仏教徒の著述家による記録によれば、チベットの中世においてボン教徒は宗教生活の中で大きな役割を果たしていたが、そこに新たな推進力をもたらすことはなかった。『ニャン・チュン(Myang-chung)』という文献には、ニャン地方における改革以前の宗教的教えの様子が記されている。そこではボン教のいくつかの僧院や、著名な説法者1、2名の名が挙げられている。
ある聖者について、文献では次のように述べられている。「彼は虹の体を獲得した。それによって彼は、川の源流にある氷河に触れることさえできたのである。なぜなら、聖者である彼は、ボン教の最高神であるクントゥ・サンポ(サマンタバドラ)の『ア』、すなわち『白い「ア」の乗り物』で満たされていたからである」。15世紀に至るまで、すなわちボン教と内面的に著しい類似点を持つ旧体の「紅帽派」が優勢を誇っていた時代には、聖地の所有権や、裕福な在家信者との親密な関係をめぐって、両教団の僧侶たちの間で激しい競争が繰り広げられていたに違いない。
この点において特に示唆に富んでいるのは、聖山カイラーサの領有をめぐって、仏教徒のミラレパ(後に詳述するカギュ派の僧)と、ボン教の僧ナロ・ボンチュンおよび魔力を持つ妹との間で行われた魔術的闘争である。
カイラーサ山周辺や聖なる湖であるマナサロワール湖・ラクシャスタール湖の地域が、かつてボン教(ボンポ)の著名な中心地であり、その信奉者たちによればシェンラブの生涯における重要な出来事がすべてそこで繰り広げられたことは、すでに述べた通りだ。したがって仏教徒であるミラレパがこのボン教の聖域を仏教のものと主張したことは極めて重大な出来事だった。とりわけこの地は、インドのシヴァ神崇拝者たちからも崇敬を集める場所であっただけに、なおさらその重要性は際立っていた。
これら重要な拠点の支配権をめぐる争いは、二人のライバルによる魔術対決を描いた『ミラレパの十万歌』などの伝説に反映されている。その対決の結果、ミラレパは対戦相手を完全に打ち負かし、その名高い山の主となった。
もっとも、ボン教側の資料によれば、その勝負は彼らの代表者が制したことになっている。いずれにせよ、ミラとナロ・ボンチュンとの対決は、ボン教徒が自らの最も神聖な聖域から完全に姿を消すことになる事態の端緒となった。『教義水晶体系』には、ボン教の「公会議」のような集まりに関する、孤立した記述ではあるものの興味深い記録が伝えられている。
チベット中世の幕開けを告げる出来事であったと思われるこの宗教会議は、著名なサキャ僧院の西方にあるマンカル(Mang-mkhar)で開催された。伝えられるところによれば、呪術的定型句からなる決定的な聖典(正典)を定めるべく、西方諸地域(タジク)、インド、中国、そしてチベット各地からボン教の僧侶たちがこの地に集まったとされている。