チベットの英雄叙事詩 

ケサル王物語 

27  メサ妃とアタラモに迷魂薬を飲まされ、ケサル、魔国に9年滞在 

 ギャツァが矢に当って死んだという知らせを聞いて、総監ロンツァ・タゲンやテンマらリン国の英雄たちがかけつけてきた。総監はギャツァの遺体を見るや叫び声をあげ、気を失ってしまった。それからどれだけの時間がたっただろうか。ようやく目覚めたものの、涙が涸れることはなかった。王妃ドゥクモは連れ去られ、国庫の宝は略奪され、そして国王の兄であるギャツァが殺害されたのである。リン国の英雄たちはどのツラさげて国民に顔を見せるというのだろうか。

「黄色のホル人め、なんと憎たらしいことか。とくに憎むべきはあの屠殺人(チベット語でシェンパ)メルツェだ。シェンパ・メルツェこそ大罪悪人だ」

 親兄弟も同然の英雄が殺され、人々の涙はとめどなく流れた。英雄テンマの目は憤怒で赤く燃えていた。彼は決意をこめて宣言した。

「飢え死にしても腐った糠は食べない。これが口の白い野馬の気概というもの。のどが渇いて死のうとも溝の汚い水は飲まない。これが赤い雌サイの気概というもの。死に至る苦しみを味わっても涙は流さない。これが男児の気概というもの。われらリン国英雄、たとえ戦死しようとも、嘆息したり、涙を流したりすることはありえない。さあ勇気をふるってギャツァの仇をうとうではないか」

 リン国の英雄たちは涙をとめることができなかった。テンマが剣を大きくかかげると、男たちはそのあとをついてホル軍に向って攻め込もうとした。センロンはあわてて止めにはいった。

「ま、待て! 若い人たちよ! ギャツァはすでに死んだのだ。これ以上命をささげてどうするのか」

「いえ、しかし、クルカル王(白テント王)を殺さず、シェンパ・メルツェを生かしておいて、われテンマの怒りをどうおさえろというのですか」

「センロン王さま、われらを行かせtください。仇をとらせてください」と若い兵士が刀をもって舞いながら言った。「あなたや総監はここでわれらの勝利を信じて待っていてください」

「おまえたちのなかでギャツァに負けない武芸の力をもつ者はいるか。だれかひとりでもいるなら、前に進み出よ」

 若者らは互いに顔を見合わせるだけで、黙ったままだった。

「だれもいないのか。リン国では、ケサル王をのぞけば、ギャツァにまさる者はおらんのだ。いま、そのギャツァも死んでしまった。おまえたちだけで王妃を救うことはできないだろう。おまえたちだけで宝物を奪還することはできないだろう」

「それではどうしようもないということですか」

「いや、終わったわけではない。われらの獅子王ケサルが戻って来られるはずだ。獅子王さまが戻って来れば、ホル国のクルカル(白テント)王も、クルセル(黄テント)王も、クルナク(黒テント)王もみな、命をながらえさせることができなくなるだろう」

 センロンは必死に若者たちを行かせないよう説得しようとした。すでにリン国の若い兵士の死者が多数出ているというのに、その人数でホル国に攻撃を仕掛ければ、ホル兵を殺すどころかかえって自分たちの戦力を失うことになりかねなかった。これでは相手の思うつぼである。

 悲痛の総監ロンツァ・タゲンも、センロンの意見に同調し、何度もうなずいた。リン国の若者がギャツァのあとを追って死ぬのを見るのは耐えきれなかった。

「ああ、まさにそのとおりだ」と英雄テンマは目を真っ赤にして拳を握り、高くつきあげた。

「こうしてはどうか」とセンロンは提案した。「叔父と甥何人かでひとかたまりとなる。それぞれがホル城に向って矢を放つが、そのときひとつの的に当てる。これでクルカル王は、リン国の英雄が大地の草のごときもの、川洲の砂粒のごときもので、殺し尽くすことはできない、壊滅することはできないと悟るだろう」

 英雄たちは天神の助けを請い、祈祷の言葉をつぶやきながら弓を引いた。彼らはクルカル王の宮殿に向って矢を放とうとしていた。英雄たちは歌う。

 

一本の矢は金の屋根の頂を射抜く 

それは天の魔物の頭蓋を割くことを象徴する 

一本の矢は宝幡の牛毛の網を射抜く 

それは空中の魔物を地面に押しつぶすことを象徴する 

一本の矢は連なるひさしを射抜く 

それは地の魔物の隷属させることを象徴する 

一本の矢は窓の鏡を射抜く 

それはクルカル王の魂が砕け散るということ 

一本の矢が王宮のなかに入る 

それはクルカル王の心が支配されるということ 

英雄たちには後継ぎもたくさんいて 

雪山の上に道を作り 

岸辺で馬に乗ってダンスを舞う 

そしてヤツェ・カルマル城を焼き尽くし 

シェンパの首を切らねばならぬ 

クルカル王の首の上に鞍を置き 

草地を荒らして悲曲を歌う 

おまえたちアチェン十二部の者に 

安住の場所は永遠にないと悟れ 

 

 祈祷のあと、一斉に矢は放たれた。願いと同様、矢は英雄たちが望んだとおりの場所に命中した。テンマは気を緩めなかった。しかし意気を高く保つのはむつかしかった。

 ケサル大王はなぜ戻って来られないのだろうか。北方へ魔物を倒しに行き、わずか3か月と9日でルツェンを殺したというのになぜ戻っていないのだろうか。魔物を倒したあとこの国で善行に取り組み、ルツェンに長い間抑圧されてきた人々をお救いになり、平和の日々をもたらした。それらに3年の月日を要したという。

 北の魔国をまるく収めたあと、ケサルはリン国に戻る準備に取り掛かった。王はチンゴンを魔国の大臣に起用し、国政を任せた。こうした時期に王妃のメサとアタラモが近づいてきて、しきりにケサル王に酒をすすめた。ケサルは酒を飲むたびに国に帰るということを忘れていった。魔国の宮殿のなかで、白蓮の宝座に坐り、チンゴンと将棋をし、メサやアタラモと酒を飲み、歌い、踊って享楽にふけった。

 王妃メサは長く魔国に住んでいたため、魔王の影響を強く受けていた。彼女はリン国に戻りたくなかった。というのも、国に戻ればケサル王から受けている寵愛をドゥクモに奪われることになると考えたからである。それに魔国での享楽の日々にすっかり慣れてしまっていた。だからこそアタラモと共謀して薬が入った酒をケサルに飲ませ、過去のこと、リン国のこと、ドゥクモのことを忘れさせようとしたのだ。

一方アタラモは、魔国に生まれた魔王ルツェンの妹であり、魔女として育った。しかしケサルに恋をしてしまったため、ケサルが魔王を倒すのを手伝ったのである。彼女は魔国を離れたくはなかったので、メサが自分とおなじ気持であると見て取ると、ともにケサルを悦楽に浸らせ、魔国にとどまらせることを画策したのだった。

 ケサルは享楽の日々を送った。昼間は大臣らとともに音楽や舞踊を楽しみ、夜は天女のような美女をはべらせた。こうした淫欲の日々がつづき、何か月、何年が過ぎたかさえもわからなかくなった。

 王妃ドゥクモが白い鶴に手紙をもたせて魔国に送り、魔王の城に落とされた頃、ケサルは大臣チンゴンとサイコロ遊びをして楽しんでいる最中だった。ケサルは頭を上げたとき、その鶴の姿を見たのだが、それがリン国の寄魂鳥であることに気づかなかった。それどころか鳥にたいしとぼけた質問をした。

「おやおや、鳥さん、お見かけしたことないけど、たった一羽でどちらへ行こうとしているんだい?」

 白い鶴は首を伸ばして、ケサル王に向って歌いはじめた。

 

東の高い山の上に 

太陽と月の故郷があります 

暗闇を西のほうへ掃きだしたからといって 

ずっとそのまま天の中央にとどまれるものではありません 

 

南の閻浮提(えんぶだい)に 

白くて厚い雲の故郷があります 

涼しい風が北の方に吹いているからといって 

そのままずっと吹いているわけではありません 

 

南のモンユル地方に 

青いカッコウの故郷があります 

森に寒い季節がやってきたので 

北方にそのままとどまるわけにはいきません 

 

遊牧民の柵のかたわらに 

白い羊が戻るべき場所があります 

青々とした草を好きなだけ食べられるからといって 

いつまでも草原にいていいものではありません 

 

閻浮提のケサル王は 

人がうらやむような世界に生まれました 

魔物を倒したので故郷に帰ることができます 

そのまま魔の国ヤルカンにとどまるべきではありません 

 

われはリン国の寄魂鳥 

王妃からの手紙をもって北の魔国にやってきました 

リン国はいまたいへんな国難にあっています 

国王はすぐ故郷に帰るべきです 

 

 白い鶴の歌によって獅子王の記憶は呼び戻された。彼はリン国のことを思い出し、王妃ドゥクモのことも蘇ってきた。ケサルは心の中で考えた。夜が明けるとき、新しい雲もまた発生するものだ。それゆえ太陽の光を見ることはできない。大河の表面には霧が立ち込めるものである。それゆえ村を見ることはできない。リン国は寄魂鳥を使者として派遣してきた。それゆえそのことはいい兆しではない。

ケサルは蓮華宝座のほうに歩いていった。そこには鶴がもってきた手紙があった。ケサルは心の中で思った。夏の刈り入れ時に、暴風が発生し、災害をもたらすのはよくあること。春の暖かくなったばかり時期に、急に冷えて土が凍ってしまうのはよくあること。まだ秋だというのに霜が降りて収穫がすべてだめになるのはよくあること。真冬、あたたかく、夏か冬かわからないこともしばしば。

 リン国の神鳥が魔国にやってきたということは、何か騒乱が起きていると思ってまちがいないだろう。ケサルはそんなことを思いながら手紙をあけた。王妃ドゥクモの手紙はやはり悪い知らせだった。ホル兵たちはリン国を包囲し、王妃を連れ去ってクルカル王の妻にしようともくろんでいた。このリン国の危難を救えるのはケサル王しかいなかった。

手紙を見た途端、ケサルの頭をぼやけさせていた靄(もや)が一挙に晴れ、心は明鏡のごとくすっきりとした。彼はすぐにリン国にもどる決心をした。リン国にもどり、ホル王を破り、民衆を救わなければならぬ。

 メサとアタラモのふたりは、ひとりは酒壺をもち、ひとりは碗をもち、ケサル王のもとに小走りに寄ってきて、色っぽくほほえみながら酒をすすめた。

 

獅子王さま 

あなたのお顔は満月のように輝いているはずなのに 

どうして黒雲のかかった明月のように澱んでおられるのでしょうか 

あなたのお目は明け方の星のようにきらめいているはずなのに 

どうして星々のなかに雷(いかずち)がほのかに見えるのでしょうか 

あなたの御心は菩薩のように善良であるというのに 

どうして怒りをためていらっしゃるのでしょうか 

 

 ふたりの王妃は酒をつぎながら歌をうたった。ケサルは内心あせりを感じていたが、喉がかわいていたので、茶のかわりに酒を飲んだ。いま、酒がどれほど害悪であるかケサルはわかっていた。飲めば眠くなり、眠ればまたすべてを忘れてしまうだろう。これがふたりの王妃の狙いであることはあきらかだった。彼らは鶴の使いがやってきてケサルと何か名は死をしていたことは聞き及んでいたので、急いで酒を持ってきたのである。ケサルの帰国はなんとでも阻止したかった。

 ケサルはまたしても過去のこといっさいを忘れてしまった。そして王妃たちとの堕落した日々をふたたび送ることになった。こうして3年が過ぎ去った。ドゥクモがホルに連れ去られそうになり、計略をめぐらして引き伸ばしたあの3年である。

 ドゥクモはつぎにカササギの使者をケサルが住む城に送った。カササギが城門の上にとまったとき、ケサル王とふたりの王妃は歌を楽しんでいた。鳥を見たメサが言った。

「大王さま、あの鳥は興ざめですわ。射ち殺してくださいな」

 ケサルは弓を放ち、カササギを射ち殺した。ドゥクモはこの情景を宝鏡のなかに見ていた。

 カササギが射ち殺されたあとしばらくして赤いキツネが城門を叩いた。ケサルはこの美しいキツネを見てまた矢を放とうとしたが、その口には金の指輪がくわえられていた。ケサルは金の輝きに目がくらんで弓矢をおさめ、キツネのもとに近寄った。

「キツネのお姉さん、その金の指輪、くれないか。そしたらお姉さんを殺さないし、かわりにいいものあげるよ」

 キツネは金の指輪をケサルの手のひらのうえに落とした。そしてドゥクモに頼まれた伝言を述べ始めた。

「獅子王よ、ドゥクモが連れ去られて3年がたちます。リン国が包囲されて3年がたちます。民衆が国難にあって3年がたつのです。あなたさまはどうして国に戻ろうとなさらないのでしょうか」

 ドゥクモの心は金の指輪に照らされ、すべてのことを思い出した。そして何年も耽溺生活を送っているのがメサの計略によるものであることを認識した。彼はすぐにリン国に戻る決心をし、メサがすすめる酒は飲まないと決めた。もうすでに遅いのかもしれない、とケサル王は思った。ドゥクモはすでにクルカル王に連れ去られているかもしれない。ケサルは矢を放ち、叫んだ。

「ああ、ホル王よ、恐ろしき者よ。しかしもうすこし時間があるなら、すぐに戻ってホル王を成敗しなければならぬ」

 ケサルは心の中でつぶやいた。

「矢よ、途中で焼き焦がれるな。水に落ちるな。剣で打ち落とされるな。風に遮られるな。降魔の神矢よ。ホル王の幕舎に突き刺さってくれ」

 獅子王の権威を付帯した、ケサルの願いがこもった神矢はまっすぐ飛んでホル王の幕舎に飛び込み、虎皮の椅子の上の柱に突き刺さった。これが、クルカル王が抜こうとしても抜けなかった矢だった。この矢を見てクルカル王は兵を退く決心をしたのである。しかし大臣トドンがこれにこめられたケサルの気持ちをクルカル王に悟られないようにするとは想像できなかった。

 メサとアタラモはケサル王がリン国に戻ろうとしていることを聞いた。酒をすすめても飲まないということも知った。そこでふたりの王妃は送別の宴を開き、食べ物のなかに迷魂薬を撒いた。ケサルには防ぐ手だてがなかった。喜んでごちそうを食べ、このあと出発の準備を整えるよう彼女らに命じた。

 しかし食事をしたあと、ケサルはまたもとの状態にもどってしまった。国に戻ろうとしていたことも忘れてしまった。こうして何事もなく一日、一日、享楽の日々が過ぎて行き、三年が経過した。ケサルが北の魔国に来てから数えると、九年目だった。王妃ドゥクモがホル国に連れ去られてからも三年の月日が流れていた。

 


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