ケサル王の地獄救妻

 

ケサル王とその随行はリン国に戻ってきた。ダラ王子(Lha sras dGra lha rtse rgyal)は英雄的武将や家来、すべての臣民を率いて出迎えた。しかし王妃アタラモ(A stag lha mo)のみ姿を見せなかった。不審に思ったケサル王はダラ王子に、なぜアタラモが迎えに来ないのか、問いただした。

ダラ王子が答える前に、総監ロンツァ(sbyi dpon Rong tsha khra rgan)が宴の用意ができた旨を申し出た。

ヴィンテージものの酒、一月発酵させた酒、当日発酵酒、米酒、糖酒、チンコー麦酒などが運び込まれた。チーズ、バター、点心、蜂蜜、ザンパなども卓上に並んだ。ヤクの肉、野生ヤクの肉、羊肉、ヤギ肉、野生馬の肉、黄羊肉、猪肉、そういったものが卓の上にうずたかく積もられた。

ケサルはそれらを眺め、英雄的武将らを招きいれ、ダラ王子とロン国の王女アマンとの婚姻について発表した。感激し高ぶった王子は総官のもとへ走りより、臣民に代わって王に感謝の言葉を述べるよう依頼した。

ほら貝のように真っ白な頭髪の総官は、両脇の侍者に助けられて立ち上がり、カタ(吉祥のスカーフ)を王にかけながら、臣下らに向かって述べた。

「ロン国とリン国のよき縁談は、純白なるカタのようになにひとつ汚れはございませぬ。すべてがダラ王子のお望みのとおり、これも大王のなせるわざ、深く御礼申し上げいたします。王子の花のような縁談を祝し、グルは長寿の結びを、伯父らは真っ白なカタを、英雄らは金の矢を献上いたしまする」。

リン国の英雄らはダラ王子に向かって敬礼し、女性の親族はアマンにカタとトルコ石を献上し、アマン王女が終生つつがなくお暮らしになるよう、また王子ともども白髪になるまで長生きされるよう願った。

ダラ王子とアマン王女の結婚祝いは国をあげて13日にもわたってつづいた。

ケサル王はアタラモがすでに死んでいることを知った。ケサル王がギャ国に遠征した三ヶ月のあいだに病死したのである。

病に倒れたアタラモの上半身は燃え盛るかのように発熱し、下半身は凍ったかのように冷えきった。体内を風が吹き、痰が山のように押し寄せてくるので、枕を高くし、防がねばならなかった。食べられる食べ物も毒薬のように苦く、やわらかい衣も棘のように硬く、耳にいいことばも針のようにとげとげしく、昼夜を問わず落ち着くことができなかった。薬を飲めば飲むほど病はひどくなり、読経すればするほど魔物を招くことになった。

アタラモはもう先は長くないことを悟り、仕えている家来を寝床によび、後のことを託した。

「私が死んだときの枕辺のラマは現在の僧侶である必要はありません。彼は普陀経を唱えながら、心の中では馬や銀のことを考えているのです。彼は口先では死者の弔いについて述べながら、そのじつ空論のことをまったく理解していないのです。彼は本物だといえるでしょうか。あなたがたを(天界ではなく)黒い魔物の世界に導こうというのは、敵を前にして、矛と盾を同時に出すようなもの。友人をもてなすのに、宝物を山分けするようなものです。仇を前にして敵愾心を燃やすには、心の苦楽を統一しなくてはいけません。獅子のごとき大王がギャ国からお戻りになられたら、つぎのようなことばをつたえていただきたいのです」。

 

髪に飾る金銀は、夜空にきらめく星のよう。

それを取って大王に捧げたい。

首に飾る珊瑚と瑪瑙。

まるで草原に咲き誇る花のよう。

それを取って大王に捧げたい。

背中を飾る、金銀緞子の竜の紋様。

まるで空に架かる虹のよう。

それを取って大王に捧げたい。

頭上に載るのは、白い兜。

「自ら閉ざした暗黒」というのがその名前。

それを取って大王に捧げたい。

身体にまとうのは、白い鎧。

わきの下には三本の矢。

大王に用いてもらうもの。

 

こう歌い終わったあと、アタラモは息絶えた。四十九日後、アタラモの魂は生死の砂山に辿り着き、鬼卒によって閻魔王の面前に引き立てられた。閻魔王はアタラモを人目見るなり、ほかの人と違うことに気がついた。

「私はいくつか質問しなければならない。というのは、おまえが普通の女とは違うように思えるからだ。髪の毛は長く、身体の上半分を覆い隠すほどだが、顔の上半分は少女のようである。これは百人の女を制圧したということではないか。顔の下半分は青年のようである。これは百人の男を制圧したということではないか。その口は不浄で、血や肉のにおいがする。その手は不浄で、悪臭がぷんぷんと漂うようだ。上半身は黒い鳥の翼のよう、下半身は覆いかぶさる罪悪の黒影のよう。おまえはいったいどこから来たのだ? なんという名前か? どのグルに身を捧げたのか? 貧しい人々にどれだけの布施をしたのか? 主のいない水の上にどれだけの橋を建てたのか? 主のいない山の上にどれだけのタルチョを立てただろうか? 地獄に落ちたいま、どうして閻魔王に謁見しなければならないのか?

アタラモは閻魔王のことばを聞いて、空恐ろしくなった。自分の一生を思うに、東奔西走、どこへ行っても殺してばかりいた。どうやってそのことを閻魔王に説明しようか? それとも作り話をしようか?

「私は清浄なる仏国土の人間であります。名前はチュゾ。生前、グルには金の鞍を載せた駿馬を献上いたしました。彩絹で飾った象を献上いたしました。トルコ石や珊瑚のお布施をたっぷりといたしました。建てた橋、挿した旗(タルチョ)は数え切れぬほど。私はダーキニーの化身。若き頃は南ザンブ洲(現世界)の雄々しき大王の王妃。それゆえ、極楽世界へ行くべきなのです。閻魔王様、お願いします!」。

そう言い終わると、アタラモの右肩に忽然と白い小僧が現れた。小僧は閻魔王に敬礼し、語った。

「尊い力をもつ閻魔王さま、あなたは善悪をよくわきまえた法王でもあります。私はこの女とともに来た神なので、よく知っております。アタラモは女の英雄です。肉食のダーキニーです。ケサル王の王妃でした。おこなった善行は数限りなく、ここではなく、極楽世界へこそ行くべきなのです」。

白い小僧が言い終わると、アタラモの隣に坐った。このときアタラモの左肩から黒い小僧が現れ、閻魔王に言った。

「私はこのアタラモとともに来た魔物なので、彼女のことはよく知っております。アタラモは九頭魔の化身なのです。三歳から殺生をはじめ、殺した鳥や獣は数知れず、崖がその血で赤く染まったほど。殺した魚やかわうそは数知れず、大海が血で真っ赤に染まったほどです。アタラモはかつて金の帽子をかぶった尊いラマを殺したことがあります。地獄の苦痛を味わうのも無理からぬこと。アタラモはかつて権勢を誇る高官を殺したことがあります。厳しい懲罰を受けるのももっともなこと。アタラモはかつて馬に乗る英雄を殺したことがあります。戦いによって兵士に斬られるのも、ゆえあってのこと。アタラモはかつて髪の長い女性を殺したことがあります。人々があれこれと言い立てるのも当然のことでしょう。このような女の魂を送って悪行を見逃すなどということは、よもやできますまい」。

黒い小僧が言い終わると、アタラモの隣に坐った。閻魔王はふたりの小僧の話を聞きながら、白い小僧が言うことももっともだが、黒い小僧が言うことも、あながち否定することはできなかった。しかし彼らがなんと言おうが、鏡と秤を使えば、白黒がはっきりするのである。

閻魔王の鏡は直径900尺、円周は990尺もあり、その明るさは遠くを眺めるときは十五夜ほど、近くを見るときは山頂の太陽ほどもあった。鏡を覗き込むと、谷を見渡すようにはっきりと、その人の生前の行いすべてを見ることができた。アタラモは鏡に映るおのれの悪行の数々を見て、涙が止まらなくなった。

つぎに牛頭鬼が紫色の秤を持ってきた。秤の長さは18尺もあり、雷によって生まれた鉄を使って作った錘は象の死体ほどの大きさもある。閻魔王が18回にもわたって善行と悪行を比べたところ、すべて悪行のほうがまさっていた。アタラモは衝撃を受け、震えを感じた。

閻魔王はアタラモに向かって言い放った。

「アタラモよ、おまえが行った数々の殺生という悪行のために死という報いを受けたのである。等活地獄に五百年いることになるだろう。また悪い心を持ち、憤怒の気持ちを起こしたため、阿鼻地獄に九年いることになるだろう。また財を蓄え、(布施のための)散財を怠ったかどで、畜生地獄に九年いることになるだろう」。

そう閻魔王が言うと、九百人の鬼卒がやってきてアタラモを連れ出し、等活地獄に送った。ケサル王がリン国に戻ってきたとき、アタラモはすでに三年も地獄のなかで苦しんでいたのだ。

ケサル王はアタラモが逝去したことを知ったとき、アタラモは生前誉れ高き英雄であったので、天宮に行けたのではないかと考えた。しかし天宮を覗くと、そこに姿はなかった。さらに修羅界、畜生道、餓鬼道を見ても、探し当てることができなかった。そこで地獄を見ると、まぎれもなくアタラモはそこにいたのだった。

ケサル王はリン国に戻り、光明三昧に入り、十三天大法を修した。

それから神馬キャンゴ・ペルバ(rKyang rgod ’pher ba)に乗って地獄の入り口に着くと、雄叫びを三度あげた。

閻魔王はケサル王の雄叫びを聞くと、まわりの鬼卒に言った。

「空に虹が現れ、ウドゥンゲ花の雨が降り、四囲に香気が立ち昇る。こんな奇瑞、見たことがない。これはいったい、大救主、大丈夫、大修行者、大呪術師、いずれかの大物がやってきたにちがいない。だれが来たのか、すぐに確かめに行きなさい」。

鬼卒が門に出てみると、珊瑚のような紫色の肌、白いほら貝のような歯を持ち、白い兜をかぶり、絹の房をひらひらさせた男が立っていた。右には虎皮の矢立てを持ち、あたかも天空に向かって行くかのようだった。左には豹皮の弓立てを持ち、あたかも大地に向かうかのようだった。身にまとった白い鎧兜は星が輝くかのごとくであり、股の下の馬は朱砂で染めたかのようであった。鬼卒はケサル王に問うた。

「おまえはどこから来た悪人か? 服装から見るに、悪事のことごとくを尽くした輩にちがいない。私はおまえのために歌ってやろう」。

 

閻魔王の宮殿に、英雄が武力を用いる場所はない。

よき人物でも敵を倒すことはできない。

よきことばを有す者も、しゃべる余地はない。

勇者も逃げることはできない。

臆病者が訴えることもできない。

美女もその容姿を利用することができない。

われら鬼卒は九百名。

鉄柵は九千尺。

おまえら悪人を抱え込む。

見上げよ、上空の青空は虚空である。

おまえを助けに来る慈愛深い父などいない。

下を見よ、漆黒の闇が広がる。

おまえを助けに来る慈愛深い母などいない。

目の前に伸びるのはだれもいない道。

導くラマもいない。

その先に広がるのは茫々とした草野。

おまえを助けに来る兄弟はいない。

 

鬼卒が歌い終わる前に、ケサル王は怒りを抑えきれず、天空を三度見て、言った。

「私は亡魂ではなく、生きた者だ。命がまだ終わっていないこの地獄に来て、妻を救うべく閻魔王を探しているのだ。不幸なるアタラモは地獄に堕ちて三年、いますぐ、わが妻をここへ連れて来い」。

ケサル王は取り付く島のない鬼卒の様子を見ていっそう怒りを増し、宝剣を振り回すと、地獄に暴風雨がやってきて、雹さえも降った。鍋を打ち鳴らし、建物の鉄を細かく引きちぎってばらまくと、鬼卒たちはいっせいに逃げ出した。ケサル王はそのまま閻魔王殿に入ると、玉座に矢を放った。閻魔王は驚いてあわてて出てきた。

「私は文殊菩薩に委託を受けた閻魔王である。天地開闢はここに起こったのだ。菩薩は、悪人は地獄に堕ちねばならないと説かれた、ゆえにアタラモは五百年地獄で過ごさないと、解脱できない。もしそなたが救おうとしても、かなわぬことだ」。

ケサル王は閻魔王の決意が固く、救い出す手立てがないことを痛感し、パドマサンバヴァを探すことにした。

ケサル王は瞬く間に小仏洲蓮華無量宮に飛んだ。パドマサンバヴァに会うとケサル王はアタラモが地獄に堕ちたことを告げ、魂を弔ってもらえないかと頼んだ。

パドマサンバヴァはケサル王に言った。

「そなたは密教金剛乗呪法によって幻化無辺静寂憤怒道場を開かねばならない。それによって悪人をも弔い、アタラモも浄土へ行くことができるだろう」。

ケサル王はそれを聞くと即座に幻化無辺静寂憤怒道場を開設し、さまざまな密教経典を読経した。するとケサル王の眉間から黄色い日光が発され、千尊の仏像に変じ、パドマサンバヴァの右側に並んだ。またケサル王の喉からは赤い火の光が発され、大般若経十万頌千部に変じ、パドマサンバヴァの左側に並び、アタラモの口の罪障を清めた。ケサル王の胸からは白い光芒が発され、千座の白銀宝塔に変じ、パドマサンバヴァの前に並び、アタラモの心の罪障を清めた。

ケサル王は念じ終えると、つぎのように述べた。

 

冥府の地獄十八層。

私には清浄なる十八の場所が見える。

そこに十八の地獄が重ね写しになっているのか?

冥府の火は鉄や大地をも焼き尽くす。

私は一塊の金を見た。

火に焼かれた鉄や大地はあとかたもない。

黄色の渡れない冥界の河。

私はそれが八功徳をもつとみなす。

黄色の冥府の河はどこにある?

剣の林に雨が降る。

花の雨がしずやかに降る。

剣の雨はどこに降る?

鉄や水が沸騰する赤い銅の鍋。

私は蓮華盆に清水がたくわえられるのを見た。

冥界の盆はどこから来た?

そなたもこの閻魔殿に来るがいい。

私は幻化無辺静寂憤怒道場を開く。

蓮華大師の御心によって、

私ケサル王は法力を使い、アタラモを浄土へ至らしめよう。

 

ケサル王が歌い終わると、閻魔王は蓮華大師から秘法を教えてもらったことがわかった。

ケサル王は目を見開き、地獄のなかをのぞくと、アタラモが業火に焼かれ、泣き叫ぶさまが見えた。アタラモもケサル王に気づき、自分を助けに来たことがわかった。しかし苦痛ははなはだしく、一刻もはやく助けてくれるよう請願した。

ケサル王は心の中でつぶやいた。

 

高価な角のために殺された鹿、肉のために殺された牛や馬、麝香のために殺されたノロ、毛皮のために殺された狐、皮の紋様のために殺された虎や豹、戦争のために殺された兵士、私はすべての魂を送ってさしあげよう。わが妻アタラモもまた罪を償ったので、天界へ入るべきだろう」。

 

そう歌い終えると、アタラモをはじめとする18億の亡魂や生き物の魂が、数百の鳥が飛び立つように、浄土へ向かっていった。

 

 

 


善行を積んできたつもりだったが、妖魔の生まれであるケサル王の愛妃アタラモは、ケサル遠征中に病没し、地獄に落ちてしまう。閻魔王(gshin rje rgyal po)から生前の行いについて厳しい追及を受けてしまう。