心風景 landscapes within  52  宮本神酒男 
前世の最期の記憶 (チベット・チャンタン高原) 



 それは夢に過ぎなかったかもしれない。しかし夢にしては具体的で、リアリティがあり、記憶以上によく記憶されているような気がしている。あるいは前世の記憶という夢を見たのだろうか。

 ランクルに乗って西チベットとチャンタン高原をめぐる旅はすでに一か月以上に及び、十月に入って寒さも厳しさを増してきていた。そんなおり、車が道の泥濘(ぬかるみ)にスタックしてしまった。このあたりはまさにノーマンズランドで、近くに集落はなく、いざ助けを求めようにも、その手段はなかった。海抜はおよそ4500メートルあり、このまま車が動かなければ、冷凍庫に入れられた肉のように朝にはカチンカチンに凍っているかもしれない。

 私とI氏がまず始めたのは、石探しだった。ゴルフボール大の石ころや野球のボール大の石ころ、あるいは単行本くらいの大きめの平たい石まで、とにかくタイヤの下に敷ける固形物が必要だった。まわりは砂か泥しかなく、五十メートルから百メートルくらい離れたところから石を運ばなければならなかった。石板がかたまっていると、人工的なもの(つまり古墳)に思えてならなかった。西チベットではスレートでできた丘を見つけたことがあった。こういうのは人工物に思えてしかたなかったが、人工物のはずがなかった。

 石を集めるうちに手がかじかんできて、肌ががさがさになり、あかぎれから血がにじみ出てきた。こうして苦労の末、一時間でなんとか泥濘から脱出することができた。別の旅で、真冬のチベットからネパールへ移動する途中、夜遅く、車のタイヤが雪の轍にはまったことがあったが、それよりはマシだったかもしれない。

 車が動き出してしばらくして、ウトウトしているときに、この写真の場所にさしかかった。このとき突然、前世の記憶がよみがえってきた。私はあわてて動いている車の中から一枚だけ写真を撮った。そのまままたウトウトして、見始めた夢のつづきを見たのだろう。

 夢の中で、私は三十代くらいのチベット人の僧侶だった。チベットの動乱が始まり、戦火をを避けて、アムド地方の実家に戻る途中だった。ここで体調を崩し、小さな山の形をした岩のかたわらの窪みに体を横たえた。私はシガツェの近くの自分がいたお寺のことを考えていた。逃げないで、そのまま僧院生活をつづければよかった。しかし弱気になってはいけなかった。しばらく休んで、体の調子がよくなったら、また歩きはじめよう。食料のツァンパ(麦焦がし)も十分にある。頑張って、両親や兄弟とも再会したい。還俗して家庭を築くのもいいかもしれない。

 いつこと切れたか、自分自身気づかなかった。野垂れ死にしてしまったのである。オオカミや野犬に気づかれないうちに、白骨になってしまった。眼窩から何度も芽が吹き、野草の黄色い花が咲いた。もはや大自然の一部となり、有機物質はほぼ無機質へと変化していた。

 私がどの僧院に所属していたかはわからない。夢に見たわけではないが、なんとなくチョナン派の僧院であったような気がした。チョナン派はもともとターラナートのような著名な哲学僧を輩出した有力な学派だったが、ゲルク派の弾圧によって、ツァン地方の総本山をはじめ、多くの僧院を失うことになってしまった。しかしアムド地方には、まだ数十の僧院・寺院が生き残っていた。私はチョナン派の少ないツァン地方をあとにして、チョナン派の多い安心できる地域に戻ろうと考えていた。

 チベットの動乱というのは、1959年の人民解放軍のラサ侵攻のことだろう。このときダライラマ法王はラサを脱出し、ブータンを経てインドに亡命している。実質的なチベット国の終焉である。この交戦のさいに多数のチベット人が殺された。わが前世はラサに住んでいたわけではなかったが、いずれ武力鎮圧がツァン地方にまで及ぶだろうと思い、チャンタン高原経由でアムド地方へ脱出しようと考えたのだろう。しかしのちの時代から考えれば、多くのチベット人のようにインドかネパールへ脱出すべきではなかったかと思う。

 現世の私は、はじめてラサへ行ったとき、5月23日に合わせて行われたデモ行進に参加した疑いで拘束された。この日は、1951年にチベットと中国の間で17か条の協定が結ばれた記念日だった。ダライラマや閣僚がこぞってインド国境近くの町を訪ねているときに、ンガワン・ジグメを中心とする親中国派が北京へ赴いて協定を結んだので、いわばクーデターに近かった。ンガワン・ジグメは映画「セブン・イヤーズ・イン・チベット」のなかでも、メインの登場人物のひとりで、最初は人当たりがよくて好感が持てるのだが、最後はチベット人を裏切ってしまう。現実の彼は共産党政府の要職に就き、2000年代のはじめまでテレビで彼の姿を確認することができた。

 なぜデモのこと、5月23日のことを知っていたかといえば、あるチベット人が近づいてきて、いろいろと教えてくれたからである。彼の名はタシといい、スイス在住のチベット難民だった。重要な会話は、たとえば大勢の客がテレビのインド映画を見ている食堂の奥の厨房や、寺院の屋上でおこなわれた。話の中身は、チベットでどんなひどいことがおこなわれてきたかだった。

 彼にキチュー川の中洲の松林に連れていかれたこともあった。そこでは若いチベット人女性が春を売っていた。もちろん私たちはそこで女性を買うのではなく、中国人男性がここにきて何をしているかを見聞するのが目的だった。市の郊外には彼の家(おそらく親戚の家)があり、そこで食事をいただき、チベットのバター茶を浴びるように飲んだ。彼の話は興味深く、叡智にあふれていた。

 拘束から解放された翌朝未明、ホテルの門の前に出ると、タシがいた。国外退去処分になったので、すぐに去らなければならないと言うと、彼は申し訳なさそうな表情を浮かべた。このとき以来、彼と会うことはなかった。その翌日、彼ともう一度会おうと思って、親戚の家を訪ねようとした。しかし玄関の前で見かけた親戚の女性はこちらに目を合わせず、「そんな人はここにはいない」とつぶやくように言った。

 ホテルに戻ると、ロビーの掲示板に「Wanted!」と書かれた顔写真入りのポスターが貼ってあった。彼の顔だった。知らない名前が記されていた。彼はお尋ね者だったのだ。地下組織のメンバーなのだろう。私以外の多くの欧米人ともコンタクトを取っていたのだろう。私は何ら政治的な活動をしていないが、チベット人の悲しみや苦しみを彼から学ぶことができたと思う。