ケサル王物語は面白くないのか     宮本神酒男 

反語的イントロダクション 

 ケサルという名前を知っている日本人がどれだけいるだろうか。街頭アンケートや無作為抽出電話アンケートを取るまでもなく、ほとんどの人が聞いたことも見たこともないだろう。チベットに多少の興味がある人も、ダライラマやミラレパや死者の書についての知識がいくらかあっても、もしかするとゾクチェンやパドマサンバヴァという言葉を聞いたことがあっても、ケサルのこととなると、ぼんやりとしたイメージしか思い浮かばないかもしれない。

 それは当然のことだろう。その映像は国内ではほとんど流れたことがないし、一般向けの出版物も、モンゴル・バージョンを除けば、君島久子さんがまとめた『ケサル大王物語』(1988)くらいしかないのだから。この本も青少年向けの読み物で、童話のようなものであり、筋立てはおおよそ正しいものの、実際にチベットで、豊かなチベット文化のなかから生まれた特異な語り手が語り、歌う長大な英雄叙事詩とはほとんど別物といっていいだろう。アマゾンを見ると、唯一の(2013年6月現在)レヴューは3つ星をつけて「登場人物全員がマヌケな英雄譚」と評している。

 そもそも外国人のわれわれにケサル王物語のよさがわかるだろうか。チベット語を習得したとしても、ケサルの語り手が語る内容をニュアンスまで聞き取るのは不可能であり、翻訳(場合によっては重訳)を通せばすでに本当のよさがわからなくなっている。

たとえば、絶滅しかけている北陸の瞽女(ごぜ)という盲人の女性旅芸人の語りの内容を、一般の米国人が面白いと思うだろうか。われわれ日本人にとってさえ言葉がわかりづらく、話の展開も冗長すぎて楽しむことなどできそうもないのに。

 ケサル王物語の内容を知ったとしても、ハリウッド映画を見慣れたわれわれからすると物足りないのではなかろうか。英雄譚の主人公が強いのは必須だが、強いばかりだと往々にしてしらけてしまう。ハリウッド映画でも、自分が撃った弾はすべて敵に当たるが、敵の弾は一発も自分に当たらない、というご都合主義が許されるのは、ランボーくらいのものである。最近はスーパーヒーローのバットマンでさえ思い悩むようになった。ヒーローは窮地に陥り、もはやここまでか、と観客が思ったところでどんでん返しが起こり、勝利を手にすべきなのである。ケサル王は勝ってばかりではないのか。

 また、ケサル王物語には、現代のわれわれからすると倫理的に許しがたいことが多いのではないのか。女性差別、人命軽視、環境破壊といった人権活動家や環境保護団体が憎悪するようなことをケサル王はしているのではないのか。それにそもそも、ケサル王が世界の王をめざし、周辺の国をつぎつぎと征服していくという姿自体、覇権主義的ではないのか。征服される国の王は魔王呼ばわりされているが、その国の人民からすればケサル王こそ侵略者ではないのか。覇業の道なかばで失敗したら、いつまでも周辺国に反省と謝罪を求められかねないだろう。

 このように、ケサル王物語についてネガティブな見方をしようと思えば、できなくもない。しかし、現に、何百年もチベット文化圏でケサルは語られ、歌われてきたのである。僧侶や貴族だけでなく、女も子供も、老いも若きも、富者も貧者も、みな楽しんできたのである。パキスタン北部バルチスタンのイスラム教の村々やロシア・カルムク共和国のカスピ海沿岸の町からモンゴルの草原地帯の遊牧民のテントまで、広大な地域で、時代の変化に耐えながら、いまもなお残っているのである。しかも博物館の片隅でカビが生えたような文化としてではなく、血の通った、胸をときめかせてくれるような生きた芸能文化として残っているのだ。

死滅する伝統芸能が多いなか、このように人の心のなかで生きつづけるというのは、よっぽどのことではなかろうか。頭の固い学者さんが研究対象とするだけではなく、われわれもケサルの世界に飛び込んでその独特の世界を享受することはできないだろうか。

 

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