心風景 inner landscape 6    宮本神酒男


ヤムドク湖(ヤムドク・ユムツォ、あるいはパルティ湖) → 地図 

 私はときおりこの写真を取り出してはうっとりと眺めいる。はじめてカムパ・ラ峠(4794m)からヤムドク・ユムツォ湖を見たときの息を飲むような美しさが忘れられないのだ。パステルカラーの絵具のパレットをひっくり返したような風景だな、とそのときは思ったが、写真を見ると、ユ(トルコ石)ムツォ(湖)の名の通り、ターコイズブルーの翠湖である。

 この湖は代表的な寄魂湖(bla mtsho)だという。寄魂(bla gnas ラネー)という概念はチベット人でないわれわれには非常にわかりにくい。われわれの魂(=生命力)は特定の木(ラ・シン)や動物(ラ・セムチャン)と結びついているという。どの木や動物がラネーかわからないことも多く、占星術師にたずねてはじめて知ることも珍しくない。これは人の弱点にもなりえる。ニンマ派のンガクパ(在家修行者)や黒ボンの魔術師がラネーを探し出し、われわれに魔術をかけてしまうこともありえるからだ。

 英雄ケサル王は、ジャン国の王サタムを倒すために、寄魂の動物である熊を7頭殺している。ホル王を倒すときには寄魂の魚を殺した。

 ヤムドク・ユムツォ湖はチベット人全体のラネー(寄魂)と解される。湖が干上がるときは、チベットが滅ぶときなのである。この美しい湖面を見るかぎり、チベットは安泰ということになってしまいそうだが……。

 130年以上前にこの湖を訪れたサラット・チャンドラ・ダスによると、チベット全体では鳥葬が一般的だが、ここでは遺体を湖に投げ入れる習慣があった。湖にはたくさんのル(ナーガ)が棲んでいて、彼らは天界への鍵を持っているという。湖底深くに水晶の宮殿があり、その竜王に仕えれば、天界へ行く機会が得られるらしい。まるでおとぎ話のようだが、実際にたくさんの遺体が投げ入れられたのなら、湖の底は竜宮どころか、死体だらけだったのではなかろうか。

 ヤムドク・ユムツォ湖は、すこしばかりくやしい気持ちとともに思い出される。このとき私は湖に半島のように突き出たところにあるサムディンの尼寺を訪ねたいと頑強に主張したが、ドライバーに拒絶されてしまったのである。(契約したコースからはずれてしまうし、天気が悪くて道がぬかるんでいた)

 尼寺にはサムディン・ドルジェ・パクモ(ヴァジュラ・ヴァーラヒー。金剛ブタ女という意味)という女性としては最高位の転生ラマがいた。いつか訪れる機会もあるだろうと考えていたのだが、その日はいまのところやってきていない。

 もしサムディンに行くことができたら、ぜひ有名なヤムドク犬に会ってみたい。ヤムドク犬は体が大きく、獰猛なチベット犬のなかでも格別気が荒いという。チベットのいたるところで獰猛な牧羊犬を見てきたが、そのなかでも獰猛さにおいてチャンピオン・クラスというのだから、よっぽどの荒くれ犬なのだろう。そういったことを書いているのは上述のサラット・チャンドラ・ダスで、130年くらい前の情報である。もうとっくの昔に中国政府によって駆除されてしまっているかもしれない。

*サラット・チャンドラ・ダスは河口慧海と親交があったことで知られる。チベットに入る前、このチベット語の大家に助けられて慧海はチベット語を学んだ。


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