チベットの英雄叙事詩 

ケサル王物語 

39  モン国の魔臣にリン国の5人の英雄が挑む 

 

 リン軍とモン軍はニャンマ金橋で対峙した。まさに獅子と虎が出会ったかのようだった。リン軍は月を追う七色の彩雲のようであり、モン軍は天を舞う七色の彩蝶のようだった。川の両岸に集まった両軍の兵士や馬は数えきれないほどで、天と地を埋め尽くすほどだった。

 モン国の赤房軍首領ダワ・タツェンは挑発には乗らず、リン国の赤房軍にむかって6本の矢を放った。この6本の矢でリン軍の兵士13人が死んだ。このことで心を痛めたのはリン国赤房軍の将軍シェンパ・メルツェだった。彼は愛馬の赤馬に鞭を入れ、いっきに陣営の前に飛んできた。

「モン国の草原はなんと美しいことか。冬なのに満開の花が咲いているとは。しかしここではこのように、好きなときに人が殺せるようだ。

俗に言うではないか。八部衆(天衆、竜衆、夜叉……)がどこに行くかわからないとき、方士は布施の食べ物を投げ捨てるべきではない。洪水がどの方向に向かって行くかわからないとき、家を窪地から動かすべきではない。カッコウがいつ鳴くかわからないとき、カササギはチッチッと鳴くべきではない、と。リン国がどこへ行くかわからないとき、わが兵士を射殺すのはよくないだろう。われらとモン国は婚姻関係をぼうとしているのに、あなたたちは敵対しようとしているかのようだ。

俗に言うではないか。言うは易し、行うは難し。馬に乗るのは易し、馬に食べさせるのは難し。人を殺すは易し、人を生かすは難し、と。あなたがたは罪を犯したので、われらが友好的であるのは易しくない」

 シェンパ・メルツェはそう言うと「蓮華湾楽」弓を取り出した。この弓の上半分はガルダの角で、下半分は野牛の角でできていた。柄は象牙で、弦は野馬の背中の筋でできていた。これはもともとホル国の宝だったものである。いまメルツェの手の中にあり、それを持つさまはまるで虎に翼が生えたかのようである。

 メルツェは左手に弓を持ち、右手で光り輝く矢を引いた。そこから放たれた矢は雷鳴のような轟きとともに飛んでいき、ダワ・ツァチェンの胸に達した。激しい音がしたが、それは胸の前にかかっていた鏡が粉砕された音だった。鏡には法輪が書かれていたので、ダワ・タツェンはそれに守られて無傷だった。彼は動揺したものの、心を落ち着かせてメルツェにたいして言った。

「有利に売買を進めているのに、自分の取り分を相手の取り分に加える。城壁は十分高いのに、旗を立ててさらに高くしようとする。人を殺してなお、人の命で賠償させる。こんなことは、チベット九部(チベット全土)ではありえない話だ。おまえの国ホルではそれが常識なのか?

 武芸が特別に秀でているなら、なぜインドへ行って国を奪おうとしないのか。なぜ中国へ行って、裁判に訴えようとしないのか。なぜリン国に攻め行って、奪われた宝物を奪い返そうとしないのか。リン国に投降した北の魔国やホル、ジャンの英雄たちが、先頭に立ってモン国に攻めてくるとは! 
 もっとも勇ましく戦っているのが投降したマヌケ武将のおまえとは! まあそんな活躍も今日までだが。おまえには地獄へ行ってもらおう」

 ダワ・タツェンが矢を放つと、それはメルツェの左肩に刺さり、鎧(よろい)の一部を砕いた。彼は刀を抜き、ダワ・タツェンに飛びかかった。そのときどこかから突然縄が飛んできて、ダワ・タツェンの首に巻き付いた。そこへメルツェが一振りした刀が入り、ダワ・タツェンの首をざっくりと斬った。彼の体は馬から転げ落ち、縄を投げたユラ王子の足元に転がった。メルツェとユラ王子は首級をもって本営に戻った。獅子王ケサルはこのふたりの勇猛さをほめたたえた。

 シンティ王はそれまでの3人の魔王、ルツェンやクルカル、サタムと比べても引けを取らない強敵だった。修練によって魔法をきわめていただけでなく、そばにいる家臣のクラ・トクギェルが、とてつもないパワーを持っていたからである。

 最初の手合わせで13人の兵士の犠牲を出したため、相手の将軍の命をひとつ奪ったとはいえ、リン軍の意気はかなり下がってしまった。どうしたらシンティ王を倒すことができるだろうか。梵天は進撃せよという予言はしたものの、そうやってこの妖魔を倒すのかについては語らなかった。いま、両軍が対峙しているが、戦いに慣れていないリンの兵士たちは、持ちこたえるのがやっとで、何かの間違いがあったら一挙に崩れかねなかった。

 夜が深くなっても、ケサル王は不安で眠ることができなかった。夜が明ける頃、いい香りが漂って、心地よい音楽が奏でられるなか、彩雲とともに天の叔母ナムメン・カルモがやってきた。

「わが甥よ、起きなさい。睡眠を愛する男子は、見込みがないといいます。睡眠を愛する神とグル(師匠)は、寝ていても、魂は覚めているものです。睡眠を愛する官吏は、法を執行するときのみ覚めているものです。睡眠を愛する長老たちは、主張するときのみ覚めているものです。睡眠を愛する英雄的将軍は、敵が眠っているときに覚めているものです。いまおまえは世界の獅子王なのだから、眠るべきではない。さあ、起きなさい」

 ケサルははっとして目覚め、上半身を起こした。天の叔母はやや遠いたところにいるように見えたが、その歌声はすぐ隣にいるかのようにはっきりと聞こえた。

 

十八日は縁起のいい辰の日 

天の兵士は十八億 

玉山の頂上にみなが集まる 

夜叉兵は九十九万 

タクワ灘にすでに集合している 

竜兵は海の波のごとく打ち寄せて 

ナロン山の麓に集まっている 

わが子よ、恐れることは何もない 

二十九日になればすべてがわかる…… 

 

 天の叔母の声は急にかぼそくなっていった。しかしケサルの険しい顔は柔和になっていった。どうしたら降魔することができるか、明白になったのである。

 翌朝、鈴の音が鳴り響いた。リン国の全将軍が幕舎に集められ、月を回る星の群れのようにケサル王のまわりに集まった。ケサルは晴れやかな気持ちになり、声の調子も快活だった。

「リン国の英雄諸君、つぎのことわざをご存じだろう。善行を積んだ白い太陽が昇らなければ、邪悪な黒い迷霧を晴らすことはできない。氷雪が太陽の熱によって溶けなければ、白獅子を捕らえられない。緑の海のなかに釣り針を垂れなければ、金眼魚の味を味わうことができない。大軍が敵の城塞を打ち破らなければ、だれが財宝の眠っていることを教えてくれるだろうか。

 われらリン国の将軍たちがモン国にやってきたからこそ、魔王シンティを破ることができ、受難の民衆を解放することができるのだ。しかし妖魔を倒すのはいつでもいいわけではなく、時機というものがある。いまは、まだ、その時機ではない。

 しばらくして太陽が高く昇ったとき、モン国将軍クラ・トクギェルはひと悶着を起こすだろう。しかしわれわれはいちいち相手にすることはできない。彼にたいしては作戦を練って対処すべきだろう。現在直面している最大の問題は、南方の暑気における蔓延する疫病である。この幕舎のなかで、聖なる流水からとった薬と天母の護身結をみなに平等に配ることにしたい。妖魔を倒す日は29日となるだろう」

 獅子王ケサルの言葉をもらった家臣たちはそれぞれの宿営に戻り、聖水と護身結を兵士たちに配った。それから何日もたたないうちに、ケサル王が言ったとおり、モン国将軍クラ・トクギェルが戦いを挑んできた。

 クラ・トクギェルの顔は満月のように丸く、背は虎のよう、腰は熊のようで、まことに威風堂々とした美男の偉丈夫だった。頭には陽光遍照金の兜(かぶと)をかぶり、兜のてっぺんには赤い房をつけ、黄金の鎧(よろい)を着用し、黄色い緞子でできた上衣をまとった。金色の花模様が施された矢筒のなかには肉を食べる毒矢が50本あり、太陽と月が描かれた弓入れには鉄の弓が入っていた。腰には吸血の宝剣がさされていた。そしてまたがっているのは、黄色の駿馬だった。

 リン国の英雄たちは急いで敵を迎える準備を進めた。クラ・トクギェルが本営の門の前に現れたとき、大英雄テンマを長とする5人の将軍が迎え出た。

 テンマが手を掲げると、クラ・トクギェルも手を掲げた。

「やあ、モン国から単身で乗り込んできた人よ。われらと戦おうというのか。まずは空き地に行って腕試しをしたほうがいいのではないか」

 クラ・トクギェルは怒りに燃えていた。前日ダワ・タツェンが戻ってこなかったからである。すでにモン国は面目を失っていたので、両軍の前で怒りを鎮めることなどできなかった。テンマがさらにクラ・トクギェルなど眼中にないかのごとくふるまい、そのことが怒りの炎にさらに油をそそぐことになった。彼はリンの5人の勇士たちとともに空き地に移動した。

 テンマはケサルから指示されていたが、勇士たちの前で自分のすごさを、とくにクラ・トクギェルに弓の腕前を見せたいと思った。テンマは宝弓の上に鷹の羽の矢を置いて、引いた。

「やあ、ここは喪命平原といわれる場所だ。われら5人は死神と呼ばれる者たちである。あなたがたには私のこの矢を見てほしい」

 そう言って歌いはじめた。

 

聞いてください、黄色いあなた 

あなたは道中ただひとりのあわれなお人 

単独で馬に乗って出陣とはかわいそう 

太陽もひとりで行けば天狗(ラーフラ)と遭遇します 

星も群れを成せば安全です 

子羊も一匹で出かければ豹や狼と遭うでしょう 

羊も群れを成せば安全です 

人もひとりで出かければ敵と遭います 

人も群れを成せば安全です 

赤い火はおなじく焼ける木炭が必要です 

青い水はおなじく流れ出る水源が必要です 

英雄も仲間が必要です 

犬もまたおなじく吠える仲間が必要です 

 

われらは五人兄弟 

黄色を着るのはカデ・ミチェン・セルポ 

力持ちで山を盛り上げるのは 

白い衣を着るトンキュン・バラク 

怒りを呼ぶのは獅子セ閻魔 

赤を着るのはシェンパ・メルツェ 

彼の毒剣を逃れられる人はいない 

青を着るのはユラ・トクギュル 

彼の弯弓は石臼みたい 

私テンマの矢も見てください 

でもこれであなたを殺すことは望みません 

 

歌い終わるとテンマは迷うことなく弓を引いた。弦を放れた弓はギュンとうなりをあげて飛翔し、陽光普照金兜を直撃したが、クラ・トクギェル自身は無傷だった。彼は目を真っ赤にしてテンマを指さしながら叫んだ。

「何が英雄テンマだ! 武芸に秀でてなどおらんわ。つぎは無心で矢を射るんだな! おまえはすでに矢を一本放った。もしつぎにわたしが矢を放たなかったら、いくじなしだといわれてしまうな」

 そう言うとクラ・トクギェルは毒矢を放った。それはテンマの兜の房に当たった。それは房を折ったあとさらに後方へ飛んでいき、樹齢百年の老木に当たった。老木が倒れると火が出て森中に広がった。

 テンマは怪我こそしなかったが、毒気にやられて心臓がしめつけられ、心神が不安定になり、坐ることもできなくなって床にくずおれた。それを見たクラ・トクギェルは高笑いして言った。

「英雄テンマは名ばかりなり! わたしが矢を一本放っただけで、キツネが正体をあらわしおったぞ! もう一本放てば、つぎは命を頂戴することになりそうだな」

 クラ・トクギェルがつぎの矢を放つころには、リン国のその他の4人の矢は彼のほうに向かっていた。しかしまたも彼はかすり傷ひとつ負わなかった。クラ・トクギェルは妖魔の化身だった。あえてこれ以上戦おうとせず、馬の腹にしがみついたまま、馬とともに光の中に消えていった。

 4人の英雄はテンマをつれて獅子王ケサルの幕舎に戻った。ケサル王はテンマに不死薬を飲ませ、千仏の毛髪を焚いて出た煙でいぶして回復をはかった。体力ばかりでなく精神力も回復したテンマは、早くもクラ・トクギェルとの戦いのことに頭をめぐらしていた。

 このようにリン国の英雄とクラ・トクギェルをはじめとする魔臣との戦いは数日におよび、双方から損失が出て、決着がつきそうになかった。

 ある日、トトンが甲冑に身を包み、参戦した。彼は英雄たちが連日クラ・トクギェルと戦うも勝つことができないのを見て、自分の法力を示すときが来たと感じたのである。彼は力んで自分の考えを話した。

「自分たちの師匠が能力もないのに偉そうなこと言っていたら、そりゃ弟子たちからすりゃ屈辱モノだろう! 表向き威勢がよければよいほど、実際、醜態をさらしているのだ。弱い者にかぎって、威張り散らすものだ。強大な軍隊を持っていても、そんな大言壮語を並べたら、恥ずかしくてたまらないだろう。リン国の英雄たちもそうだ、偉そうな御託ばかり言って、クラ・トクギェルにまったく歯が立たなかったじゃないか。これはもう恥ずかしいってもんじゃない」

「トトン、きさまは……」怒涛天を突いたテンマはトトンに殴りかからんばかりだったが、メルツェに押しとどめられた。メルツェはテンマの耳元でささやいた。

「テンマどの、まあそんなにはやりなさるな。小者にかぎって大風呂敷を広げたがるもの。山をひっくり返すとか、海水を一口で飲むとか平気で言ってのけます。トトンが言っていた話は、結局自分のことなのです。ほっておけばいいのです」

 ケサルはトトンが話し出したらだれにも止められないことを知っていた。彼は年長者でもあるので、非難するのははばかられた。ケサルは幕舎内にいるまわりの将軍たちにたずねた。

「だれがトトンといっしょにクラ・トクギェルと戦いたがるだろうか」

 トトンはだれからも好かれていなかった。いまのようなことを言って大衆を怒らせ、そのうえでだれがトトンと行動をともにするだろうか。しかし意外なことに、テンマはトトンがどれだけ英雄であるか見たくなった。それゆえトトンに同行しようという気になったのである。

 ふたりは幕営を出て、馬に乗って本営の前の空き地まで駆けていった。テンマはトトンのすぐ後ろについていった。トトンはリン国の英雄たちの前で威風堂々としているところを見せたい一心だった。そして馬を鞭打って、クラ・トクギェルの前に躍り出た。一言も発せず、剣をひくと、すぐ振り回しはじめた。

クラ・トクギェルがこの日倒したリン兵はたったひとりにすぎず、疑心暗鬼になっていた。見ると目の前で剣が振り回されていたので、何も考えずに剣をひいて応戦しはじめた。しかし刃と刃が一回合っただけで、クラ・トクギェルの剣はトトンの鎧兜(よりかぶと)を叩き割った。トトンはびっくりして、屁を垂れ、小便を漏らしてあわてて逃げていった。クラ・トクギェルがあとを追おうとしたとき、テンマの放った矢が命中したが、矢ははねのけられて地面に落ちた。

 テンマはトトンの後ろについて、笑みを浮かべながらケサル王のいる軍営にもどった。トトンは英雄や大勢の兵士の前で大見得を切ったので、小さくなっていた。ユラ・トクギュルはケサル王が気がついていない間に、トトンの馬の尾と鬣(たてがみ)から、またトトンの犬の尾からひとつかみの毛を抜き取った。そしてハラ皮、カタ、ヤクをそろえ、トトンの前に置いて彼の功績を祝った。しかしこれはケサル王をだませることができたが、英雄たちをだますことはできなかった。彼らは爆笑し、その笑い声は幕舎を出て山の谷のなかでこだました。トトンの怒りは頂点に達した。

 トトンの眼球には網の目のように血脈が走っていた。だれも知られないように彼は小石を水に投げ入れ、呪術を開始した。すぐさま天空に火が起こり、轟音とともに山が崩れ、雹の大きさの鉄の玉の雨が降ってきた。英雄たちは笑うのをやめ、天に祈り始めた。

「ユラとテンマはこのようなことで笑うべきではない。とくに降魔が成功するかどうかという瀬戸際に兄弟喧嘩などしている場合ではない。互いを愚弄するのは、やめるべきだ。トトンおじさん、あなたもどうか気にしないでください。あなたがリン軍にかけた呪術は強力でたいへんな効果がありました。でも、どうかそれを解いてください」

 トトンはケサルの話を聞いて、白くなった毛に覆われた顔に喜色をのぞかせた。そしてヒゲを左と右に分けて、その間から声を出した。

「命令に従いましょう! だが、もしわしに呪術を解かせたいなら、各自一本ずつ矢を提供するように!」

 英雄たちは何か言い返そうとしたが、ケサル王の鋭い眼光によって押しとどめられた。不満をぐっとおさえて、彼らはカタがついた矢を一本ずつ献上した。

 トトンは左手にカタがついた矢を持ち、右手を足の下に伸ばし、お碗の水から取り出した白い石を口に入れた。すると呪いは消え、太陽もまた笑顔を取り戻した。

 


⇒ つぎ 











ダワ・タツェンはモン国の猛将中の猛将 



ダワ・タツェンが号令を発すると、矢が雨あられのごとく降ってきた