チベットの英雄叙事詩 

ケサル王物語 

33  ジャン国のユラ王子、メルツェによってとらえられる 

 ホル出身のリン軍武将シェンパ・メルツェが塩湖の湖畔に着いたとき、ジャン国の軍隊はまだ到着していなかった。メルツェは馬を降り、しばし休息しようとしたが、腰を落ち着ける間もなく、遠くから黒い煙が近づいてくるのが見えた。それは塩湖を奪いに来たジャン国の騎馬軍団からあがる塵の雲だった。

 あまたの兵士がひとりの小さな兵士を担ぎ上げているのが目についた。ジャン国の王子ユラ・トクギュルにちがいないとメルツェは考えた。

「それにしてもジャンの騎馬隊、うじゃうじゃと湧き出てくるな。この大軍にたった一騎で乗り込むのは、あまりに無謀すぎる」

 そのとき彼は妙案を思いついた。彼はホル王の口調で手紙を書き、それを矢に結びつけて手元に置き、塩湖のほとりに坐って待った。ユラ王子は放たれた矢のように騎馬隊を離れ、メルツェから数十歩のところまでやってきた。メルツェがいることに気づいた王子は話しかけた。

「おや、そこの赤い衣を着た人、おまえはどこから来たのだ? ひとりなのか? 道に迷ったのか? でなければどうしたんだ? ぼうっとしていないで、ここからとっとと立ち去るがいい」

「どうしてわたしが立ち去らねばならぬ? ここはあなたの領地だとでもおっしゃるのか」

「わがジャン国はなんでもそろっているけど、塩だけがないって、お父さんが言ってるよ。いまお父さん、いや国王サタムの命令によって、塩湖を奪おうとしているところなんだ。ほら、ことわざに言うだろう。

草地の羊、幸せそうに見えるけど、じつは狼の前で寿命が尽きようとしている。山の斜面の草場のヤギ、じつは虎の前で寿命が尽きようとしている。林の中を飛び回る小鳥、じつは鷹の前で寿命が尽きようとしている。

 赤い衣の人よ、ぼくの前にのこのこやってくるなんて、あんたの寿命も尽きかけているんじゃないか」

 ユラ王子はあせって早口になっていた。「赤い衣を着た人」は独特の、ただものでない雰囲気をもっていたからだ。

 シェンパ・メルツェはゆっくりと立ち上がり、ふところから5尺の長さの白いカタ(吉祥のスカーフ)を取り出し、王子の首にかけようとした。

「尊敬するユラ王子さま。わたくしは黄色のホル国の内大臣、シェンパ・メルツェと申します。わたくしはホル国から来て、ジャン国へ行こうとしているのです。ホル王からの書信がここにあります。あなたから、サタム王にその旨、伝えていただけないでしょうか」

「ホル人? ジャン国に行く? どういうこと?」と、王子は偉ぶって馬から降りることもなく、見下ろしながらメルツェにきいた。

「つまりこういうことです。われらのクルカル(白テント)王には8歳になる王子がいます。王子が結婚する年齢に達したら、王妃候補を探さねばなりません。最近、天神が降臨して予言を下されたのですが、その予言によると、ジャン国の公主がふさわしいというのです。年齢もちょうどいいですし、九宮八卦(メワパルカ)の占いも吉と出ています。ホル王とサタム王が婚姻で結びつけば、世界最強となりましょう」

 王子はメルツェの話を静かに聞いていたが、突然高笑いした。

「メルツェさんとやら、あんた、頭がおかしいんじゃないの。そんなたわごとでこのユラさまをだませると思ってんの。あんたがたのホル王は、ケサル王に負けたはずでしょ。ホルの三十大英雄も獅子王に殺されたって聞いたよ。ははん、あんたがたおいぼれ犬は、山の上に隠れて、恥をさらさないようにしていたので、知らないんだな。とっととリン国の奴隷になったらいいよ。それとも強盗集団でも作るのかな。ぼくらは地獄耳をもっているから、ホルが降参したのはとっくに知ってたよ」

「ユラ王子さま、人のでたらめを信じてはなりません。ホル王さまがなぜ投降せねばなりませんでしょうか。いま、ここにホルのクルカル王の書信がございます。どうかユラ王子からサタム王に届けていただけないでしょうか」そう言うと、メルツェは書信を王子に手渡した。

 ユラ王子は、書信の表に「黄ホル王のこと、成就を願う」と書かれているのを見た。封を開けると、ジャン国に求婚することが記されていて、シェンパ・メルツェが言ったことと符牒が合っていた。また文章の末尾には「ホル国ヤルシク王宮より」と記されていた。

 ユラ王子の自信はゆらぎはじめていた。ホルが滅ぼされたという伝聞はまちがっていたのだろうか。ほんとうは、ホル国は安泰ではないのか。このシェンパという人物は、謙虚でうやうやしい。彼が言っていることはほんとうのことのように思える。しかしいままでもウソの話がたくさん出回っていた。シェンパの話も全面的に信用するわけにはいかない。そうならば、自分でホルへ行ってたしかめるしかない。

「あんたの話を鵜呑みにすることはできないよ。ぼくが自分でホルに行ってみて、話がほんとうかどうかたしかめるべきだと思う。ホルまで百駅もあるけど、ぼくの駿馬で行けば、日帰りも可能だ」

 そう言うと、ユラ王子は駿馬を鞭で三度叩いた。すると王子を乗せた馬は天を駆け上がり、ホル国へ向かって飛翔していった。

 シェンパ・メルツェはユラ王子がこのような行動に出るとは予期していなかったので、ひどくあせりを覚えた。王子がホルの実態を見たなら、真相を知り、もどってきて自分に戦いを挑むだろう。そうなったらユラ王子に勝つことができるだろうか? メルツェは香を焚き、天神に祈って助けを求めた。

 

天神よ、われを助けたまえ 

ユラ・トクギュルはホルへ向かっていってしまいました 

どうか迷いの霧によって王子の視界を遮ってください 

真相を見えなくしてください 

 

 ユラ王子がホル国に着いたとき、突然過去とおなじホル国の情景が眼前にあらわれた。牛や羊は大地に満ち、ラバが群れを成し、そびえる王宮は青い雲に囲まれ、広場には30人の英雄が牛の角のようにきちんと整列していた。この情景を見てユラ王子は安心した。メルツェが言っていたことはほんとうだったのだ。

 ユラ王子が塩湖に戻ってきたとき、シェンパ・メルツェはちょうど彼の帰りを待っていた。王子は馬から降りるとメルツェに言った。

「あなたの言ったことはほんとうだった。だけどジャン国の公主、つまりぼくのお姉さんをホル国の王子のもとに嫁がせるのは不可能だ。あなたたちの贈り物を見てみないとね」

「贈り物は問題になりますまい。ホル国は大きな国です。金銀財宝は腐るほどあります。あなたたちがどれを選ぶかという問題ならありますが」

 メルツェはユラ王子がすっかり彼の話を信じているのを見て、得意満面だった。話はさらにおおげさになった。

「ぼくのお姉さんはふつうの女性とは違います。お父さんの手のひらの上の宝石なのです。お母さんの最愛の人なのです。若いけれども知恵があります。世のほかの娘たちとはくらべものになりません。昨年は中国から求婚の申し出がありました。400箱の贈り物が届きました。インドの大臣を兼ねた王子からも求婚されました。4000箱の贈り物が届きました。今年はタジクの財宝王からも求婚がありました。こちらからは40000箱の贈り物が届きました」

「ということは、どれだけの贈り物が必要になるということなのですか」

「金の馬18頭、銀の羊18匹、玉の象18頭、鉄の人18人、白水晶の娘18人、その他毛並みのいい馬100頭、首筋のいい牛100頭、身体のいいラバ100頭、いい毛皮になりそうなヤク100頭といったところです」

「それならあるさ! われらホル国にとっては簡単に手に入るものばかりだ。ホルの金の馬は奔流のごとく走り、銀の羊は見事な叫び声をあげ、玉の象はどんな重いものでも運び、鉄人は戦いに強く、白水晶の娘たちはよく歌い、舞い、ラバや牛、羊も数えきれないくらいもっています。100頭や100匹という数字はなんの問題もありません。

 ユラ王子よ、あなたは贈り物をみな受け取らなければならない。これら以外にも財宝もたくさんあるのです。今日はふたりで前祝いといきましょう。喜びの酒をわかちあいましょう」

 メルツェはユラ王子を捕らえることばかり一心に考えていたので、大ボラ話には拍車がかかるばかりだった。

 ユラ王子は自分がとてつもない贈り物を要望することで、メルツェを困らせるとばかり思っていたので、即答には驚き、うれしかった。王子は姉がこの富裕な大国に嫁ぐことを願った。メルツェが酒杯をかわしたいと提案したとき、王子には断る理由がなかった。

 メルツェは黒地に金の木椀を取り出した。その表面には八吉祥も花紋が施され、花開いた蓮華が描かれ、ふちには5種類の宝石がはめられ、太陽の光をあびるときれいにキラキラと輝いた。メルツェは美酒を木椀にそそぎ、王子の面前に差し出した。王子は美酒の香りをかいだだけで、うっとりと夢見心地になった。

 メルツェは酒をそそぎながら歌った。

 

偉丈夫が酒を飲む 

それは駿馬が水を飲むかのよう 

凡庸な人が酒を飲む 

それは女人が茶を飲むかのよう 

見込みがない人が酒を飲む 

それは苦い薬を無理に飲み込むかのよう 

あなたはジャン国の大偉丈夫 

だから酒を飲むさまは水を飲む駿馬のよう 

さあ一杯飲みなされ 

クルカル王とサタム王の永遠のまじわりを祝して 

さあ二杯目を飲みなされ 

王子と公主の永遠の結びつきを祝して 

さあ三杯目を飲みなされ 

ホル人とジャン人の永遠の友情を祝して 

 

 シェンパ・メルツェは歌をうたっては酒をすすめた。ユラ王子は一杯、また一杯と飲むごとに酩酊し、ついには呂律(ろれつ)がまわらなくなった。

「酒は……もう十分です。王宮に戻らなきゃ……、お父さんと……通婚のこと、相談しなくちゃ……」

 王子が帰ろうとするのを見て、メルツェは強くいさめた。

「ユラ王子どの、いま行かないほうがよろしいですぞ。馬に乗ったところで、そんなに酔っておいでだと、落馬して大怪我をされるでしょう。それにいくつもの川を渡らねばなりません。いくつもの高い山を越えねばなりません。崖から落ちれば死んだことすらだれにも知られないでしょう。わたくしのそばにおいでになるのが一番です」

 ユラ王子はメルツェの言っていることももっともだと思った。引用したことわざもよかった。しかし飲めば飲むほど、醜態をさらすことになるだろう。そこで自分からはあまりしゃべらないで、もっぱら聞き役に回った。しかしもうすでに相当飲んでしまった。この状態で王宮に戻るわけにはいかない。ここでゆっくりしたほうがよさそうだ。

 そんなふうにつらつらと考えるうち、王子はいつのまにか地面に横たわり、高いびきをかいていた。

 メルツェは王子が熟睡しているのを見ると、牛毛でできた縄を取り出し、王子の手と足をぐるぐる巻きに縛り上げた。そして四方に鉄の杭が打たれ、縄の片方の端がそれにつながれたため、あがけばあがくほど、締め上げられる仕組みだった。

 ユラ王子はこのように縛り上げられ、耐えがたい痛みのなかに目覚めるとともに、酔いからもいくらか覚めた。そして自分自身が鉄杭のなかで身動きできなくなっていることに気づいた。

すると彼の目からは稲妻が光り、口からは毒気が放出され、髪の毛から炎が噴出された。彼は渾身の力をこめて牛毛の縄を引きちぎり、猛然と立ち上がり、メルツェに食って掛かろうとした。

「このクソ犬め! ぼくはそんなに酒を飲んだわけではないぞ! ただ猛虎のごとく食べ過ぎてしまい、眠ってしまっただけのこと。おまえはこの牛皮縄でわれを縛ったな。でもこんなの、糸みたいなものだ。ぼくの力はだれにも負けない。大軍を相手にしても敵ではない。うらめしいのはおまえのこざかしい策略だ。縛り上げられたら、力を出せない。今日は、おまえの命をもらおう。酒はもう飲みたくない。縛り上げられるのはごめんだからな」

 そういいながらユラ王子がメルツェを持ち上げるさまは、青空を持ち上げているかのようだった。そしてメルツェを放り投げるさまは、地獄へ落そうとしているかのようだった。左へ押し込むさまは、岩崖を押すかのようだった。右にぐいと突くさまは、草山にたたきつけるかのようだった。

メルツェはユラ王子の手の中でもだえ苦しんだ。王子にこんな力が残っているとは考えもしなかった。彼はあわてて神の助けを呼んだ。

 するとアニマチェンの山神がやってきて、ユラ王子を押さえこんだ。ラチョ山の山神がやってきてユラ王子を押さえこんだ。多聞天と曜神ラーフラがやってきて王子を押さえこんだ。最後に梵天みずからがやってきて、王子を地面に押さえこんだ。メルツェは18尺の長さの縄を取り出し、ユラ王子をぐるぐる巻きにして、ふたたびあばれださないようにした。

 メルツェはユラ王子を縛ったまま馬にのせ、リン国に向かった。王子は馬の上で突然母親のことを思い出していた。出発しようとしているときに母親が言った言葉がいま心にしみるのだ。ジャン国の魔神は困難に陥った人を助けてくれるが、ひとたび敵の手に落ちたなら、親と会うことはふたたびないだろうと言っていた。雪山の白獅子は獅子の子と遊ぶことができる。白檀の林の中の虎は虎の子と遊ぶことができる。草の上の鹿は鹿の子と遊ぶことができる。子と二度と会えない母のことを思うと不憫でならなかった。そんなことを考えるうち、つい感情が言葉になって出てきた。

「胸の白い鷹よ、大鵬よ、黄色い鵞鳥よ、どうかジャン国まで飛んでいってぼくの境遇を親に知らせてください。母やジャン国のことを、母がぼくを心配する気持ちを忘れたことはありませんと伝えてください」

 メルツェは王子のつぶやきを聞いて、不覚にもホロリとした。まだこんなに若いのに、親のことをこれだけ思っているとは! このように馬にしばりつけてしまったら、叫ぼうにも叫べない。

「ユラ王子よ、そんなにあれこれと考えていらつかないように。獅子王ケサルと会ったなら、リン国が好きになるだろう。こうして捕えておく必要もなくなるということだ。さあいま、縄をほどいてやろう」

 そう言いながらメルツェはユラ王子を馬から解き放った。

 王子は血気盛んな少年だった。屈するどころかメルツェをののしりはじめた。

「このクソ犬め、シェンパよ。生まれつきの奴隷よ。ホル王はおまえに目をかけてやったのに、恩を仇で返すとはな。いまあわれなのはおれではなく、おまえだ、ホル・シェンパ王だ!」

 メルツェはユラ王子が英雄であることを認識した。怒りの感情どころか、敬意の気持ちをさえいだきはじめていた。

 ふたりはダクツェ城に到達すると、すぐにケサル王のもとへ通された。獅子王ケサルはユラ王子を一目見て、かわいらしい少年であると思ったが、まだいろいろと試す必要があった。

「ユラ王子よ、おまえはジャン国で安楽にすごせばいいものを、わがリン国の塩湖までやってきた。だがメルツェによって捕らえられ、ここに連れてこられた。おまえの身体はちょうど天神にささげるのによさそうだ」

ユラ王はケサルがそう言うのを聞いて、恐れをなすどころか堂々と言い返した。

「われはいま、リン国にやってきた。といっても身体はあなたがたにとらえられ、自由はきかない。あなたは神を祭りたいから神を祭るという。それは犬を食いたいから犬を食う、と言っているようなものだ」

 ケサルはユラ王子が話すのを聞いて、この少年は人を喜ばせる才能があるだけでなく、偉丈夫たりえる素質をもっていると感じた。相好を崩しながらケサルは言った。

「ユラ王子よ、冗談話を真に受けないように。わたしは獅子王ケサルである。魔王を倒し、民のために災いを除いてきた。本物の英雄にたいしては敬意を払い、それを守ろうと考える者であって、その逆ではない。将来そなたがジャン国の国王になり、国のために事業をおこなってもらいたいと考えている」

 ユラ王子はケサルの名は聞いていたが、魔物に負けず劣らぬ凶悪な王だと思っていたので、このように慈悲深い王であり、しかも見た目も立派で堂々としていたのには驚くばかりだった。彼はケサル王にたいして敬服し、ひざまずいて、三度頭を地面につけて懇願した。

「父王にはたしかに罪があります。しかし命は助けてもらえないでしょうか。もし処刑されるというなら、天界に生まれ変わってほしいのです。王妃の母は善良な人です。飢え死にするような目にはあわせたくありません。姉のジャン公主にはやはりリン国に嫁いでもらいたいと考えます」

 ユラ王子は、ケサル王がジャン国に侵攻するにしても、つぎのことは守ってほしかった。

 

けっして父を地獄に落とさないで 

けっして母を苦しめないで 

けっして姉を路頭にまよわせないで 

けっしてジャン国に災難をもたらせないで 

 

 ケサル王はユラ王子の言葉ひとつひとつにうなずいた。

「ユラ王子よ、安心なさい。おまえが願っているとおりになることをわたしは約束しよう。おまえはわが弟同然である。おまえは大英雄である。わが善事をなすに、わたしとともにあってほしい」



⇒ つぎ 









シェンパ・メルツェはジャン国のユラ王子が来るのを待っていた 



「ジャン国は塩が不足しているんで塩湖を奪いに来たんだ」
 国家機密をペラペラとしゃべるあたりは、やはり若干5歳だけのことはある 




「お酒くらい、どってことないさ。馬が水を飲むようなもんだ」
 メルツェの言葉にのせられて、ユラ王子は5歳の幼児にもかかわらず、お酒を飲んで酔いつぶれてしまう 




ホル出身のリン軍武将シェンパ・メルツェは、謀ってジャンのユラ王子を捕らえた