取り残された弟子たちが、奇跡的に出現した四つのストゥーパ(仏塔)の前に跪き、「誰が輪廻の門を閉じ、誰が救済への梯子を架けるのか」と嘆き悲しむ声を上げると、至高の天界アカニシュタ(Akanishtha)で、シェンラブはその声を耳にした。彼は天界において、生まれる前のシェパ(Shes-pa)と呼ばれる未来のボン教の師に対し、真理を説き明かしている最中だった。
世界の法則によれば、この劫(こう)における第三の救済者が現れるのは、諸条件の全般的な悪化によって人間の寿命が10年にまで縮まった時のみである。しかし、その間に教えが途絶えてしまわないよう、かつてアスラ(阿修羅)の師であったムチョ・デムドゥク(Mu-cho ldem-drug)が、シェンラプの代理として教えを説くために地上へと派遣された。
シェンラブの約束はオルモ・ルンリン(Ol-mo lung-rings)の地の人々に大きな喜びをもたらした。そして定められた時が来ると、ムチョ・デムドゥクが地上に降り立ち、3年間そこに留まった。彼は最初の年にカルナク・タサル(dKar-nag
bkra-gsal)の海辺で、2年目にはティモン・ギャルシェ(khri-smon
rgyal-bzhad)の宮殿で、そして3年目にはかつてシェンラブが地上での拠点としていたパルポ・ソギェ(Phar-po so-brgyad)の宮殿で説法を行った。「師の言葉を固く守り、絶えず教えを説き、それを余すところなく完全に書き記した」と文献は伝えている。
この記録は、ボン教が聖典を編纂したことに関する最初の公式な報告として、極めて重要な意義を持っている。ムチョは、ボン教の教えの宣教者として諸国に広めるべく、多数の翻訳者からなる集団を組織した。
3人のロツァワ(翻訳官)は西方のタジクの地、すなわちイスラム教徒の帝国(とりわけその東部辺境地域)へと向かった。一方、それぞれ1人ずつが、中国、インド、ケサル王が統治したクロム(Khrom)の地(トルキスタンと同一視されることもある)、チベット、チベットと中国の間に位置するミニャクとスムパの二国、そして最後にシェンラブが教えを説いた地であるシャンシュンへと赴いた。
この興味深い情報は、もちろん現行の形では伝説の域を出ないものと見なすべきだが、その根底にはおそらく事実が含まれている。周知の通り、諸要素が融合したボン教やそれに関連する宗教が、シャンシュンおよびその近隣の西部地域で隆盛を極めていたことは疑いようのない事実だ。ジュゼッペ・トゥッチは、カイラース地方やグゲ(Guge)において、ボン教徒の聖なる遺構を数多く発見した。とりわけサトレジ川上流域では、ボン教の典礼文書において、シェンラプの生誕地かつ居住地として称揚されている「銀の宮殿(Silver Palace)」を見出している。[この銀の宮殿こそキュンルン銀城である]
ボン教は、おそらく初期の段階からインドや中国との境界地域にも信者を擁していたと考えられるが、東トルキスタンに信者が存在したことは確実だ。同地では、ボン教徒の存在を裏付ける文献が砂の中から発見されている。
ジョセフ・ F・ロックが明らかにした雲南地方のナシ族(Na-khi)やモソ族(Mo-so)の宗教に関する事実は、ボン教の布教活動に関する報告が事実に基づいていることを明確に示している。モソ族の聖典には、チベットのボン教の文献に文学的に明確に依拠している様子が見て取れる。[ナヒ族(中国にヒの音がないため、ナシ族と称する)とモソ族はほぼ同じ人々のことを言っている。現在もラフ族は自らをムッソーと呼ぶが、これはモソから来ているだろう。現在盧沽湖周辺に住むモソ(自称ナムズ)と呼ばれる人たちは通い婚が残る女系社会で知られていて、彼らの地域は女人国と称される。なおナシ族のトンバ教の祭司トンバはブンブ、ブブなどと呼ばれるが、これはボンポ(ボン教徒)から来ているだろう]