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シェンラブにまつわる伝説を検討した今、我々はボン教徒(Bon-po)のその後の歴史について、わずかながら存在する歴史的証拠をまとめ上げなければならない。現時点ではその実態は全く不明確であり、前述の『テンジュン(bsTang-'byung)』のような文献が参照可能になって初めて、より多くのことが明らかになった。
仏教史書『王統記(rGyal-rabs)』に記されたボン教関連の記述によれば、国家の統合後、体系化されたボン教もまた人為的に復興される必要があったことが示唆されている。同書は、中央チベットにおけるボン教の復興を、ナチェン・リチョク(rNa-chen li-phyogs)という名のボン教僧の事績と結びつけて伝えている。彼は東チベットのカム地方からウー・ツァン(Dbus gTsang)地方へ赴き、弾圧の時代に岩陰などに隠されていた文献を回収するとともに、数多くの僧院を建立したとされている(そのうち4つの僧院については具体的な名称が挙げられている)。
仏教様式に倣ったこうした僧院の建設は、ボン教の歴史における一つの革新だった。なぜならすでに述べたように、本来のボン教には定住型の僧院が存在しなかったからである。
しかし、ナチェンによるこの最初の僧院建設を機に、ボン教をラマ教[チベット仏教]へと次第に近づけていくような展開が始まった。シャンシュンに由来する本来の宗教的基盤に加え、新たに導入された教えが次々と取り入れられるようになり、ボン教の僧侶たちはやがて、仏教が提供しうるあらゆるものを信徒に提供できる立場へと至ったのである。
こうしてボン教は、仏教教団に倣った規律に従って生活する僧侶を擁する僧院を持つようになった。彼らは哲学、神秘主義、新しい様式の呪術、宗教的祭礼、そして聖なる品々を掲げて練り歩く行列といった活動に従事した。
しかし、これらすべては仏教に対する敵対的な雰囲気の中で展開されたものだった。中世のサタニスト(悪魔崇拝者)が聖体を冒涜したのと同様に、ボン教徒もまた、自らの聖なる品々を右回り(順方向)ではなく左回り(逆方向)に回った。例えば、彼らの聖なるシンボルであるスワスティカ(卍)の先端は、ラマ教[チベット仏教]の場合とは異なり、右ではなく左へと回る形をとっていた。ボン教は異端として固定化し、その本質は多分に矛盾と否定のうちに存するものとなっていた。