8 年表:ミャオ族(モン族)の反乱と迫害の歴史            宮本神酒男 

 黄帝部落と戦って敗れた九黎は黄河を渡って南へ移動し、長江の中下流域あたりに定着した。彼らは三苗と呼ばれた。三苗の主民族であるミャオ族は、他民族と比べても群を抜いて長距離を移動し、拡散した。そして定住した先々でしばしば反乱を起こし、時の権力(多くは漢族)によって鎮圧されている。

<BC2500年? 黄帝と蚩尤のタク鹿の戦い> 
 黄帝部落と戦って蚩尤(しゆう)は敗れる。蚩尤はミャオ族の祖先ではないが、蚩尤のもとで戦っていた九黎部落からモン族(ミャオ族)の祖先である三苗が生まれたと考えられる。ミャオ族がつねに為政者から弾圧を受けてきたということは、中国を二分するほどの力があったからにほかならない。*タク鹿のタクは、琢の王ヘンをサンズイに置き換える

*?−紀元前223年 楚国の王室は華夏族(漢族)というのが定説のようだが、少なくとも領民の多くはミャオ族だった。貴族であった屈原(紀元前343−278)も華夏族とされるが、ミャオ族かも。

<5世紀 五渓蛮の乱> 
 南朝の劉宋時代(420479)、五渓蛮(武陵蛮)が乱を起こした。朝廷は沈慶之(386465)を派遣して平定させたという。五渓蛮というのはミャオ族を含む少数民族だったが、実質上大半がミャオ族だった。この時代、大量のミャオ族が都の建康へ移住し、同時に一部は現在の湖南省や貴州省へと移動した。

*400年〜900年 モン王国 
 キース・クインシーの『モン ある人々の歴史』によると、400年から900年頃、河南、湖北、湖南、広西にまたがる細長い地域は実質上モン王国といえた。

<1043年〜1048年 1087年〜1102年 楊成台ら湖南ミャオ族の反乱> 
 1023年頃から湖南で反乱が頻発していたが、慶暦三年(1043年)、桂陽(湖南)で大規模な反乱が発生した。宋朝廷から派遣された将軍楊ティエン(ティエンは田偏に攻の右部)はミャオ族を中心とした山岳民族を深追いしすぎ、山中で攻撃を受け、軍を壊滅状態に陥らせてしまう。この屈辱に怒り狂った楊ティエンは地元民の皆殺しを命じた。しかし猛烈な反撃を受け、部下を失い、のちに彼は降格処分を受けることになった。*処刑された反乱軍の首領熊可清は熊姓からしてミャオ族だろう。
 宋の哲宗の元祐年間(1086−1093)には楊成台率いる5、6千人の反乱軍が決起したが、唐義問率いる宋朝廷軍によって鎮圧されてしまった。このときの死者は数千人に上った。この時期の反乱の中心をなすのはミャオ族やヤオ族だった。

<1396年 清水江ミャオ族の反乱> 
 洪武29年(1396年)、金牌黄率いる清水江ミャオ族が反乱を起こすも鎮圧され、500人ほどが現在の遼寧省開原市へ三万衛として移されたという。清水江といえば現在もミャオ族の中心地である。このときの弾圧から逃れ、雲南や四川、さらにはその先へ達した者もいただろう。

<1449年 三穂のミャオ族の反乱> 
 明代になると改土帰流(土司を廃し、中央からの流官を置くことで中央支配を強めること)が進んだ。また衛兵制を敷くことによって、農民の軍費負担が増え、それに対する反発から反乱が頻発するようになった。もっとも大きかったもののひとつが正統14年(1449年)に起きた三穂(現在の貴州省三穂県)のミャオ族の反乱だった。鎮圧されたミャオ族の多くは四方に逃げ、一部は東南アジアにまで達した。

<1479年 ラオス・ジャール平原の白象事件> 
 ベトナムの国王レ・タイン・トン(黎聖宗)の軍がジャール平原に攻めてきたとき、大量のラオス人が虐殺された。その大半がモン族(ミャオ族)だったといわれる。(後述の竹内氏によれば、モン族のラオスへの最初の流入はロ・パ・シ率いるロ氏族がベトナムから移動した1820年頃だという)

<1735年 台拱ミャオ族の反乱> 
 清朝の康熙帝の時代になると、さらに改土帰流が強化され、ミャオ族の反乱が各地で勃発するようになった。雍正13年(1735年)から翌乾隆初年にかけての台拱(現在の貴州省台江県。清水江に面している)のミャオ族の反乱は大規模で、鎮圧も苛烈を極めた。1224か所が壊され、1万7千人以上の死者が出たとされる。

<1795年〜1806年 乾隆嘉慶のミャオ族の反乱> 
 乾隆60年(1795年)、貴州松桃の石柳鄭、湖南永綏の石三保、湖南鳳凰の呉半生呉隴登、湖南乾州の呉八月らを首領とし、各地で一斉に蜂起した。とくに嘉慶4年(1799年)と嘉慶11年(1806年)には大量の血が流れたという。

*この時期までは、ベトナムで虐殺事件の類は起きていないが、1802年、フエで正式に即位した嘉隆(ジャロン)帝グエン・フックアイン(阮福映)は、モン族ら山岳民族の住む地域に流官制度(土司の支配)を導入した。その結果、モン族は過酷な生活を強いられることになった。
 竹内正右氏によると(『モンの悲劇』1999)によると、ベトナムへの最初のモン族流入は1800年頃であり、そのあと一部がラオスに移動している。そして1860年頃、2回目の流入の頂点を迎えている。太平天国直後には、呉鯤に率いられた敗残兵や回教徒とともに、モン族の群れが雲南からベトナムのディエンビエンフーに流入したという。


<1852年〜1873年 咸同年間のミャオ族の反乱> 
 太平天国の乱(1850〜1864年頃)に呼応するように、張秀眉率いるミャオ族の農民集団が貴州の台拱で反乱を起こした。ほかの地域でもミャオ族の反乱が起き、最初の数年間は勝利の輪が広がっていった。「よい漢族は殺さない」と宣言したことにより、漢族の農民からも受け入れられた。しかし1864年に太平天国軍が失速すると、清政府軍は数万人の軍隊を送って猛攻に出た。ミャオ族の軍は1871年に凱里を失い、張秀眉は雷公山にたてこもった。しかし雷公山も追われ、張秀眉は幹部らとともについに降伏した。この20年間の間に7、80万人ものミャオ族が殺されたという。

 咸豊十年(1860年)、貴州威寧で陶新春陶三春兄弟が催した「降仙」集会に端を発した陶新春の反乱もそのうちの一つだった。ミャオ族を中心としてイ族やプイ族が加わり、総勢1万4千人以上に膨れ上がった。1863年には、太平天国と合流した。しかし1866年、清朝は雲南、貴州、四川から兵力を調達して総力戦を挑んできた。これは双方に大量の死者を出すことになってしまった。
*その他柳天成の反乱(1855‐1870年)、潘名傑の反乱(1855−1868年)、岩大五の反乱(1863−1871年)など。

<1917年〜1921年 ベトナムのパッチャイの反乱> 
 フランス支配下(1887〜1945)のベトナム・ディエンビエンフーで、雲南生まれのパッチャイ率いるモン族軍が新税を導入したフランスにたいして反旗を翻した。パッチャイはラオスのシエンクワーン(ジャール平原があるところ)に逃げたあとも「ディエンビエンフーに王国を!」というスローガンを掲げ、モン族の団結をはかった。フランス軍は弾圧を強め、パッチャイはラオスのルアンパバンで暗殺された。

<1943年 五・一三海南島ミャオ族虐殺事件> 
 1943年、、血なまぐさい虐殺事件が国民党の軍隊によって引き起こされた。五指山地区を管轄した司令官、王毅は圧政を敷き、厳しく税を取り立てた。
 耐えきれなくなった中平村のミャオ族は集会を開き、国民党軍に抵抗していく決意を固めた。しかし謀反の動きを察知した王毅は策略を用いて制圧することにした。
 山の上に住むミャオ族を誘い出すため、彼は「われら政府軍の草ぶきの家が壊れたので、若者はみな草をもって下まで降りてきて修復を手伝ってほしい」と中平村に伝えたのである。実際、若い男だけでなく、女性も含めた幅広い年齢層の村人がやってきた。まさかそこに自分たちの大量虐殺の運命が待っているとは知らずに。この日、1800人以上のミャオ族が殺された。「ミャオ族の胆は万病に効く」と信じた王毅軍の兵士たちは遺体から肝臓を取り、85本の竹竿に刺したという。
*別の資料によれば白沙県と陵水県あわせて4500人の死者が出た。*海南島ミャオ族は明代に広西から強制移住させられたミャオ族の子孫。ただし厳密にはヤオ族に分類されるべきだろう。

[番外編] 1961年、辻政信氏、ラオスのジャール平原で消息をたつ。太平洋戦争時は南方戦線の指揮にあたり、戦略家として名を馳せ、戦後はバンコクからj重慶へ潜行し『潜行三千里』を著した参議院議員の辻氏がおそらくこのモン族の地で殺された。 

<1975年〜1978年 ビア山の攻防> 
 1975年、サイゴン陥落のあと、ラオス・シエンクワーン県ののモン族の中心地ロンチェンもまた激しい攻撃にさらされていた。何万人かのモン族は脱出に成功した。しかしモン族の聖山、ビア山(2820m)でさらに修羅場を迎えることになる。米CIAの秘密訓練を受けていたモン族特殊攻撃部隊はビア山に集結し、北ベトナムとの最後の決戦に挑んだが、その結果5万人以上の犠牲者を出すことになってしまった。

沈従文(1902−1988)は祖母がミャオ族のクォーター(父は漢族、母方は土家族の血も引く)だが、湖南省鳳凰県出身であり、ミャオ族の風土をよく表現した作家。政治にまきこまれるのを嫌ったのか、晩年はディレッタントとして生きた。1949年以前は40冊以上の小説や散文を著したが、以降は文物研究のエッセイしか発表していない。代表作『辺城』。 

ヴァン・パオ(1929−2011)はラオスのシエンクワーン県に生まれ、独立を求めて戦い、難民として米国に渡ってからは在米モン族の代表として共同体をまとめてきた。CIA秘密戦争の主人公ともいうべき数奇な人生を送った。


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沈従文は実際はクォーターだがミャオ族の作家とみなされることが多い。ミャオ族の社会を巧みに描く。

沈従文は晩年ディレッタントとして活躍。趣味がよく鑑識眼が鋭い人だ。