2 歴史は繰り返す                    宮本神酒男

モン族、すなわちミャオ族(苗族)の歴史は、迫害と移住と離散の歴史であった。ユダヤ人の運命と似ていることから、モン族のディアスポラと呼ぶ人もいる。ユダヤ人のディアスポラは、狭義の意味ではバビロン捕囚後のBC586年頃とローマ帝国がパレスチナを完全制圧したAD70年頃に起きた離散現象を指すが、広義には、現在にいたるまでずっとつづいている民族の拡散のことである。

モン族のディアスポラは、5千年前にさかのぼる。はるか北方に住んでいたモン族の祖先は、漢族の祖先と中原で戦い、敗れると南下し、洞庭湖のあたりに定住した。その後度重なる戦いによって南方に押し出され、一部は現在のラオスやタイ、ベトナムなどまで移動した。これがインドシナのモン族である。中国のモン族の最大居住区となったのは、現在の貴州省だった。しかし明や清の時代には何度か反乱が起き、そのつど民族浄化と呼びたくなるような徹底的な弾圧を受けてしまう。子孫を根絶やしにするため、朝廷軍は女子供までも殺したという。このあたりのことは、あとでくわしく述べたい。

 

 歴史は繰り返す。ラオス・シエンクワーン県のジャール平原(数千の巨大な石壺が散らばる遺跡が有名。ジャールはjarで壺の意。世界遺産)に住むモン族がベトナム軍の激しい攻撃にさらされるのは、これがはじめてではなかった。500年前にも似たようなことがあったのだ。

 中国の「邱北県志」によると、明朝が成立した頃(1368年)、「蛮人(モン族)は貴州省から雲南省に移動し、一部は南進をつづけてラオスの域内に入った」という。15世紀にはインドシナ半島全体にモン族の居住地域が広がっていた。

 1479年、白象事件が起こる。当時、ベトナムのレ・タイン・トン(黎聖宗)はベトナム史上最強の国家を作ろうとしていた。レ・タイン・トンはベトナム南部の大国チャンパ国を平定したあと、ラーンサーン王国(現在のラオス)へと目を向けた。そんなおり、絶好の機会が到来した。

サイイナ・チャカパット王の時代(14411479)、ケーンターオの領主が国王に白象を献上した。そのことを聞いたベトナムの王レ・タイン・トンは「白象を借り受けて国民に見せたい」と申し出たのである。レ・タイン・トンの真の狙いは侵略の口実探しだった。予期したとおり神聖なる白象の貸し出しをラーンサーンの王は拒絶する。レ・タイン・トンは拒絶を受けて、数十万の兵をジャール平原(チャンニン)に送ったのだった。ジャール平原は凄惨なる殺戮の戦場となった。このときすさまじい数のラオ人が殺されたが、その多くがじつはモン族だったという。ベトナム軍はジャール平原を制圧したあと、ラーンサーン王国の都ルアンパバンへと侵攻した。

 おそらくこの白象事件以来、ジャール平原のモン族はベトナム人にたいして憎悪の情をいだいていたかもしれない。だからこそ20世紀になって、ホーチミン・トレイル(南ベトナムへの補給路)の確立を急ぐ北ベトナムに抗するため、米CIAがこの地方のモン族を特殊部隊として利用しようとしたとき、彼らは快く受諾したのである。しかしその結果、なんという皮肉なことか、500年前と同様ベトナムに完膚なきまでに叩きのめされることになってしまった。

 モン族の5千年の歴史は、こうした「戦い→敗北・虐殺→逃走・移動」の繰り返しだった。古代中国の中原で黄帝と戦って敗れた蚩尤(しゆう)の時代から、清代の3度のミャオ族(モン族)の決起と虐殺事件をへて、北ベトナムと戦って敗れ、ボートピープルとなった現代まで、連綿と苦難の連鎖はつづいてきているのだった。

 

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ミャオ族(モン)の村にいるとなつかしい気持ちになるのはなぜだろうか。それははるか太古の記憶のようなものだろうか。

民族のお正月である苗年は、ミャオ族の少女たちの一年に一度の銀色に輝く日だ。

ラオスのジャール平原の不思議な巨大石壺。モン族(ミャオ族)が来るはるか前にだれかが作った。