チベットにやって来た二郎神
青海省同仁県(チベット名レコンRebkong)1 にはじめて足を踏み入れた1994年の夏のこと、あちこちの村で行われていた、正月と並ぶ重要な年中行事である祭り、六月会(drug pa'i glu rol)2 をサフチ村(Sa dkyi)の神廟で観ていた。繰り広げられるさまざまな儀礼的な踊りのあいまに、友人でもあるハワ(シャーマン lhapa)3 が中庭に登場すると、突如として激しく神懸かり、経文が刷り込まれた紙を両掌のなかで燃やしながら、飛び跳ねまわりだした。
「どの神が憑いたんだい?アンニェ・マルジュ(A myes rMa rgyal)か、シャチョン(ガルーダ Bya khyung)5 か?」と、ハワの弟に尋ねた。私が挙げたのは村で信仰されている民間の神(ユラ yul lha)6 である。しかし返ってきた答えは意外なものだった。
「二郎神だ」
当惑した私の顔を見て、彼は言い直した、「マッホン(dMag dpon)だ」と。
私の頭はさらに混乱した。マッホンとはチベットの将軍神のことだったから。なぜ中国の二郎神であり、チベットのマッホンでもあるのだろうか。この疑念から、私の二郎神来歴の謎解きの旅がはじまった。
二郎神
まず、本家中国の二郎神のことをもっと知らなければならない。案外、二郎神は謎に満ちているのだ。
二郎神は北宋以来ずっと、民間でもっともポピュラーな神のひとつである。
『東京夢華録(とうけいむかろく)』には灌口二郎神生誕(陰暦六月二十三日)の前日と当日、都ベン京の神保観がいかに賑わったか、その様子がいきいきと描かれている。人々は供え物を献じ、争って焼香し、雑劇や見世物に興ずる。7
灌口二郎廟の記載となると南宋の『朱子語録』が最初といわれるが、灌口二郎の故事はそのはるか前から流布していたと思われる。8
紀元前300年頃、秦の昭王は蜀を平定したあと、李氷を成都の太守に任命した。当時成都を流れる河には河神がいて、毎年人々が献じるふたりの童女を娶っていた。李氷はそのことを聞くと、決然として、おのれの娘を差し出そうと申し出た。河神が童女を娶る日、群集の見守るなか、李氷は娘を連れて川岸に行き、詞の前で杯を捧げた。酒杯の酒が揺 れたのは、河神が来た証しである。李氷が河神の罪悪をあげつらえると、酒の揺れは収まった。河神は憤然として去ったのである。
しばらくして、群集の面前に二頭の青牛が現われ、角を突き合わせて闘いはじめた。力が拮抗し、勝負はつきがたく思われた。と、そのうちの一頭が人のかたちをとって現れた。汗びっしょりの李氷が皆の前にやってきて、「どうか力添えをお願いします。もし牛の腰下に白いものが見えたら、それは私の腰帯です」 と言うと、また牛になって闘いに戻って
いった。彼の部下は白帯を認めると、それのない牛のほうに飛剣を投げつけ、殺した。これよりのち、水患は取り除かれた。人々は李氷の勝利を記念して灌江口に廟を建てたという。
しかし、このよく知られた民間故事は、なぜ李氷が灌口二郎と呼ばれるようになったかという肝心な点をなにも教えてくれない。李氷は都江堰という、いまなお成都一帯に恩恵を与えつづけるほどの治水潅漑事業を成し遂げたプロジェクト責任者であり、ウと並び称され、神格化されるのは不思議ではない。死後祀って廟が建てられたが、不吉なことがつづいたので、主尊を次男(二郎) としたという。しかし二王廟とも称したことからすると、二郎は二人の男 (父子二代にわたる事業だったと考える) の意だったのかもしれない。
李氷よりももともとその次男のほうが功績が大きかったとする説もある。『成都古今集記』によれば、李氷は設計人で、次男(二郎)が実行人だったという。二郎は三石人を作って (暴れ川の)ゼン江を鎮め、五石犀でもって水怪を圧さえ、離堆山を穿って沫水の害を除いたという。
また、四川道教会の文献にはつぎのような故事が収められている。
李氷が蜀の太守に任じられたとき、二郎(次男) もまた随ってやってきた。その頃、毎年蜀は水害に悩まされていたので、その原因を探るべく、二郎が旅に出た。山を越え、川を渡り、人々に尋ねてまわったが、その原因を知っている者はいなかった。ある日、密林のなかを歩いていると、目のつり上った額の白い虎が飛び掛かってきた。しかし二郎はあわてず、弓で虎を射止め、殺した。と、そのとき虎を追ってきた七人の狩人が現れた。彼らは二郎の勇者ぶりに感服し、水患の原因を探る旅を伴にすることにした。彼らはそうして灌県の川沿いを歩いていると、家のなかから婦人の慟哭が聞えてきた。わけを聞くと、この地には竜がいてつねに生け贅を欲しているが、まさに今、じぶんの子を捧げなければならないというのである。そこで三尖刀をもった二郎と七人の狩人は、神座の下に隠れて、竜が供え物(子供)を取りに来るのを待ち伏せした。竜がやってくると彼らはいっせいに飛び掛かった。竜が水中に逃げ込むと二郎も水中に飛び込んで追いかける。こうして彼らは竜を殺し、深みのなかに鎖で留めおくとともに、伏竜観を建立して鎮圧したのである。この二郎神は三尖刀をもち、おそらく猟犬 (哮天犬の原型) を従えていて、同仁県の二郎神像にかなり近づいている。
つぎに、創作色の濃い灌口二郎神の故事を挙げよう。
竜(みずち)は毎年晦日になると、24の卵を下界にばらまいた。この卵が落ちた地方は来たる年、洪水に悩まされることになる。ある年、竜の卵が灌県に落ちた。この地方のミン江に面した村に、母と孝行息子がいた。春先、田んぼで 草刈りをしているとき、息子は草の根元に赤い玉を発見した。それはとても高価なものに思えたので、彼は家に持ち帰り、銭箱のなかに隠した。
翌日箱を開けると、驚いたことになかは銭でいっぱいになっていた。同じように、米のない蔵に、油のない壷に赤い玉を置き、翌日見ると、蔵は米で、壷は渦でいっぱいになっていた。
こうして何不自由ない暮しを手に入れると、当然隣人たちの妬みを招くことになった。だれもが息子の「宝」を奪おうとやっきになった。それで彼は赤い玉を呑み込んでしまったのである。赤い玉が胃のなかに入ると、燃えるような感じがして、無性に喉が乾いてきた。彼は茶碗の水 を飲み、甕の水を飲み、井戸の水を飲んだがまだたりず、ついに灌口江の水辺に行って川の水を飲みはじめた。母親の見ている前で、彼の肌に 鱗が生えはじめ、頭には角が伸び、身体はゴツゴツして、長くなった。
蚊竜(みずち)に変身したのである。最後に残った片足に母親は必死でしがみついたが、それも変じると、手を離した。この竜が流れに乗って南下すると、通り過ぎた地方は水没した。天は見かねて灌口二郎を派遣した。二郎神は馬にまたがり、手に大斧をもって竜に立ち向かった。しかし竜は東海に向かって逃走しようとするので、観音大士があらわれ、老婆に化けると、岸辺に庵を建てて竜を待ち伏せ した。竜は腹が減っていたので、老婆の作った麺を嬉々として食べた。
ところが麺は胃のなかで鎖に変じ、鎖は竜の心臓に巻き付いたのである。
竜は二郎神によって灌県の西江岸の鉄杭に縛り付けられた。
この故事においても、洪水を起こす竜を退治する聖ゲオルギの如きヒーローとして、二郎神が登場している。竜は、もちろん洪水(自然災害) の象徴であり、二郎神はそれを克服したいという人々の切なる願いの象徴なのである。
二郎神のモデルとされるのは、李氷だけではない。ほかに何人も挙げられるが、もっともポピュラーなのが趙イクだ。
趙イクは隋朝末期、嘉州の太守に任じられた。その頃ケンイ県の川で蚊竜の害が甚だしかった。超イクは兵士千人を率い、川辺に来て太鼓を打ち鳴らし、法螺を吹き、蚊竜を捜させた。竜が見つかるやいなや、趙イクは刀をもったまま身を翻し、川に飛び込んで蚊竜と闘った。岸からでは、水面が赤く染まり、岸壁が崩れるのを眺め、雷の如き吼え声を聞くだけである。
しばらくして、趙イクが蚊竜の首を掲げて浮かび上がってきた。こののち天下おおいに乱れ、趙イクはどこか山の中へ引きこもってしまい、行方は杳として知れなかった。
あるとき、嘉陵江の水害が頻繁に起こるので、人々が神霊に祈りを捧げていると、霧のなかに童子 (金頭奴) と白犬(哮天犬)を連れ、背に弾弓を負った、白馬に乗った武将が現れた。これこそ趙イクであった。のち、灌江口に廟を建て、祀ったという。
元の雑劇『二郎神酔射鎖魔鏡』に登場する二郎神も超イクである。
わが姓は趙、名はイク、字は従道、幼年かつて嘉州の太守と為す……嘉州に冷源二河あり。河内に健蚊あり。風を興こし、浪を作し、人民を損害す。……われその健蚊を斬る。左手にその首級を持ち、右手に剣を佩きて水を出たり。見るに七人が地にて拝す。これぞ眉山七聖なり。白馬に騎りて、白日飛翔す。灌口人民われの廟を建て、……灌江口二郎に加えて清源妙道真君と為す。
おなじく元の雑劇『灌口二郎斬健蚊』の末尾にも、「二郎、加えて清源妙道二郎真君と為す」という科白が出てくる。竜、竜を退治する二郎神、洪水、白馬(白竜馬)、三尖刀……というモチーフもまた変わらない。
しかし、二郎神像のもとになったのは、五代十国時代の後蜀の孟アイだという。『古今図書集成』に「二郎神、黄の衣(を着)、弾(弓)を射し、猟犬を擁す、これ実は蜀漢王孟アイ像なり」とある。皇帝を称した孟知の後継ぎである孟アイは、騎馬、ポロ (打毬)を好み、房中術に浸った。あるとき、群臣を集めて宴を開き、灌口二郎神と竜の闘いを演じさせていると、忽然と天が暗くなり、大雨が降ってきた。そして奔流が成都を襲い、五千人以上の死者を出したという。
のち宋の太祖によって孟アイは俘虜の身となり、妻の花蕊夫人は宮中に留め置かれることになった。夫人は夫のことが忘れられず、宮中に孟アイの像を飾った。しかし尋ねられたときは、これを二郎神像だとこたえた。それ以来二郎神はこのような姿に描かれるようになったのだという。
もうひとり、杭州の二郎神廟に祀られている、勇将として名を馳せたトウカもまた二郎神とみなされる。彼は太守であり、また嚢陽城北の水中の蚊を斬ったという。
黄芝崗は、二郎神のモデルとして李氷、超イク、トウカの三人を挙げ、彼らに共通しているのは、@入水斬蚊(水息を平定する)、A太守(あるいは太守の息子)の二点だと指摘している。
二郎神が広く民衆の間に浸透したのには、明晴代の大衆小説が大きく貢献している。『西遊記』では、孫悟空の口を通じて、「二郎神の母親は玉皇大帝の妹である。下界のことを思い、楊君と配合して一子を設けた。ゆえに二郎神の姓は楊である」と述べさせている。二郎神は三尖刀を武器に、手がつけられなくなった斉天大聖(孫悟空)と三百回も闘い、ついには捕えた勇者として描かれる。
『封神演義』の楊センも書中、明言されているわけではないが、一般には二郎神とみなされている。「無窮妙道、肉身成聖、封清源妙道真君」という箇所がその証しとされる。清源妙道真君は、灌口二郎にも、超イクにも追封された称号なのである。しかし、三つ目は描かれず、哮天犬の登場も遅い。『封神演義』を書き始めたとき作者はまだ楊センを二郎神とはみなしていなかったのではないかと、飛雲居士は推測している。
この明清の頃までに、二郎神の三大特徴である三つ目、哮天犬、三尖刀が確立されたと考えられる。この二郎神像とレコンの二郎神像との共通点、相違点については、のちほど触れたい。
レコンの歴史
目を青海省同仁県に転じよう。
チベットの伝統的な行政区分法では、チベットはラサを中心としたウーのほか、ツァン、ンガリ、カム、アムドの五つに分れる。そのうちアムド(A mdo)は青海省の大半、四川、甘粛の一部にまたがる広大な地域を占める。
アムドは高原遊牧区のイメージが強いが、農耕区の面積も思いのほか大きい。レコンは代表的な農耕区なのである。遊牧区とは文化、習慣、言葉、体格すらも異なり、そのぶん漢族農耕文化を受容する余地があったかもしれない。
古代、この地域に住んでいたのは美人の一種だった。九紀元前六〇年頃、前漢は北方の旬奴に対抗するため、趙充国を羌人の分布するコウ水流域に派遣し、保安に河関県を設立した。四世紀初頃からは吐谷渾が勢力を伸ばしてきた。吐谷渾はもともと東モンゴルの鮮卑の一派だった。現在の土族は吐谷渾の末裔ではないかと思われる。土族はチベット族と見分けがつきがたいほどチベット化しながらも、言語はモンゴル語の一種なのである。
663年、吐谷渾は吐蕃によって滅ぼされた。八世紀半ばまでに、唐はこの地域に多くの軍城を設置する(そのひとつはガセル村とゴマル村の間)が、755年の安史の乱を契機に撤退する。その間隙を縫って、吐蕃がこの地域に進出した。ガル・ロントンツェン(ソンツェン・ガンボ王時代の有名な大臣) の後裔がこの頃、レコンに定住したという伝承もある。村々の伝説も、唐代に吐著の兵としてやってきたことを物語っている。六月会も、唐と争っていた頃の閲兵式に発しているともいう。サンゲション村に最初のチベット仏教寺院が建立されたのも、この頃だとされる。
11世紀から12世紀にかけては、吐蕃王の末商と称すジャルセ(rGyal sras 997〜1065)が青海省東部に建てた青唐国の一部となった。その後は元、明、清を通じて、ときおりモンゴルの勢力が強まったりしたものの、基本的には中国歴代王朝がなんらかの楔を打っていた。
注目すべきは、明洪武三年(1370)に河州衛(現・甘粛臨夏)が設置され、おなじ頃「保安四屯」が文献上に登場することだ。保安四屯はいわば屯田兵による開拓村だが、これは現在のレコンの土族の村につながる。するとこの時期に相当、内陸から漢族を含めたさまざまな血が流れ込んだ可能性がある。
土族とされてきた村のなかでも、唐代に最初の仏教寺院が建立された、「レコン芸術」10 で名を馳せるサンゲション(吾屯)村のアイデンティティーが問題だ。他の土族村の言語がモンゴル系であることを示している(たとえばニェントフ村ではモンゴル語系土語六〇%、チベット語三六%) のに対し、サンゲション村では漢語63%、チベット語37%となっているのだ。土族に含められる要素はまったくない。それはおろか、チベット族とも言い難いのだ。明代初期に内地から移住させられた漢人屯田兵の子孫ではないかという可能性を排除することはできない。
しかし彼ら自身はレコンに定住した吐蕃兵の子孫であると信じ、「父はチベット人、母は漢人」(吐蕃軍が唐軍の村を略取したとき、女を
捕虜とした。ことばは母から教わるものなので、じぶんたちは漢語をしゃべる)という言い習わしで正当化する。
レコンの宗教
レコンにチベット仏教が盛んになったのは、元代だった。国師パスパは仏法を広めるべく、チベットの聖山ニェンチェンタンラ山麓に住んでいたヨーガ師(神医砕岩音と呼ばれる)をアムドに派遣した。ヨーガ師はロンウォ(Rong bo)土官になった。その息子のひとりがサフチ大官戸(現サフチ村)を施主としてロンウォ寺を創建した。ロンウォ寺ははじめサキャ派だったが、のちゲルク派に改宗し、アムドの代表的な寺院に発展した。
レコンは多くの特筆すべき高僧や哲学者を輩出した。とくに、活仏シャルツァン一世ガタン・ギヤツオ(sKal ldan rgya mthso 1607〜1677)、ニンマ派ゾクチエンの教えを広めたシャプカルパ(Zhabs dkar pa 1781〜1851知識人にして奇僧のゲンドゥン・チュンペ(dGe 'dun chos 'phel1903〜1951)など枚挙にいとまがない。
他の地域と同様、レコンにもパドマサンバヴア(Padma
sambhava 8世紀後半頃)が来て修行をしたという伝承がある。パドマサンバヴアは最初にチベットに仏法を広めたインド西北ウッディヤーナ出身のタントラ僧である。伝承の真偽のほどはともかく、主流のゲルク派寺院が多数を占めるなか、パドマサンバヴアの教法を継ぐニンマ派(古派)は今日もなお勢力を維持している。なによりもニンマ派の特性は、民間信仰的成分を排除しないことだ。レコンには二千人ものンガツパ (呪師、在家僧。多くはニンマ派)がいるといい、町中を歩くと、ンガツパであることを示す独特の髪形をした修行者然とした人をたくさん見かける。一部のンガツパは、雨を降らせたり、降らせなかったりするウェザー・コントローラーである。
精霊の依りまし、ハワ
ンガツパと並んでレコンにミスティックな雰囲気を与えているのは、神と人間との仲立ちをするハワの存在だ。通常へ ひとつの村に一人から数人のハワがいる。もしハワが欠けたら村落共同体がうまく機能しなくなるので、新しいハワを選出しなくてはならない。ハワが選ばれるには、神がかりや精神的不安定が見られた候補者に対し、活仏の認定・儀式が必要となる。これを「神の扉を開く」(ハゴシ、あるいはラゴチェ lha sgo pye)という。じっさい、レコンの人々が二、三百年前に移住して形成した隣りの循化県のドワ村では、活仏が(インドに亡命して)いないため、神霊が憑いたように見えてもハワに認定されない、という事態がおきているのだ。11 このハゴシは、シベリアなどでシャーマン候補が病気のあと回復し、シャーマンになるときの過程(シヤーマニック・イニシエーション)と共通するものがある。
具体的に、ハワになったときの状況をソグル村(Sog ru)のハワ、シャンワ・ジャヒ (Byams pa bkra shis 38才)に語ってもらおう。
1992年の冬、三十年ぶりにハワを選ぶことになりました。18才から35才の77人の若者が寺のお堂にあつめられ、一週間閉じこもって経をよむことになったのです。外部との接触は禁じられ、差し出された食べ物を食べるだけです。
一週間後、十人が神懸かって震え出しました。それからさらに十日間、経をよみつづけたのですが、ずっとからだの調子はよくありませんでした。熱っぽくて、薬を飲んでもすぐ神がかった状態になってしまうのです。体中が痛く、食欲がなく、食べると戻してしまいました。ダンドゥ経をよむと、いっそうからだが痛くなり、茶碗を放り投げたりしました。
夢を見ました。馬に乗った、矢を手にした白く長い髯の美しい武将が近づいてきて、私にカタをかけようとするのです。翌日つづきの夢を見ました。その武将がやってきて、またカタをかけようとするのです。必死で抵抗したのですが、武将は私を倒し、馬の蹄で私のからだを踏み潰したのです。
[17日後、四人が最終選抜に残った。村人は四人の名の載ったリストをケンチェン活仏に渡した。活仏は二人の名を選んだ。そしてその二人にドパ (首飾り)を与えると、他の二人は落ち着いた。憑いたのは黒い霊だったのである。選ばれた二人のうち若いほうのヒャウォは、ハワになることをすぐ受け入れたが、シャンワはどうしてもなりたくなかった。父親も昔ハワをみた記憶があり、大変な仕事だと知っていたので、賛成しなかった。それで夜、ひそかに別の活仏に頼んで、ハワにならないための首飾りをもらおうとした。】
そのとき突然、建物が地震でも起きたかのように揺れはじめました。そして屋上で馬が走る蹄の音が鳴り響いたのです。ケンチェン活仏のもとへいき、泣いて頼もうとしたのですが、活仏は「扉のまえに来たのだから、もう戻ることはできない」とおっしゃいました。それで自分が間違っていたことを思い知り、ハワになる決心をしたのです。12
ダンドゥ経をよむと神がかるというのは、夢に出てきた武将こそがダンドゥであり、ダンドゥが彼の守護神になろうとしていたことを意味する。ダンドゥ(dGra 'dul dbang phyug)は戦神(ダラ dGra lha) の一種であり、彼が廟内で神懸かったときは、激しく飛び跳ねまわり、それから矢を構えたまま半時間ものあいだ、目をつぶって静かなトランス状態を保つ。おそらく(彼は記憶がないと言うが)夢のような状態のなかで、悪しき精霊(ルやツェン)と闘っているのだろう。ダンドゥは敵を調伏するといった意味である。13
ネべスキー・ヴォジュコヴイツチ(以後NWと略称)が挙げるサダク(地祇神 sa bdag)を管轄する山神のリストのなかにも、チベット自治区東部ツァワガンのサダクを管轄するマクボン・ダンドゥ(dMag dpon dgra 'dul)が含まれている。マクボンはアムド語読みのマッホンとおなじである。
NWはまた、戦神トンボン・ダラ(sTong
dpon dgra lha)の図像には、四方を守護するマクボンが描かれると述べている。具体的には、東はペハール(Pehar)、南はゴンポ・マハーカーラ(mGon
po mahakala)、西はヤムシュ・マルポ(Yam shud
dmarpo)、北はクベーラ(Kubera)といったマクポンである。これらはどれも、チベット人にはなじみ深い、精鋭軍を率いる英雄的な軍神なのだ。14
こうしたことから、二郎神のチベット名マッホン(マクボン)は、固有名ではなく、称号であることがわかる。マッホン (将軍神) の二郎神、というふうにとらえるべきなのだろうか。
ただ二郎神というのはチベットにおいても漠然とした存在であり、ケサル王や実在の将軍と同一視されることもあった。
ケサル王と混同されるのは、つぎのような理由による。チベット人はケサル王のことをリン国のケサル王という意味で、リン・ケサル(gLing Ge sar)と呼ぶ。ところがアムドではリンの発音がルラン (二郎)とほとんどかわらないため、リン・ケサルは二郎ケサルと混同されてしまったというのだ。こじつけにすぎないが、チベット人の英雄願望がそうさせてしまったのだろう。ケサル王と楊セン二郎は、神変、武勇、降魔といった性格が同一なのである。15
二郎神は実在の将軍に仮託された。とくに「清代の将軍らしい」ということを何度もチベット人から聞いていたが、だれであるか最近になってわかった。
それはグンエ(gung ye)だという。グンエとは、雍正帝を皇帝の座に押し上げ、絶大な力を誇ったが、そのためかえって失脚してしまった漢人大将軍尭ことである。宮崎市定の『雍正帝』に、「雍正元年(1723) の暮から青海に叛乱が起り、牛糞尭が部下の岳鍾瑛をやってこの暴動を鎮圧せしめた……」とあるが、この叛乱とはモンゴル人(ズンガル部)が青海に侵入しようと企てた件を指していて、年嚢尭がそれを阻止したのである。青海のチベット人にとつてはそれが非常にありがいものだったのだろう。
二郎神のモデルが特定の人物ではなく、多数の候補があるのは漢族と同様である。しかし漢族においては治水事業を成し遂げた(あるいは竜を退治した)というキャラクターだったのだが、チベットにおいてはその点がほとんど顧みられない。むしろたんにマッホン的な英雄が二郎神と尊称されている。それはチベットに治水事業が存在しえなかったという要因にもよるが、ここに二郎神の変容が観察されるのだ。
冒頭に戻ろう。マッホン二郎神の名が出てきたのは、サフチ村の六月会でのことだった。サフチ村の神の体系は、捧げるトルマ (ツァンパをこねて作った山型の偶像。祭りのあいだ廟内の祭壇に供えられ、最終日に燃える杜松の枝のなかに触り込まれる、つまり捧げられる)のフォーメーションを見ればわかる。ハワの年の離れた長兄が祭り当日の朝、家のなかでトルマを作るのを私は見ていた。中央はシャチョン(ガルーダ)、左右にその息子(Sras 'bum padon 'grub)、妻(A ma nu'u mo)。左端に二郎神(巨岩 dMag dpon)、右端にラルゾン(Ra rdzong シャプラン村の地神)という構成になっている。しかし、ラルゾンに対応すマッホン二郎神というのは、どうもしっくりこない。
二年前、ようやく謎が解けたように思った。サフチ村の二郎神はたかだか数年前、ニェントフ村から招聴された新しいものだと聞いたのだ。これでシャプラン村のラルゾンに対応するのは、ニェントフ村のマッホン二郎神(両村ともサフチの隣り村)というふうになり、一応すっきりする。
さらに一歩、二郎神の謎解きが進んだ。つぎに、ニェントフ村をはじめとする土族村についてもっと知る必要があるだろう。
土族の村、ニェントフ
二郎神をめぐって、中国とチベットの橋渡し役を果たしたのは土族ではないかと私は考えている。同仁県城から北へ三キロの地点にニェントフ村があり、隆務河西岸に沿って、ゴマル村、ガセル村と士族の村が連なっている。
これらの村のユラ(土地神)はつぎのようになっている。
【ニェントフ】シャチョン(ガルーダ Bya khyung)ゴモ・ルラン(ゴモ二郎神 Gomi rilang)マルジエ(rMar rgyal)ダンドゥ(dGra 'dul)ニェンチェン(gNyen chen)
【ゴマル]ベンファル・ルラン(変化二郎神 Pen bar rulang)シャチョン(Bya khyung) ケサル(ケサル王Gesar)
【ガセル】サダク・ジェウォ・ヒャンヒャン(地神王?Sa bdag rgyal po shang shang)ワンタン・ツォヒ・ルラン(祖師二郎神? Ban thin tsho shi rilang)ザ(曜神 gZa〉)
残念ながらこれらのうちいくつかは正確な名前を特定することができない。それらはおそらく漢語が訛ったものである。ゴマル村の変化二郎は、さいわい民和県の土族の民間神のなかに出てくるので特定することができた。それについてはあとで詳述したい。
三つの村に共通しているのは二郎神である。士族の主神は二郎神であると言っても過言ではない。
ニェントフ村で神香を捧げるときによむサンホイ(サンペ bsang dpe)すなわち祈願経典なかに、二郎神(ゴモ二郎神)の箇所がある。16
マンジュシュリー(文殊)や観音の経文と同様、二郎神の経文がチベット語で書かれているのだ。
オーム、至宝なる美しき器、アー、神の欲するまったき身体、フーム、至福の甘露によりて、あまたの歓喜をもたらせよ。キェー、まことなき、さまざまな心の幻影が現れようとも、揺るぐことなく、仏法を広め、守護いたす、大いなるシナ(マハーチーナ)の賢人。ふたつの教えを示した聖なる者、栄えある名、ゴモ二郎神(Go'u mo ri langs)。17 眷属もあまたあり。心を散らすことなく、いにしえのしきたりに従い、神像の御前に供え物を捧げよう。あらゆるものを神香として捧げよう。それらは火煙に包まれ、天空に昇華する。かくして悪しき霊どもに服従を誓わせよ。すべてに幸あれ。災いも争いも、病気もなく、一切がつつがなきように。一族の安息、健康、長寿を願う。
ニェントフ村のニェントフ寺(ゲルク派)の傍らに丘があり、丘の頂上にラツェ、その下に二郎神廟がある。このなかの二郎神像は、漠族の二郎神がやや変容したものといえる。
三つ目、官帽(文官双翅官帽)は漢族とおなじ、衣装、(土族式ガウン、雲紋の長筒靴) は土俗化している。侍者はふたりいて、一人は李天王を象徴する塔を持ち、もう一人は酒壷を持っている。三尖刀、哮天犬は見られない。
ニェントフ、ゴマル、ガセルの土族は、リバーシブルのジャケットでも着ているように、チベット的な面と土族的な面をもっている。そしてこの土族的な面とは、モンゴル的ではなく、漢族的なのである。外部者がはじめて訪れたとき、彼らは民族名を聞かれて「チベット族」とこたえることが多く、名前も衣裳もチベット化しているため、ほとんど見分けがつかない。
ニェントフ村の新年(春節)、六月会以外の年中行事を以下に挙げよう。いかにチベット文化と漢文化が交じっているかがわかる。
【チョパ mchod pa】4月10日〜。チベット仏教行事。
【ニョンニ myung gnas 4月14日〜。チベット仏教行事。
【ラブツェ祭−lab tse 5月4日。チベット民間信仰。丘の頂などのラブツェの枝や矢を替える儀式。
[ラブツオ祭−lab tshod 5月5日。士族漢族民間信仰。端午奈。
【チュコル祭 chos skor 5月8日チベット仏教民間信仰。(108のカンジュル)経典を背負って、山を回る。チベット中央部のオンコル祭とほぼおなじ。
【バン bang, lha skor 11月8日チベット民間信仰。夜、男女が集まって踊ったり、歌(ライー)をうたう。バンは常?
【ウトウ o'u th'u, stag 11月20日土族民間信仰。下に詳述。
[ロバゴタン lo pa go thang, du nyeg 12月8日。士族漢族民間信仰。各家庭で豆ご飯をつくる。大掃除をする。門の前、屋根の上、畑の上などに氷を置く。
【ゾウネネtso lpu ne ne, thab lha】 12月24日。漢族民間信仰。竈神の意。おそらく竈王ナイナイが訛ったもの。かまどの修理をし、神香を焚く。「友よ来い、敵は出て行け」などと唱える。漢族の小年。
このなかでもウトゥは二郎神とも関わりのある重要な行事だ。一日でもっとも悪い日(陽暦の冬至の頃にあたる)に行われる厄払いの祭りである。
ウトゥとは虎を意味するチベット語(stag)の訛りと考えられる。農暦2月20日、七人の男がラブツェで枝を取って杖とし、半裸になり、灰をかぶって真っ白になる。それから絵師たちが、鍋底の炭を使い、虎を表わす渦紋様を身体中に描く。これでウトゥになったことになる。腹と背中にも虎面を描くが、これはチベット仏教画の憤怒尊(とくにマハーカーラ)によく似ている。
彼らは丘の上の二郎神廟に集まる。五仏冠を被り、羊皮太鼓を持ったハワをリーダーとして、二郎神に魔を駆逐するよう祈願する。それから踊ったあと、丘を駆け下り、村の家々へと向かう。彼らは玄関から家に入ることが許されないので、三b以上もある土壁を乗り越えて侵入しなければならない。各家は肉と酒の用意をしてもてなすが、彼らは虎なので、食べるとき手を使ってはいけない。
彼らが高い土壁のあいまの細い通りを走るとき、人々は競ってドーナツ状のパンを杖に投げかける。このパンは前夜のうち悪いものすべてをこめて家のかまどで焼いたものだ。そうして彼らは川へ向かって駈けだし川で水浴びをする、といっても例年川は凍っているので、パンを投げ捨てたあと、杖や石で氷を破り、現れた水をすくって身体になすりつけるのである。これでパンや身体にすり込まれた悪しきものが落ちたとみなされる。18
民和県土族の二郎神信仰
レコンの土族のあいだに二郎神信仰が広がっていることがわかった。彼らに二郎神を伝えたのは誰なのだろうか。そのミッシング・リンクを埋めるのは、レコンから東へ100キロほど離れた民和県南部(官事、二郷) の土族ではないかと私は考えた。この地域はとくに二郎神信仰がさかんなのだ。
民和県ではさまざまな道教・民間宗教の神々が信仰されている。
竜王爺、娘娘、黒池爺、先生爺、摩竭爺、大王爺、四郎爺、索家大帝 20、
そのなかでも二郎神は特別な存在だといえる。レコンのハワにあたる民和士族のシャーンはファラ(法拉)と呼ばれるが、ファラに憑く第一の神は二郎神なのである。
民和県二郷では、廟内の二郎神像を年二回(四月一日〜五月十四日と七月一日〜八月末)出巡(浪群廟)させる。二郎神像は八人が担ぐ神輿のなかに入れられ、毎日、ある村の廟からつぎの村の廟へと運ばれる。その村で迎えられるとき、村人たちは香を焚き、紙馬や供え物を捧げ、叩頭する。ファラは跳神を行ない、神がかったファラに人々はお伺いをたてる。五月十四日には、二郎神像内に供えたカササギ、スズメ、蛇を取り替える。二郎神が供物として(調理されてない)生き物を好むということは注目すべきことだ。
二郎神の神牌の表には、「清源妙道護国崇寧真君川蜀大帝威霊顕化天尊聖前」、両側には「金色童子」、「郭大将軍」と記されているという。前述の通り、「清源妙道真君」は宋代に二郎神に追封された称号である。
民和県官亭では九月八日に廟会が行われるが、前日の七日正午、別の村からもってきた二郎神像を、村の神廟の庭に設置した仮設テントに安置する。神輿に乗った二郎神が到来したとき、村人全員で出迎える。
そのとき人々は連れてきた羊やにわとりに酒をそそぎ、もし、ブルっと震えたら神が供物を悦んでいるしるしとみなされる。これはモンゴルの風習とまったくおなじだ。
それから二郎神像はテント内の祭壇の最上部に置かれ、廟内にもともとある神像はその下に置かれる。すると人々は三度叩頭し、その瞬間爆竹が鳴り、銅鑼が打ち鳴らされる。人々は焼香し、ロウソクを灯し、黄表紙を燃やす。家ごとに12の饅頭を供えるので、あっというまに饅頭はうずたかく積もる。二郎神像にカタをかける人もいれば、真言を唱える人もいる。
人々は捧げた羊やにわとりを家に持ち帰り、屠殺する。煮込んだもののなかから、羊の蹄、肝臓、肺を器に入れ、二郎神像の下に置いた桶にそそぐ。この雑肉スープは村人全員に分配される。
ファラ
ハワと同様、神と人の仲立ちをする土族のファラについて考察を進めよう。
ファラになったときの模様が記録されている。21
1953年9月6日の廟会のとき、宝家村のある青年は廟会に行きたくなく、家のなかで赤ん坊を抱いてじっとしていた。ところが突然、二郎神が激しく彼を捉え、彼は朦朧とした状態で廟会にたどりついた。そこで元ファラによって両頬に鋼針が刺された。頬からすこし血が滴ったが、痛みはなかったという。
ハワとの大きな違いは、ハゴシ(神の扉を開く)という活仏による認定過程がないことだ。その代わりは元ファラが務めているのである。鋼針を刺すのはレコンにもあるが、ハワが刺すことはまれで(ときにはある)通常は有志か、あるいは角占いで選ばれた者が刺す。
ファラが必要とされるのは、求雨、廟会の時期、(病気の原因、治る時期など)について占ってもらうときなどである。
求雨の儀式では、まず二郎神像かその他の神像のところへ行き、焼香し、黄表紙を焼き、ロウソクを灯す。黄表紙には求雨の文を書き、その願いをこめて燃やすのだ。それから人々はいっせいに銅鑼を鳴らす。ファラは手と顔を洗って清め、全身に杜松を焚いた香で薫じ、二郎神のもとへ走って、鋼針をもらうと、両頬、両耳、舌、喉、両腋、両乳首に刺す。まるでファキールかタンキーのように肉体を痛めつけるのだ。
ファラは片手にマサカリ、片手に鋼鞭をもって跳神をし、突然壇の上をマサカリでドン、と叩き、銅鑼の音を止める。神が話をしようという意思表示なのだ。ファラは舌に刺さった鋼針を抜き、神のことばを語る。それから銅鑼が打ち鳴らされるとまた踊り出す……ということを三、四度繰り返す。
ハワもファラと同様、神のことば(神語、ハケ)を語る。神語はそのままわかる場合もあるが、ほとんどの場合通訳を要する。内容は、収穫はいいだろうとか、年長者を大切にせよとか、喧嘩はするなとか、差し障りのないものが多い。しかし政府を暗に批判するような神語もあった。また両者とも病気を治療するのではなく、病因や治療法を占い、示唆する程度である。
総じて言えば、ハワとファラはそっくりである。ハワは典型的なチベット型シャーマン(たとえばチベット政府御用達のシャーマン、ネチュンと共通点が多い)でありながら、ファラだけでなく漢族のタンキーとも似ている。またレコンの六月会と民和県の廟会にも共通点が多々あるだけでなく、漢族の廟会や出巡にそっくりなものを見出すことがある。二郎神が伝播してくるだけのバックグラウンドは整っていたのだ。
結語
中国内地における二郎神信仰は、もともと自然災害(とくに水害)に立ち向かう英雄的な神への地域的信仰にはじまり、雑劇や語り物、大衆小説などを通じて中国全体に広がっていった。チベット東北部の二郎神信仰もその一環にあるといえるだろう。しかしチベット人が二郎神を受け容れるとき、そのままでなく、マッホン(将軍)信仰 ―それは山神信仰でもある 22― と融合し、チベット的な二郎神ができあがっていった。その架け橋の役割を果たしたのが、外見上はチベット文化の影響を受け、チベット化しながらも、いっぽうで漢族文化をじぶんのものとしていた士族なのである。民族を越えて広がり、伝播し、変容した民間宗教の一例がここに観察される。
脚注
1 チベット語表記は慣用的なローマ字表記を採用した。カタカナ発音表記は、地元の人名、村落名などはアムド方言読みを考慮したが、他はラサ方言読みをもとにしている。
2 二十余りのチベット族、土族の村々で農暦六月十六日から二十五日の間の各四、五日間にわたって行われる収穫前夜祭的な祭り。初日、神像を神輿に入れて各戸を回り(ハチャンカ)、そのあとの三、四日間、神廟で男女の踊り(神舞、軍舞、竜舞)や寸劇などがあり、ハワの神語(お告げ)で締める。共同体の結束を強めるのが第一の目的。詳細は別の機会に譲りたい。
3 祭りの中心人物。憑霊型シャーマン。シャーマンを表わすチベット語には、ハワ(神人の意。ラサ音ではラバ)のほか、パウォ(勇者の意)などがある。
4 アンニェ・マチェン、マルジェ・ポムラとも。アムド地方の代表的な山神。
5 ガルーダはもともとヴィシュヌ神の乗り物としておなじみの鳳風のようなヒンドゥーの神格。ここでは近くのシャチョン山の山神。
6 ユラは国の神、地方神、山神などと訳せる。ほとんどが山神。
7 『東京夢華録』(東洋文庫)
8 以下二郎神の故事は、主に『中国的水神』(黄芝崗 上海文芸出版社)、『中国道教伝奇』(飛雲居士 台湾・新潮社)を参考にした。
9 以下歴史に関しては、『青海歴史紀要』(青海人民出版社)、『青海土族社会歴史調査』(青海人民出版社)、『安多政教史』(甘粛民族出版社)などを参考。
10 さまざまな伝説があるが、シャルツァン一世(後述)が土族四村に芸術を興すよう勧めた、つまりサンゲション村に筆を与え(タンカ)、ニェントフ村にハサミをあげ(布貼りタンカ)、ゴマル村に木板を与え(木版刷り)、ガセル村にノミを与え(彫刻)たことによって芸術が盛んになった、というのが代表的。
11 1998年1月の調査。循化県の町中にはトルコ系のサラ族が分布する。
12 他の村でも似たような選定作業を行なう。すなわち、村の若者全員を神廟に集め、一定期間こもらせ、神がかったもののなかから活仏が選び出して、清めの儀式をもつ。こ
のインタビューは1997年8月。
13 ソグル村のユラ(yul lha)は、ダンドゥのほか、マルジェ(rMa rgyal)、ティケ・ユラ(Khri ka'i yul lha)、ダクルン(sDag lung)、ロンボ・シャンワ(bLon po shan pa)。
14 Rene De Nebesky-Wojkowitz "Oracles and Demons of Tibet"
15 王興先『ケサル論要』(甘粛民族出版社)
16 マチェン、ケサル、シャチョン、ルラン(二郎神)、ダンドゥ、ニェンチェン、ラルゾン (以上神名)がセットになって一冊の祈願経典になっている。
17 ゴモは聖山名。ri langsはアムド発音ではルラン(二郎)。riは山の意。
18 1999年1月7日の調査。祭りはラダックの年越し行事とよく似ている。
19 『青海土族社会歴史調査』青海人民出版社
20 索はモンゴル人を表わすチベット語のソグポ(sog po)?
21 脚注16と同じ。
22 Ma Lihua
"Shamanic belirf among nomads in northern Tibet" (Anthropology
of Tibet and the Himalaya 1993 所収)で馬麗華は男山と女山の結婚といった伝説が多いことを紹介している。レコンにもこの種の伝説がたくさんあるだけでなく、各村の近くにかならず聖山があり、その山神がハワに憑く。