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15世紀にツォンカパによって開かれた「黄帽派(ゲルク派)」がチベットにおける精神的・世俗的な支配勢力へと次第に発展していくにつれ、ボン教徒は活動をますます制限されるようになり、ついには激しい迫害にさらされることとなった。
17世紀、宗教が正統な国教として公認されようとする試みが再びなされた。その舞台となったのは、今日でもボン教の有力な拠点が残る、チベット東部の小王国だった。そこはヤルン(Ya-lung)川上流域に位置するいわゆる「ホル諸国」の一つ、ベリ(Be-ri)である。同地では仏教に対する弾圧が開始され、紅帽派(ニンマ派)であれ黄帽派(ゲルク派)であれ、あらゆる仏教の僧侶が分け隔てなく投獄された。
ボン教を復興させようとするこの時代錯誤な試みは、長くは続かなかった。当時、ツォンカパを祖とする「ゲルク派(黄帽派)」の主導下でチベットを政教一致の国家へと完成させつつあった「偉大なるダライラマ」ダライラマ五世にとって、ベリで一時的に優位に立っていた異端者たちを排除することは、さほど困難なことではなかった。ダライラマの世俗的権力を代行するモンゴルの皇子[チンギス・ハーンの血を引くオグル]グシ・ハーンは、軍を率いてベリへ進軍し、その軍勢を撃破して、国王を投獄した。
仏教の僧侶たちは全員解放されたが、ボン教徒にとっては長い迫害の時代が始まった。この迫害はラサの中央政府によって行われただけでなく、満州王朝(清朝)下の植民地政策の一環としてチベットの宗教的対立に介入する必要性を感じていた中国人によっても行われた。
中国は正統派の「黄教(ゲルク派)」の側に全面的に立ち、チベットへの西進の圧力を強める中国に対し、チベット民族の独立を掲げる勢力となっていたボン教徒を弾圧した。こうした動きの帰結として、乾隆帝の時代(1735ー95)には、金川(きんせん)沿いの反乱地域が中国によって平定されるに至った。
その結果、聖なる遺物を擁する数多くのボン教寺院が破壊された。その中には1775年に中国軍の襲撃を受け、事実上完全に破壊された有名な(四川省金川の)「ユンドゥン・ラディン(gYung-drung lha-sding)」寺も含まれていた。しかし皇帝の命によりその後再建され、「広法寺(Kuang fa-sze)、教えを広める寺)」という中国名を冠して、ゲルク派(黄帽派)の寺院として引き渡された。
著名な(ドイツ人)旅行家アルベルト・ターフェルは1907年にこの僧院を訪れ、その後の著書に次のように記した。
「満洲人の将校の命により、古い僧院にあったボン教の壁画は白漆喰で塗りつぶされ、ボン教の像や経典はドゥ・カン(འདུ་ཁང)すなわち大殿の建物の基礎の下に埋められた。そして床に埋め込まれた左向きの卍(まんじ)やその他のシンボルだけが満洲人によるこの場所の強制的な改宗を今に伝えていた」