虚ろの地球 D・スタンディッシュ 

1 地球空洞説の科学 

 1691年、エドモンド・ハレーは地球が空洞であること、ないしはそれに近いことを提唱した論文を読み上げるべく、ロンドン王室協会の前にやってきた。この年だけで三度目の遅刻だった。ニュートンの金字塔的著書『自然哲学の数学的諸原理(プリンキピア)』(ハレーは1687年、この書の刊行に尽力した)に書かれた原理をもとにした精巧に作り上げた仮説のなかで、地球の表面の下に固形の三層があること、北極と南極を結ぶ軸のまわりを個別に回っていること、ロシアの讃嘆すべき入れ子の人形、マトルーシュカのように大から小へと入れ子になっていることを示した。彼はさらに地球内部に、太陽光そのもののような光に支えられた生命の存在もありうることを示唆した。

 地球内部に関する新しい考え方がここには記されていた。それまでのあらゆる考え方とは質が違っていた。陰鬱に流行した恐ろしい、おぞましい死の瞑想ではなかった。永遠の報いやもろくてかよわい魂の罰といった呪縛ではなかった。神話や宗教、形而上学ではなく、科学だった。ともかく、まじめな試みではあった。

 なぜ彼はこのような奇妙な考えを思いついたのだろうか。

 科学的な好奇心から来たものではあった、たしかに。しかし人間関係のなかから生まれた好奇心だった。

 今日、エドモンド・ハレーといえば1682年の彗星のことで知られる。彼は彗星が1758年に戻ってくるだろうと予言したのである。17世紀後半まで彗星のことはほとんどわかっておらず、災いの前触れとしてひどく恐れられていた。つまり異なる世界の秩序ある天界からやってきた無政府状態の警告と受け取られたのである。その動きがまたおおいなる謎だった。1680年、彗星は何週間も夜空を切り裂く光の道を作っていた。あたかも太陽と衝突する破滅の地点へ突き進んでいるかのようだった。つぎの年、もうひとつの彗星が逆方向に、想像もできないどこかへ向かって放物線を描いて太陽系を突き抜けようとしていた。これらはふたつの彗星でなく、ひとつだと、すなわち途方もなく長い楕円形の軌道をとる彗星であるとハレーは断じた。このことから死後、彗星はハレーにちなんで名づけられた。74年から79年のインターバルがあるので(ときおり木星と土星が強く引き合うことによって微妙にタイミングがずれる)紀元前12年のアグリッパの死のときや451年のアッティラのシャロンでの敗北、1066年のノルマン人のイングランド征服(バイユーのタペストリーに空に現れた火を見て人々が恐怖におびえる様子が描かれている)などにこれらは目撃されたのである。結局、これらはなにかの前兆ということになった。ベツレヘムの星は彗星、おそらくハレー彗星だろうと繰り返し言われることになった。

 ニュートンの『プリンキピア』に与えた影響だけでもハレーは科学史において重要な存在だといえる。この書にいたる一連の思考はハレーが提起した惑星の軌道に関する論議が引き金となって生み出されたものだった。ハレーはニュートンが執筆していた三年間、背中を押しただけでなく、編集者兼刊行人として、注意深く文章を読み、正した。出版された『プリンキピア』の奥付には王室協会の名が記されていたが、印刷業者に払われた費用はハレーのポケットから出ていた。全ての段階において、彼が主導していた。

 当時、ハレーの地球空洞論はニュートンの革新的な考え方から導き出された最初の科学的理論のように思われた。のちにそれはとっぴなアイデアとみなされることになるが。

 生涯を通じてハレーの好奇心は際限がなく、科学的な研究を追いつづけた。1678年、22歳のときに王室協会の会員にえらばれ、二年以上の間、さまざまなテーマの論文を発表した。『独創的な研究』のなかでリサ・ジャーディンは「王室協会の年報はハレーの進取的な論文であふれていた」と書いている。「貿易風の地球規模のパターンから潜水鍾の仕組みや晴雨計の水銀の上下、羅針盤のバリエーション、阿片摂取の効能などテーマはさまざまだった」。彼は阿片を試み、それを好きになっていた。「眠るかわりに」と彼は1690年1月の論文に書いている。「それをなんとか調達する。考え事をしてなかなか眠れないということはなく、どんな姿勢で横になっても、ゆったりと完全にリラックスして、夜通し目覚めたままでいられる」

 このような多方面にわたる好奇心は、1660年に設立された王室協会の理想そのものだった。会員のひとりヘンリー・オルデンバーグは協会のことを「創意工夫に富み、知識のある人々の集合体。観察をし、実験をすることによって、自然についての考察を進め、それを活用し、実践しようと企てている」と描いている。

 会員にはアイザック・ニュートンやロバート・フック、ロバート・ボイル、クリストファー・レンらが含まれていた。彼らは新しい機械を作製するいわば棟梁だった。ともに、あるいは別々に、勢いよく動く合理的な装置、すなわち「啓蒙」の歯車や車輪を形作っていた。夢のようなロマンティシズム、すなわち魔術、錬金術、占星術、それに宗教などは土に埋められ、ひとつひとつ、新しい、機械でできた輝ける生き物に取って代わられたのである。それは見たことのない新しい宇宙だった。

 「啓蒙」の最初の兆しは17世紀のはじめに見られた。それは科学革命として知られるようになる活気ある時期である。フランシス・ベーコンはアリストテレス主義をひっくり返し、古代研究でなくファーストハンドの調査、つまり科学的方法を基礎とすることによってこれら古いものを駆逐した。これにはハレーの時代に急テンポで進んでいたテクノロジー革命が付随していた。オランダの眼鏡レンズ製作者ハンス・リッパーシェイは1608年10月にハーグでテレスコープの特許申請をはじめて提出している。それから一年とたたないうちに、自身が製作したものを夜空に向けている。彼はすぐに月の山や太陽の黒点を観察し、木星の四つの衛星を発見し、コペルニクスが唱えた太陽中心説を確認している。アイザック・ニュートン卿は1671年に自身のデザインによる反射望遠鏡を王室協会に示すことによって、はじめて注目される存在になった。またその頃、ロバート・フックは自身が作った複合顕微鏡を真逆の方向に向け、それまで見えなかった世界をのぞくことができるようになった。1665年に発行された、自身の挿絵を入れた初期のコーヒーブレイク本『ミクログラフィア』に鼓舞されて、サミュエル・ピープスは望遠鏡を買い、オランダの商人アント二・ファン・レーウェンフックはそれに勇気づけられて自分で研磨して作ったレンズを使って顕微鏡を製作した。ファン・レーウェンフックは普通の水滴の中に発見した風変わりな生き物、すなわち「信じがたいほどたくさんの水の中の小さな生き物」の絵を描き、王室協会に送り始めた。

(つづく)