叙事詩ケサル王物語 試みの解釈 ジークベルト・フンメル
(訳:宮本神酒男)
(下)
ケサル王物語の西チベット・バージョンに、もうひとつ、ジークフリートのモティーフがあることに思い当たる。頭脳を働かせて、あるいは腕力でもって、ケサルはなんとか神秘的な宝を手に入れる。嫉妬心をもちながら、その宝を守ろうとする小さな魔術的な存在がベール(sbal-lu)である。
もしこの宝の守護者がこびとでないにしても、ニーベルングの宝庫との類似は驚くべきものである。ベールという語の語源ははっきりしないが、地中あの宝を暗示しているようだ。
フランケが発表したテクストにはそれが人間の形をした生き物であるという証拠は示されていない。ベールが人間のようにふるまうとは神話のなかで語られていないのだ。おそらく彼らはル(klu 竜やナーガと訳される)とおなじカテゴリーに入れられるだろう。
チベット南東部に背の低い種族が住むという報告はあるが、チベットにおいて、こびと伝説はほとんどが外来のものと考えられている。S・H・ライバッハが収集した伝説によると、長い髭をたくわえ、杖をもち、奇妙な帽子をかぶったコボルド(精霊)がバルカル(Ba-lu-mkhar)の要塞に住んでいるという。通り道に立ちふさがり、彼らは旅行者の邪魔をする。
私が知る限り、ヨーロッパのこびと伝説に相当するのは、チベットにおいてはこの西チベットの伝説ただひとつである。ケサル王物語の宝の守護者と同様、これは外来と考えるべきだろう。中央チベットに7年間滞在したハインリッヒ・ハラーもこびとの伝説は聞いたことがなかった。
ジークフリート物語と奇妙に一致するモティーフがおなじラダックのケサル物語に見出される。それはジークフリートの死である。ケサルではなく、もっとも若いアグ、あるいはケサルの兄弟の話である。ケサルには起こりえないことだ。というのもケサルは聖なる顕現なのだから、人間の手によって殺されることはないと信じられている。
しかしながら神話の情報源や起源について調べるべきだろう。ケサル以外にこのアグも目に見えないマントを所有する。この透明人間マントを着て、彼は敵にダメージを与えることができた。
アグの身体は鋼鉄のように固く、それゆえ不滅だった。
(gzugs-po mtshan-ma pho-lad la yod)
肩の下の鏡ほどの大きさの肉だけが弱点だった。
(chang-gyog gi nang-la sha me-long zam-shig man nas med)
この秘密を恋人に暴露したのはドゥクモだった。恋人はドゥクモの誠実なるパラディン(騎士)を消したかった。ケサルが留守の間、不貞の邪魔になるのは彼であったからだ。ジークフリートのように、彼は水を飲んでいるとき、放たれた矢(mda’-rgyabs pa-song)が肩の柔らかい部分に当たり、死んでしまう。(chang-gyog la phog-song)
チベット人は人間世界を去ったケサルとラマ教の黙示録、あるいは神秘的なシャンバラとの間には関係があると信じている。シャンバラは、ラマ教の終末論が完成する場所でもあるのだ。このように時系列の歴史は敏感に、あるいは調和的に脇に置かれ、毎年規則正しく自然現象として循環する。
人が住む世界は、シャンバラから刷新される。25代目にしてシャンバラ最後のクリカ(Kulika)、すなわち王のもと、黄金の時代がついにはじまる。この時代の特長のひとつは驚異的な豊饒性だ。ケサルが北国に遠征して巨人と戦い、留守にしている間、ドゥクモが白テント王と過ごしていたことを考えてみよう。ケサルが人間世界にいないと、地上はまるで冬がやってきたかのようなのだ。
ケサルはすべてのクリカの保護者と考えられている。北方のどこか、それは神話的な方向であり、財神の地域でもあるのだが、シャンバラがあるのだ。それゆえケサルは北へ向かうのだ、ドゥクモのもとを去ったときのように。北はケサルと呼ばれることさえあった。そしてケサルは救済者として北からもどってくることが期待された。
シャンバラ伝説に関し、ケサル物語の「神話学的自然現象解釈」以上に目立つようになったのは、キフホイザー伝説の終末論的意味合いである。
シャンバラ伝説のバリエーションのひとつであるモンゴルのアガルタ伝説は、神秘的な王国を地底世界に置き換えたものである。救済者は地下世界からやってくるのだ。シャンバラ終末論とメシアとしてのケサル待望論が融合し、ジークフリートのモティーフはパーシヴァルの物語、さらにキフホイザー伝説とも連結する。
ケサル王物語のもっとも本質的な「神話学的自然現象解釈」の性質は、ジークフリート物語やエッダの歌と呼応することによって裏打ちされる。G・N・レーリッヒもまた「神話学的自然現象解釈」という考え方を好んでいる。それゆえかならずしもチベットの神話でなければならない、ということはない。それは先史時代、あるいはメシアへの期待が高まった7、8世紀にまで遡ることができる。
さらに神秘的な民間伝承は「神話的自然現象」の背景にたいし、より容易に理解できる。ジークフリートと同様、ケサルの物語においても、歴史上の事実がのちに加味されたものであっても。こうした共通点はけっして偶然ではない。基本的な考えや構成、個人的な特性、それらの深部において共通している。互いに独立した場所ではじまるという考え方は成り立たないのだ。
われわれはそれゆえ神話の共通した起源というものを考えるべきである。われわれはチベットの新年祭を思い浮かべるとともに、ヨーロッパ型の古い伝統について論じてきた。われわれは東と西の文化との間にどのような動きがあったか、それほど知っていない。
ケサル王物語のなかにおいてヨーロッパとの共通点が多々見られると言う程度に収めて置くべきだろう。このことはケサルの物語が中央アジアで著しく人気があるのに、インド起源の仏教の教義からはかけ離れたものだった。ケサルは仏教的要素を取り入れているものの、チベット仏教のシステムから見ればアウトサイダーだった。
それはシャンバラ伝説を思い出させるだろう。周期的に終末を迎える時間という概念は、ヒンドゥー教の世界観でも仏教の世界観でもなかった。それはいまでもチベット人の未来への希望を反映しているだろう。
しかし、ケサルに代表されるような非仏教的なパーソナリティーは、このような考え方のなかで見失われてしまう。聖杯伝説のモティーフから派生したシャンバラ伝説の宗教的歴史的問題は、ジークフリート伝説とケサル物語の関係よりもよりシンプルである。
聖杯伝説とシャンバラに関しては、紀元一千年紀におけるイランとの関係から起源を探ることができるだろう。ジークフリートとケサルに関しては、霧がかかっているようでよくわからないが、紀元前一千年紀にその関係性は生まれたのだろう。
ケサル王物語の起源を探すと、チベットにはふたつの中心地があることがわかる。そこから物語は異なる方向に広がっていった。生きた宗教、歴史的伝統として、広い範囲で融合していった。西チベットで典型的なモティーフがすべて東チベットにみられるということはない。逆もしかりである。
これらのモティーフはいつもジークフリートの中に見出せるものである。これらはチベットのふたつの出入り口とつながっている。ひとつはココノール(青海湖)であり、もうひとつは西チベットにつながる谷間である。西チベットの出入り口は西アジアや小アジアに通じていた。それらは民族移動ルートでもあり、チベットの発展と密接な関係があった。そこを通って築城法や灌漑システム、投石器、皮舟などがチベットにもたらされたのである。
ゲルマン人のモティーフが中央アジアにもたらされたのは、ふたつの中心地でケサル王物語が発展したのと同様、人々の移動と関係がある。R・ハイネ・ゲルダーンによると、これはいわゆるポントスの民族移動(ポントスは黒海の北の草原地帯)である。紀元前千年紀に彼らはココノール(青海湖)に達し、その後東南アジアに向かった。この民族移動にはドナウ人やゲルマン人も含まれていたとハイネ・ゲルダーンは考えている。
すべてはココノールで枝分かれした人々がチベット内部へ向かったことを示しているように思われる。もっとも小さな、隔絶したグループが中央アジア、たとえばホレズムに強い影響を与えた。それが西チベット、さらにはチベット全体に影響を及ぼしているのだが、それに対する評価は低すぎるように感じる。
遅くとも紀元前3世紀までにはホレズムでトカラ人たちが重要な役割を演じるようになっていた。ケサルがしばしばチベットの北や北東辺境を脅かした人々のリーダーのように見えるのも、そうした古代の記憶がどこかに残っているからかもしれない。
このように歴史的事実をもとにわれわれは二通りのケサルの人物像の解釈につとめてきた。ひとつは、ソンツェンガムポ王の時代、あるいはつぎの4世紀にわたる東方や北方の辺境での戦いとの関連である。この場合、ケサルはつねにヒーローである。もうひとつは、ケサルがむしろ敵方、おそらくトルコ系のリーダーとする解釈だ。彼らはチベットの北東、あるいは北西から脅かしてきた。
H・ホフマンの考えでは、テュルク(Dru-gu Gru-gu)のリーダーとして、クロム(Khrom Phrom)のケサルという称号を、紀元千年紀に、北西チベットのテュルクの王子から授与された。この称号、つまりローマ皇帝は権力を満足させるものだったろう。西チベットでは昔からケサルの国はトカラ国(To-gar gyi yul)と関係があると考えられてきた。結局のところケサル王物語の神話的モティーフはトカラ人説にあてはまるようなのだ。
かなりのものが不確かであること、そしてケサルを歴史の文脈に置く試みが困難であることは頭にいれておかなければならない。私の考えでは、歴史的解釈は本質的な問題ではない。チベット人の国民的英雄が、同時にどうしたら外国人の英雄でありえるだろうか。叙事詩が外国人に取られてしまったのだろうか。神話の中にはその国民的英雄とうまくいかないものもあるのではなかろうか。
ともあれ、物語のモティーフの一部はぜったいにテュルク系のものではありえない。それは仏教寺院の見方では、ケサルがテュルク系部族の敵であるとしていることからも確認される。ただ、ケサルが歴史上のチベットの英雄とするのは、すでに物語がチベット文化の一部となっているからである。
C・W・フォン・ジードウ(Sydow)によれば、民間説話や神話が新しい土地に届くためには、積極的な運び手が必要である。われわれの場合では、人々の入れ替えということもありえるが。その過程において神話や伝説の変容も起こるだろう。ケサル物語と同様、ニーベルンゲンの物語もエッダの歌が変容して形成された。しばしばこうした変容はもとの性格に及ぶことがある。
ジークフリートの死のモティーフを例にとってみよう。ケサルは死なない、というのは論理的である。しかしアグのひとりがかわりに死ぬ。これは変容である。もともとのモティーフの意味が変わったのだ。
これまで述べたことは仮説にすぎない。しかしチベットの文化的シナリオのなかに外国の要素の起源を探し出すことによって、結果としてケサル王物語にユニークな文化の類似性を見出すことになるだろう。