」と言って歌った。

 

ドゥクモはいまホルの手中にあります 

クルカル王がドゥクモに迫ってきています 

ケサル王にお願いします 明日にでも戻ってきてください 

家のことを忘れ いつまでそこにとどまるつもりですか 

私ドゥクモのことなど思い出しもしてくれないのでしょうか 

母上ともずいぶんと会っていないでしょう 

ギャツァ兄さんのことも頭にないのでしょう 

リンの人々のことは気にもとめないのでしょうか 

カササギよ、吉祥の鳥よ 

手遅れにならないよう急いで王のもとへ飛んで行っておくれ 

 

 歌い終わると、カササギは飛んでいった。ドゥクモはゆっくりと山を下りて、シェンパ・メルツェの姿を見ると先に口を開いた。

「叔母さんの病状が悪化しています。数日叔母さんの看病をしてから出発することにします」

 ドゥクモの目を見ると真っ赤になっていたので、それがケサル王のことを思って泣いていたとは知らず、叔母さんの病状が本当によくないのだと思い、ついメルツェは同情してしまった。

 クルカル王は三日待っても返答が来ないので、待ちきれず、ふたたびメルツェを派遣した。メルツェは道の途中でドゥクモと会った。

「おかげさまで叔母の病気はだいぶよくなりました。でも私には姉がいて、谷のまんなかに住んでいます。いまから姉のところへ行こうとしていたのです」

「あなたがた女人はやることが多いようですな」とメルツェは煩わしさを覚えながらも、ドゥクモといっしょに谷のまんなかへ向かおうとした。

 彼女はまたも懐から酒を出してメルツェに渡し、山の麓で飲みながら待っているようにと言った。そして山頂で宝鏡を取り出し、のぞきこんだ。すると相変わらずケサル王とふたりの妃は酒を飲みながら歌っているのが見えた。そればかりかテントの入り口にはドゥクモが送ったカササギが死んでいるではないか。

「ああ、なんてことでしょう!」ドゥクモはまたも叫んで気を失った。

 目を覚ますと、彼女の腕をぺろぺろと舐めていたのは毛の赤いメスのキツネだった。彼女はキツネの喉をなでながらも、すっかりしょげかえっていた。

「王妃さま、わたくし、ケサル王を探しに行ってまいります。あなたさまの伝言を預かりたいと存じます」

「あなたは私が送ったカササギが王に射殺されたのを知らないのですか」

「あれはカササギがうるさかったからでしょう。わたくしなら王を怒らせることはありません。ですから伝えたいことをおっしゃってください」

 ドゥクモはキツネがとても真剣であることがわかった。彼女はふるえる手で金の指輪をはずし、泣きながらキツネに渡した。

「キツネのお姉さん、この指輪をどうか王に渡してくださいな。そしてこのタクツェ城で娘がひとりたいへんな目に遭っていると知らせてください。三年の月日がすぎました。毎日毎日王が助けに来るのを待っているのです。けれども、ひとりではどうすることもできません。もし憐れむ気持ちがすこしでもあるなら、すぐに戻ってきてください。もしためらうようでしたら、戻って来ないほうがましです。そうしてホル王は娘を連れ去るでしょう。リン国はいまホル人に滅ぼされようとしています」

 赤毛のキツネは金の指輪を口にくわえて走り去った。ドゥクモは目を真っ赤にしたまま山から下りてきた。シェンパ・メルツェはその様子を見て。お姉さんはいったいまたどんな病気にかかっているのだろうといぶかしく思った。また白テント王のもとへ連れていくことができなかったら、どんなに怒られるか、火を見るよりあきらかだ。

「ドゥクモ王妃さま、お姉さまはいかがでしたか」

「とてもよさそうでしたわ」と頭を垂れたまま、多くを語ろうとしない。メルツェの後ろを歩きながら、何かを考えているふうである。タクツェ城に着く頃、彼女の目が突然らんらんと輝きだした。何か考えが決まったようである。

「王妃としてすべきことはすべてなされました。さあ、出発しましょう」とメルツェは反応をうかがいながら言った。

「そうしましょう」とドゥクモは意外とあっさりとこたえた。

 シェンパ・メルツェは喜び勇んですぐに白テント王のもとへ報告をしに行った。一方ドゥクモは急ぎ足で城の中に入っていった。彼女には策略があったのだ。

 そこにはふたりの忠実な侍女がいた。ドゥクモはふたりのうちアチュンを引き寄せて言った。

「アチュン、あなたはたしかネウチュンと私が似ていると言っていたわね」

「ええ、そうです。王妃さま、怒らないでください。リンの人々はネウチュンが大きくなって王妃さまと似てきたと言っています。でもその美しさでは比較になりません」

「あら、そう……」ドゥクモは自分の計略をうまく言えず、もどかしさを感じた。

「王妃さま、じつは心の中でずっと思ってきました。ただ恐れ多くて言い出せなかったのですが……。もしお許しをいただけたなら」

 ネウチュンはすでに心の準備ができていたのだった。しかし興奮をおさえることがなかなかできなかった。

「ああ、ごめんなさい。わかっていたのね」とドゥクモは泣きながら言った。アチュンはすべてを理解し、たかぶる気持ちをおさえながら言った。

「すばらしいことだわ。ネウチュン、もっと早く言ってくれればよかったのに」

「アチュン、さっそく総管王とギャツァ兄さんを呼びに行ってきて」

 ロンツァ・タゲンとギャツァ・シェカルが急いでやってきた。ネウチュンが策略について話すと、ロンツァは賞賛した。

「これはなかなかすばらしい考えだ」

 しかしギャツァは楽観することができなかった。

「策略はいいと思うが、ネウチュンだってひとりの女であるぞ」

「ギャツァさま!」とネウチュンギは嗚咽しながら言った。「そんなふうにおっしゃらないでください。わたくしはリン国のため、王妃さまのためにお役にたちたいのです」

 ドゥクモとアチュンはネウチュンの手をしっかりと握りしめた。

 

 目的を達したので、黄ホル軍は撤退した。白テント王の喜びは格別だった。戦争は三年に及び、日々心を煩わせたが、ようやくドゥクモを娶ることができたのだから。今日、夢の中の花、水の中の月を現実に自分のものとすることができるのだ。これを喜ばずにいられるだろうか。

 シェンパ・メルツェは不審に思いながらも、すでに兵を引き、和平が訪れていたので、何も気づいていないふりをした。

 

⇒ つぎ 









ホルのクルカル王は、愛妃を病気で失い、新しい王妃を探すべく4羽の鳥を各地に派遣した。カラスが発見した絶世の美女が長年夫ケサルの帰りを待っているドゥクモだった。


リン国の英雄三十人のなかでも出色の存在が、テンマ将軍である。テンマはたった一騎でホルの大勢の軍馬を追い立てた。 



ホルのクルカル王のもとへ行ったドゥクモはじつはニセモノで、よく似たネウチュンだった。