コノハチョウとトーチジンジャー (ラオスにて)           Photo by Mikio Miyamoto 

擬態 

 自分の体とおなじ大きさの何かに擬態するというのは、どういう気分なのだろうか。たとえば、あなたが扉や街路樹、大型犬に擬態すると仮定してほしい。コノハチョウはそれくらいの無理な擬態をしているのだ。色や形だけでなく、葉脈までも入れるという念の入れようだ。
 しかしそれにしても、念を入れたのは神だろうか。この世界はそこまでこまかく神によってデザインされているのだろうか。それなら私たちの無駄な贅肉でさえ神のデザインなのだろうか。うたかたのようにあらわれては消える雑念もまた神のデザインによるのだろうか。それともキェルケゴールが言うように、私は(あなたも)神の書き間違いなのだろうか。
 この写真を私が好きなのは、コノハチョウがとまって蜜を吸っているトーチジンジャーの花が、造花のように見えるからだ。花びらはまるでプラスチックのようだけど、あやしいサーモン色の光沢を放ち、毒々しいのはここ(ラオス)が亜熱帯だからだろうか。
 コノハチョウは醜いように見えるけれど、羽根をあければ美しい瑠璃色の真実の身体があらわれる。本当の姿を見せれば異様に目立ち、危険を呼び寄せることになるのに、蝶はときどき見せたくてたまらなくなり、つい羽根を少しあけてしまう。
 そして凶暴で恐ろしい何かに襲われる。いや、本当に襲われるのだろうか。瑠璃色の姿を見せようが見せまいが、襲われるときは襲われるし、襲われないときには襲われないのではなかろうか。備えがあるから憂いがあるのではなかろうか。
 それによく見れば、醜い枯れ葉のような外見こそ美しい、と思えてくる。瑠璃色の真実の身体を秘めた枯れ葉の身体こそ神のデザインにほかならないように思えてくる。