チベットの英雄叙事詩 

ケサル王物語 

29  ケサル、鍛冶親王の娘チョクツン・イェシェと出会う 

 

 獅子王ケサルは、どんなものも射抜く霹靂(へきれき)矢を背負い、鋼鉄をも斬る水晶刀をもち、神馬キャンゴ・ペルポに乗って、仇討(あだうち)のために千里の道をいっきに駆け抜け、ホル国との国境にたどりついた。

 国境の黒い谷には、凶悪そうで巨大な、どす青黒いイボガエルがいた。そのイボひとつひとつからにじみでる液は猛毒を含んでいた。イボガエルは口を大きくアングリとあけて、ケサルと愛馬を丸ごと飲み込もうと待ちかまえていた。

 ここがじつは第一の関所だった。ホルのクルカル王は王妃ドゥクモを連れ去ったあと、ケサルが愛妃と財宝を取り返しに来ることを見越して、9つの関所を設けていた。


 妖怪イボガエルとの戦いは死闘になった。イボを斬るたびに毒液を浴びたケサルは、朦朧とした意識のなかで法力を結集してなんとか力を取り戻すことができたが、次第に疲弊して言った。そんな限界を超えた戦いが半日もつづいた。

 膠着状態を打破するために、ケサルは奥の手を使った。彼は両足で愛馬キャンゴ・ペルポの腹をかかえこみ、マントラを唱えると、愛馬は巨大な黒いカラスに変身した。

 ぴょんぴょん飛び跳ねて逃げ回っていたイボガエルを、巨大カラスは一口で飲み込んだ。カラスの喉のあたりが膨らんで激しく動いているので、なかでイボガエルがじたばた暴れているのがわかった。しかし時間がたつと、だんだんと静かになった。

 黒いカラスは、どず青黒く変色し、じっと痛みに耐えているようだった。

 ケサルがカラスの背中をさすってやると、それはいつのまにか馬の姿に戻っていた。身体は赤黒く、肌はハリがなく、ブヨブヨしていた。しかし一時間もすると、なにごともなかったかのように、健康体に戻っていた。ケサルはまたも愛馬キャンゴ・ペルポに助けられたのだった。

 第2の関所は切り立った岩崖だった。崖につづく一本道に、盲目の夜叉(ヤクシャ)の女が立っていた。女は獅子王に、欲情を起こさせる蠱惑の呪術をかけてきた。妖艶な美女に変身すると、色気をムンムンに発してケサルを誘い込もうとした。ケサルはそれに対し「無心」でもって誘惑をはねかえした。そして背負った弓を引いて矢を放ち、それが落ちてくるときに大きな岩に変え、夜叉女をつぶした。女はもとの妖婆の姿に戻っていた。

 こうしてケサルは針のたてがみをもつ獅子の妖怪、巨大で強力な後ろ脚をもつ馬の妖怪、刀のような長い牙が生えた犬の妖怪、触れただけで相手を切る角をもつ牛の妖怪などをことごとく退治し、第8関所まで突破した。

 もっとも手ごわかったのは第9関所だった。この関所は岩山で、天近くまでそびえ、雲から突き出ていた。中間に、人ひとりと馬がぎりぎり通れるような狭い道があった。関所を守っているのは二人の屈強な番人だった。彼らは関所の岩の上一面に赤い旗を挿していた。彼らが風を呼ぶと、赤い旗がいっせいにはためいて、関所が閉じられた。

 物陰から見ていると、彼らの腕っぷしはすさまじく強く、通りかかるキツネやウサギをつかまえてはひねりつぶし、その肉と骨をむしゃむしゃ食い、しぼりだした血のジュースを飲んだ。

 番人たちは凶悪な悪鬼であったにもかかわらず、智慧者としても知られていた。ケサルがそのままの姿で関所を通り抜けようとすると、すぐに敵方だと見破られる公算が高かった。

 そこでケサルはぶるぶるふるえると、下僕のなりの男に変身した。彼が関所に近づくと、番人たちは足音を聞いて警戒を強めた。ケサルは質問される前に、腰をかがめて、自分の身分となぜここに来たかについて説明し始めた。

「ああ、ふたりの偉丈夫さま。あっしはリン国から来たキャロ家の下僕でございます。わが家の主人の手紙をドゥクモ王妃さまにお届けするのが使いの目的です。王妃さまの好きな食べ物と酒屋が開けそうなほどのお酒も運んでおります」

「ほほう、お酒だと。ずいぶん大きな酒樽を運んでおるんだな。これじゃ重すぎるから、軽くしたほうがいいぞ。おれたちは親切だからな、手伝ってやろう」

「さすがホルの忠臣のかたがたはリンの愚か者とは違います。たしかに重すぎて、運んでいたヤクも疲労で死んでしまいそうなのです」

「キャロ家といえば、ホルの王妃どのの富豪で知られる実家。キャロ家とホル家の懇親を祝って乾杯をしようではないか」

 こうして下僕に扮したケサルは、酒をすすめて、彼らが正体なくすまで飲ませた。

 屈強な番人たちは気持ちよく酒を飲み、高いびきをかいて眠りこけた。酒の中に睡眠薬が入れられていたことを、彼らが気づくはずもなかった。爆睡しているのを見たケサルは刀を抜き、彼らの首をはねた。

 そして愛馬にまたがり、最後の関所を抜け、山に入った。山を越えると道が分かれていて、どれがホルの王宮につながるのかわからなかった。途方に暮れていると、空中に天の叔母ナムメン・カルモの歌声が朗々と響き渡った。

 

ホルを征服する時がやってきました 

しかしその王宮は堅固ですきがありません 

城壁は何十丈もの高さがあり、超えるのは困難です 

でも鉄の鎖があれば登れるでしょう 

鉄の鎖を使って王宮のなかに入りなさい 

そしてホル三王を殺しなさい 

あなたはここから進みなさい 

前に3つの山があります 

最後の山に洞窟があります 

洞窟からきよらかな水が湧き出ています 

そこには智慧のダーキニー、チョクツン・イェシェがおられます 

彼女はあなたの終生の伴侶となります 

まず彼女の家に行き、契りを結びなさい 

彼女の力があれば王宮に入ることができるでしょう 

 

 ケサルはこの歌を聞き終わると、即座に馬に乗り、鞭打った。三つの山を越え、見えてきたのは洞窟からきよらかな泉の水が湧き出る風景だった。そこに若くて美しい娘がいた。娘は泉から水を汲み取っているところだった。

彼女が身にまとっているのは金竜の刺繍がほどこされた黒のビロードの長衣だった。長衣の襟には珊瑚が飾られたキツネの毛皮がつけられ、大きな縁(へり)にはオオヤマネコの、小さな縁には藍色のカワウソの毛皮が縫いつけられていた。腰には五色の腰当てをまとい、胸元には黒金色のガウという小箱を下げ、首にはトルコ石や珊瑚の首飾りを掛けていた。

なんと美しい娘だろうか。少女は咲いたばかりのきよらかな一輪の花のようだった。深い森の奥の謹厳な修行者でさえ、少女を見れば心をときめかさずにはいられないだろう。高貴なる高僧だって、欲情を覚えるかもしれない。通りがかりの旅人なら、何度も彼女のほうを振り返り、首を痛めてしまうだろう。若い男の子なら鼻血を出して失神してしまうかもしれない。

 少女の顔は十五夜の満月のように完璧だった。天上の仙人も墜落しそうなほど、少女の肢体はたおやかで、均整がとれていた。地下世界の十万の美しい竜女が、束になってもかないそうになかった。

ケサルは心の中で思った。これほどの美しい娘が天界にいたなら、天界にたいする考え方も変わってしまうだろう。また天界の神々が彼女を見たなら、人間に恋慕の情をいだいてしまうかもしれない、と。

 それにしても、なぜクルカル王は彼女を娶って王妃としないのだろうか。ケサルはそう思いながら乞食に変身し、泉に向って歩いていった。

 チョクツン・イェシェが後宮に入れられないままここにいるのは、クルカル王が国のモマ(占い師)に命じて占いをさせた結果だった。

 それにクルカル王はドゥクモを強奪するために仕掛けた戦争で多忙だった。この戦争で多くの犠牲者を出していたが、チョクツン・イェシェの弟も戦闘に巻き込まれて命を落としていた。

 またモマ(占い師)のモ(占い)のひとつは、ホルのクルカル王の命運が尽きかけていることを示していた。ホルがリン国の軍によって壊滅させられるのを彼女は待つことにしたのである。

 昨晩、彼女は天神の子がこの地に来ることを夢のお告げで知った。

 朝、彼女は起きると父親のガルワ親王に、もてなしの準備をお願いし、自らは泉へ水を汲みに行った。そこに天神の子の姿はなく、かわりにいたのはみすぼらしい少年の乞食だった。

 チョクツン・イェシェは心の中で、この少年乞食は天神の子の化身だろうか、それともたんなる放浪乞食だろうかと考えた。水を汲みながら、ボロボロの服を着た少年乞食のほうをちらちらと見たが、天神の子であることを示す決定的な証拠は見いだせなかった。彼女は思い切って少年に話しかけてみた。

「あなたの頭には金のかぶとをかぶっていた痕があるわ、腰には鎧(よろい)の痕が残っているわ、その曲がった足は馬から下りたばかりだからね、どこがあわれな乞食だっていうの。あなた、天神? それとも英雄? 何しにホルに来たの? 仇討に来たんじゃないでしょうね」

 ケサルは彼女の慧眼に恐れ入ったが、彼女はたんに事実を知りたいからと思ったからだろう。ケサルはあわてて説明した。

「お嬢様はすこしそそっかしいなあ。乞食を天神だなんて。頭に金のかぶとの痕があるって、そりゃ帽子がきつかったからでさ。腰に鎧(よろい)の痕があるって? これはおらが服を何枚も重ね着してたからでさ。この生まれつきの曲がった足で馬にまたがったって? こんな姿のどこが英雄と? おらがホルに来たのは、乞食稼業のためさ。仇討なんて意味わかんないよ」

 ケサルが取りつくろえば取りつくろうほど、チョクツン・イェシェの疑いの気持ちは大きくなっていった。とはいっても、目の前にいる乞食の少年が天神の化身だという確信をもつことはできなかった。ただ父親はすでに客人をもてなす準備をしていたので、少年をつれて帰って食事をしてもらうしかなかった。ふたりはいっしょに彼女の家に向った。

 乞食少年のケサルをつれてチョクツン・イェシェが家にもどると、父親があわただしく出迎えるために出てきた。しかし見ると、娘がつれてきたのは乞食ではないか。父親はムッとしたが、その乞食少年を見ると人を惹きつけるようなところがあったので、ごはんと酒を持ってきた。父と娘は少年乞食が食べ、飲むのを見ていた。しばらくすると酒も食事もすべてなくなってしまった。ケサルは父と娘に向って礼を述べると、門から出て行こうとした。チョクツン・イェシェは立ちふさがった。

「あんた、どこ行こうとしてるの?」

「知らないよ。人でにぎわっているところへ行くだけさ、乞食だからね」

 ケサルはより愛される存在となるために、天真爛漫な少年を装った。

「お父さん、見ていてかわいそうだわ。ここにもうすこし置いてあげてもいいでしょう?」と彼女は懇願した。

「よかろう」ガルワ親王は娘の頼みを聞かないわけにはいかなかった。彼はケサルのほうを向いて言った。

「で、おまえは何ができるんだね?」

 ケサルはさわやかに即座にこたえた。

「ぼくは経文の入ってない輪(マニ車)を回すことはできません、外の敵をなかに入れることはできません、家の中のものを外に捨てることもできません。このほかにもいろいろとあります」

「よかろう。しばらくここにいるとよい。ではさっそく粉ひき小屋に行って、麦こがしをひいてもらおうか」

「いえ、ご主人さま、それはできません。経文が入っていない輪(粉ひき)を回すことはできないので」とケサルは粉ひき小屋に行くことを拒否した。

「じゃあ部屋の掃除をしてくれ。ゴミを外に捨ててくれ」

「家の中のものを外に捨てることはできないと言ったでしょう!」と、またもケサルは拒否した。

「それなら柴刈り(gtub ba)をしてもらうか」ガルワ親王は苛立ちながらそう言った。

「ですからご主人さま、敵(gtub ba)を入れることはできません」とケサルは三度にわたって主人の言いつけを拒絶した。

 父の目が怒りに燃えているのを見て、チョクツン・イェシェはあわてて助け舟を出した。

「ねえ、あなたはなにができるの? 火を作ること? 鉄を打つこと?」

「できるよ」とケサルはうなずいた。

 チョクツン・イェシェは喜んで父親の顔を見ると、笑顔が浮かんでいた。ケサルはガルワ親王の家にとどまり、火を起こし、鉄を打つのを助けることになった。

 ある日、親王はケサルに言った。

「息子よ、家の中の木炭がなくなってしまった。おまえとチョクツン・イェシェで柴を焼いて炭にしてきてくれ」

 ケサルは了解してうなずいた。彼女がお弁当を作って、ふたりで山の麓の林のほうへ行った。ケサルは言った。

「お姉さん、ぼくたち、それぞれ何をしましょうか」

 チョクツン・イェシェは「別々でなく、いっしょに木を伐って炭を作りましょう」とこたえたが、このような言い方をするときは、何を言っても少年が同意しないことを知っていた。

 彼女はひとりで地面を掘って竈(かまど)を作り、木を伐った。そのあいだ、少年は悠々としたふうで、地面に寝転がって眠っていた。彼女は火を起こし、ケサルのところにやってきて炭を焼くようにと言った。しかしケサルは寝返っただけで、目をあけもせず、また眠りについた。彼女はプンプンに怒り、もってきた食事の半分を食べて、残りの半分をケサルの身体の周辺にぶちまけた。そしてよく焼けた木炭をもって家に帰った。彼女がいま起きたことを話すと、父ガルワ親王も怒ってケサルが帰ってくるのを待った。

 しばらくするとケサルは戻ってきたが、意外にもたくさんの木炭を背負っていた。ガルワ親王は疑惑の目で娘を見た。彼女は目を丸くして、口をあんぐりあけてただ驚いていた。父親は娘にただちにお茶を作って食事の支度をするよう命じた。彼女は納得がいっていなかったが、顔には出さず、黙々と少年のために食事を作った。

 しばらくのち、木炭が尽きてしまったので、チョクツン・イェシェは父親にまたケサルといっしょに炭を焼きにいきたいと申し出た。ガルパナは了承した。彼女はお弁当を作り、ふたりでまた前回とおなじ林へ行った。彼女はまた忙しく柴を刈り、炭を焼いた。そして静かに坐ると、念仏を唱え始めた。しばらくして立ち上がり、お茶を作り、その茶を天地に捧げた。第二の碗は草の上に寝転がっているケサルにあげた。また一枚のカタ(祈祷用スカーフ)と一対の象牙の腕輪をケサルに贈った。

 ケサルは彼女の様子がいつもと違うのをあやしく思った。それでも何も言わず、彼女が小さな声で歌うのを聞いた。

 

私は高くそびえる雪山 

雪獅子のあなたが帰るところ 

なぜあなたは緑のたてがみを隠したままなの 

雪山はいつもあなたにありのままを見せているのに 

あなたは私が清らかであることを知らないの 

 

私は緑生い茂る草の山 

赤い野牛であるあなたが帰るところ 

なぜあなたは角を隠したままなの 

草山はいつもあなたにありのままを見せているのに 

あなたは私のひたむきな心を知らないの 

 

私は香ばしい香りがする白檀の林 

猛虎であるあなたが帰るところ 

なぜあなたは斑の模様を隠したままなの 

白檀林はいつもあなたにありのままを見せているのに 

あなたは私の善良な心を知らないの 

 

私はホルの娘チョクツン・イェシェ 

獅子王が終生帰るところ 

なぜあなたは本当の姿を隠したままなの 

乙女である私はいつもあなたにありのままの姿を見せているのに 

あなたは私のまごころを知らないの 

 

私の法螺貝のように白い耳は 

天母さまの歌声だけを聞きくことができます 

私の星のように明るい目は 

天母さまの姿を見ることができました 

天母さまの予言はまさに私の心と合致します 

獅子大王さまこそわが心の人なのです 

 

 獅子王ケサルはいまこそ本性を現わすときなのだと悟った。

 チョクツン・イェシェは歌い終わると、地面に寝転がっていた少年がいなくなっていることに気づいた。あちこち探し回っているとき、空中から英雄の姿が現れた。英雄の歯は玉のごとく白く、その顔は赤黒く、屈強な身体をしていた。虎のような物腰で、金剛のごとき堅固に見えた。両足は象のごとくどっしりと大地を踏んでいた。白いかぶとをかぶり、白いよろいを着ていた。火のように赤い馬に乗り、絹の帯はしきりに翻り、身体からは光が放たれた。そのさまはまさに天神の降臨だった。獅子王は「昼も夜も平安」のカタを彼女の首にかけ、歌った。

 

私ははるか北方からやってきた 

獅子王ケサルとは私のこと 

風変わりな自然を鑑賞するために来たのではない 

奪われた妻を取り戻すためにやってきたのだ 

敵を殲滅するために出ているあいだに故郷を失ってしまった 

魔国を制圧しているあいだに隣国に侵略されてしまった 

魔女を娶り、そのために正妃を失ってしまった 

黒い妖魔を斬ったところ、白いテント王を招く結果となった 

魔王の財宝を得て、自らの宝庫を失った 

こうして私は白いテント王(クルカル)に血の清算を求めることになったのだ 

 

一に、わが兄ギャツァの仇を打つため 

二に、奪われた妻を取り戻すため 

三に、わがリンの国の怨みを晴らすため 

白テント王(クルカル)を取り除かねばならぬ 

 

孤独で悩んでいた時期 

あなたは私の唯一の伴侶だった 

戦いのときはどうかわが画策に協力してほしい 

そして敵を倒したあと、私とともにリン国に来てほしい 

 

 ケサルとチョクツン・イェシェは永遠の愛を誓った。白髪になるまでいっしょに老い、水のように分かれずともにいることを誓った。彼女は西のほうを指して言った。

「大王さま、あのバターのように白い(製造過程のバターは白色)雪山を見てください。山の後方にホル王の寄魂牛(ドンという野生種のヤク牛)がいます。黄色い野牛は黄色いテント王の寄魂牛、白い野牛は白のテント王の寄魂牛、黒い野牛は黒のテント王の寄魂牛です。また赤い野牛はシェンパ・メルツェの寄魂牛、花模様の野牛はわが父の寄魂牛、青い野牛は私の寄魂牛です。あなたがもしホル3王を倒したいなら、ほかのことは考えないで、まず黄色、白色、黒色の野牛を斬ってください」

 ケサルはチョクツン・イェシェの話を聞いて雪山の後ろにまわってみると、野牛の群れのなかで6頭だけが他と違っていた。見るからに凶暴で、他よりも大きかった。この凶暴さ、巨大さから容易に近づくことができなかったが、さらに寄魂牛という霊性のために近寄りがたかった。そこでケサルは、ぶるぶると震えたかと思うと大きなガルダに変身していた。そして雷のごとく黄色い野牛の身体に落ち、角を切り落とした。つづいて白い野牛、黒い野牛の角を切り落とした。しかし赤い野牛の上に落ちたとき、突然彼は気分が悪くなった。シェンパ・メルツェの角を切り落としても、それはまた戻ってきた。

 チョクツン・イェシェは林のなかに坐り、ケサルの7人の天界の友人と360柱の天神の眷属が木炭を焼くのを手伝った。寄魂牛を殺したあとケサルは本来の姿に変身し、彼女とともに木炭を背負って家に帰った。


 

⇒ つぎ 



ケサルは鍛冶親王の娘、ガルサ・チュードン(左の文ではチョクツン・イェシェ)の美しさの虜(とりこ)になる。 



漫画ではチョクツン・イェシェが水浴びをするセクシーな場面に。眺めているのはケサルとデンマ 



きりっとした美少女のチョクツン・イェシェ 



魔術を得意とした 



チョクツン・イェシェの父親ガルワ親王。鍛冶師でもあったが、鉄を鋳ることができるということは、武器が造れることを意味した。 


*乞食少年に変身したケサルは、泉で女神のように美しい女性と会い、彼女の家を訪ねる。父親はガルワ親王であり、彼女の名はガルサ・チョクツン・イェシェ(あるいはガルサ・チュードン)だった。ガルワとは鍛冶師という意味であり、このあとホルの城に侵入する時、鎖を使うので、鍛冶師の家に見習い鍛冶屋として居候するのは、きわめて都合のいい設定といえよう。
 現在のインド、ネパールでは、鍛冶師カーストは低カーストだが、チベットではそうではなかった。
 思い起こされるのは、7世紀、チベットのソンツェンガムポ王の命を受けて、唐の長安まで文成公主を迎えに行った大臣ガル・トンツェンである。ガルはこのガルワであり、鍛冶を意味した。
 このとき以降、ガル家は名門中の名門となり、王室を脅かすほどの実力一族となったが、のちに没落している。また唐に残った子孫の一部は唐朝に重用された。
 このガルワ親王にも当然、ガル一族のイメージが投影されているだろう。