ケサル王 勇者の歌 ダグラス・J・ペニック (宮本神酒男訳)

 

第3章 


 

 何か月もの間、ケサルは庵室にこもって瞑想修行をつづけた。ある秋の夜遅く、空に荒くれだった冷たい風が起こり、星々を隠した。そのあと三日月が現われるさまは、波浪に小舟が揉まれるかのようだった。

 あちらこちらで消えゆく火の燠(おき)からかすかな煙が立ち昇るのが見えるにもかかわらず、リンの人々の姿は、黒ずんだ石造の家々の陰にうずくまっているためか見えなかった。

 北方の大山脈が、はっきりと識別できる手前のものよりも大きくあらわれてきた。獅子王は人生のはかなさをしみじみと感じ、大きな悲しみに暮れた。切望と慈悲の心から、ケサルは伝説の魔女(母系のダラ戦神を統治する魔女)の大岩にむかって自ら生まれ出た歌をうたった。

 

生と死の零の地点で 

ゆるぎない、まっすぐな、簡潔に輝いているあなたは 

憤怒、すなわち明快な、いきいきとした情熱であり 

変化の智慧である。 

あなたは動きの本質であり、インクの「黒であること」である。 

あなたはまるで走っているかのようにカラスの背に立っている。 

4本のほのかに光る蛇のような腕の最上部で 

あなたは太陽と月をつぶす。 

右の下の手で 

あなたは二元論の心臓をつかんで食べる。 

左の下の手で 

ドクロ杯から毒のある考えの沸き立つ海を飲む。 

あなたは空(くう)の天空の暗闇を飛翔する。 

そして巨大な湿った口は大きく開き 

4本の光る鉄の歯を見せる。 

世界の終わりの風のように 

あなたのトルコ石の髪は上方へ流れる。 

そしてあなたの眉毛とまつげは 

時間の終わりの火のように輝く。 

血走り、膨張した3つの目から 

紫の雷のようなギザギザの剣が光る。 

あなたは完全な裸である。 

あなたの胸は垂れさがっている。 

そしてあなたの黒い生殖器はさらされ、開かれている。 

時のはじまり以前から 

あなたは凍った空気のカミソリで高峰を刈る。 

また銀の氷のシーツで山の死体を包む冷風だった。 

あなたは稲光で高地や谷間を彫琢し 

無表情の顔の大地を作り上げた。 

あなたが切望の叫びをあげると 

競い合ういくつもの流れを雪崩がせき止め 

湖や緑の谷が命を得る。 

生命は勝利の雄叫びとともにはじまる。 

あなたの雷鳴のような叫びからは 

百万の秘密の恐怖もまたはじまる。 

生きる戦いがあるところでは 

あなたは恐怖の鋭い本質である。 

あなたからは何も隠すことはできない。 

あなたの息のわずかなこだまから 

脳溢血、疫病、心臓発作、死が生まれる。 

あなたはすべてに終わりをもたらす。 

休みはなく、静寂もなく、安寧もない。 

犬歯の歯ぎしりがやむことはない。 

ぬくもりも、成長も、楽しい日も 

あなたの寂しい怒りの鉤爪(かぎづめ)で捉えることはできない。 

あなたの呼吸(いき)によってのみ 

永遠という幻が維持されている。 

あなたの長くて黒い腕のわずかな動作によって 

空が晴れ渡ったり、黒雲で満たされたりする。 

太陽と月は輝き、また消える。 

あなたが虚空で踊り、舞うとき 

広大で安穏な海が墓場となる。 

そして雷の火が地上を焼き尽くす。 

あなたの黒曜石の脚の爪が地面を刷いただけで 

古代の森は粉砕され、棲息するものはつぶされるだろう。 

地上のもの、海の中にものも、空中のものも 

永遠にあなたの踊りのなすがままであろう。 

静かな確信と愛によって呼ばれるまで 

雪の国に自分自身を見出した者は 

あなたへの恐怖におびえつづけることになるだろう。 

その愛からあなたは勇敢な男と女のすばらしい種族を生み出す。 

この時の暗闇のなかで 

凍てついた恐怖に触れられていない渇望によってあなたを呼ぶ。 

そして希望の業火に触れられていない愛をささげる。 

存在と非存在が湧かれていない領域で 

場所と名前のわずかな香りをささげる。 

すべての動きが幻影である領域で 

魅力と嫌悪の黄金の空の花をささげる。 

混沌と秩序がひとつのダンスである領域で 

美味なる抽象化のトルマをささげる。 

無知と智慧が分かちがたい領域で 

個人の意識の陶酔させる酒をささげる。 

これらのささげものによって 

あなたの荒々しいダンスにみなが入れますように。 

これらの幻のささげものを完遂することによって 

どうかなぐさめられ 

災いをおこさないでください。 

あなたは存在であり、非存在でもあるので 

目覚めた状態から迷い込んで 

敵の悪魔の手の中に落ちないようにしてください。 

あなたは創造であり、破壊でもあるので 

目覚めた状態から迷い込んで 

希望と恐怖の道に落ちないでください。 

われわれはあなたから逃れることができないので 

あなたの激しい抱擁で祝福してください。 

生と死の陰があなたにとっては意味がないので 

無条件の光によってわれわれを保護してください。 

あなたはなかなか慰撫されないので 

銀の剣が真夜中の空を切るように 

確信が広がりますように 

あなたが純粋の本質なので 

命、心、リンの国王ケサルの誓いが 

確証の保証となりますように。 

あなたは力の本質なので 

命、心、リクデン王の誓いが 

この領域の強さと繁栄を確固としたものとしますように。 

そしてシャンバラ王国をこの世にもたらしますように。 

すばやく、突然に、おお、風のように 

大いなる怒りの黒いものよ、いまこそ来てください。

速く、早く、来てください 


 

 それにつづく何年間か、柔らかいそよ風とあたたかい春の雨から生まれ、谷間でみずみずしい草を食べながら成長した仔馬や子牛が、リンのあらゆる牧場を満たした。

夏には、正午の太陽が熟した穀物に光をそそいぎ、畑は黄金の海原のように見えた。

 秋になると十分な収穫があり、高山の牧場から馬や家畜の群れが平地に降りてきた。

 冬の長くて寒い夜には、リンの人々は何かをほしがったり、怖がったりすることなく、あたたかい寝床で安全に眠ることができた。彼らの生活は調和的で、言い争うことはめったになかった。

 冬のさなか、凍てついた輝く星の夜、新月が空に戻ってくると、王宮の寝室に夢も見ずに眠っていた。そこへ女神マネネが現れたのである。彼女はかすかな月光の橋をつたってやってきて、新月の下の角から直接彼の心に飛び込んできた。そこで位置を取ると、彼女は歌いはじめた。