ドルポパ(12921361)の弟子として、通常つぎの14人が挙げられる。

 

1)             クンパン・チューダクペ(Kun spangs Chos grags dpal 1283-1363

 漢訳は法称詳。虚空蔵菩薩の化身と言われる。ラルン(ra lung)出身。ドルポパより10歳年上。5歳のときからチベット語の学習を始め、修辞、詞藻、韻律、劇、星象の五明文化を学んだ。7歳のとき仏教に帰依し、師を拝し仏典を学習した。21歳からチベット各地を遊歴し、各寺院を訪ねて弁論を交わし、名のある高僧に就いてさらに研鑽した。元大徳九年(1305)、23歳のときチョナン寺に行き、ケツン・ヨンテン・ギャツォ(mKhas btsun yon tan rgya mtsho)から比丘戒を受けた。のちにドルポパに拝し、師とし、チョナン派の教法を系統的に学習した。

 学を成したあとクンパンワは故郷に戻り、トゥンパ・イェペ(sTon pa ye dpal)から現在のトゥルン・デチェン(stod lung bde chen)県内のチュサン寺(chu bzang dgon pa)を譲られた。彼はこの寺を主要な伝法道場とし、講聴制度を確立し、経院を設立するなどして、チョナン派教法を広めた。

 元の至正年間、ドルポパの代表として内地(中国)に赴き、元朝王室と関わり合いをもつが、81歳のとき、ジャンワ・センティという者に殺された。著作には『仏教基道果三位論』『タントラ分類』などのほか暦算関連が多数あった。彼はサンスクリットに通じ、翻訳にも長けていた。訳書に『妙吉祥見許論』などがある。

 

2)             訳経師ロドゥペ(Lo tsva ba bLo gros dpal 1299-1353

 漢訳は慧祥。除蓋障菩薩の化身といわれる。ドメ(mDo smad)出身。幼いときから師を拝謁して経典を学び、15歳にして因明、般若、上下対法(『集論』と『倶舎論』)、戒律諸学に通じ、その名が知られた。その後故郷を離れ、中央チベットを遊歴し、論戦を戦わし、各師のもとに参じ、学究を深めた。

 25歳のときダクラム地方(Brag ram)でパン(dPang)訳経師ロドゥ・テンパ(1276−?)を師とし、サンスクリットやチベット語を学んだ。パン訳経師は当時よく知られた仏教学者にして翻訳家で、インドの仏教学者ブッダジュニャーナの『集量論注釈』や『時輪経義疏』を訳し、『三身明論』を著した。ロドゥペはここで翻訳の基礎知識を学び、のち訳師という称号を得た。パン訳経師に師事している間にドルポパの博学であることを聞き、チョナン寺に拝謁に行き、ドルポパの弟子となった。チョナン寺で彼はドルポパからタンギュル(大蔵経)の釈論を学び、チョナン派密教の教義を伝授された。

 元の至順四年(1333年)、彼はササン・マティ・パンチェン(Sa bzang ma ti pan chen)改訳の『時輪経』を師から頂戴した。至元五年(1339年)ドルポパが長期外遊に出ている間、かわりにチョナン寺の座主を務めた。至正十三年(1353年)、51歳で入寂。彼は仏典の解釈や暦算方面に秀で、著作も多くあったが、後世には伝わらなかった。

 

3)ササン・マティ・パンチェン(Sa bzang ma ti pan chen 1294-1376

 「ササン訳経師」、法名ロドゥ・ギャルツェン、漢訳して慧幢は、弥勒菩薩の化身といわれる。阿里(ンガリ)の出身で、4歳にして「弥勒の五法」を念誦することができたという。15歳で名を成し、25歳のときツァンのシャル寺で座主から比丘戒を受けた。同年シャル寺の夏の法会に参加したときドルポパの盛名を聞き、チョナン寺へ行った。ドルポパに拝謁し、心伝弟子となった。

 またパン訳経師ロドゥ・テンパとクンパン・チューダクペのもとで仏法や翻訳理論を学び、翻訳に長じると、ロドゥペと共同で『時輪経』を改訳した。

 元の至正年間、ダワ・ギェルツェン(月幢)はササン・ガデン寺(Sa bzang dga’ ldan dgon)を含む法産をすべてササン訳経師に奉じた。これによってこの寺を主要道場とし、弟子を育て、チョナン派の教法を広めた。それゆえ「ササンパ」と呼ばれるようになった。

 晩年にはチャムリン地方の首領であるドラパに要請され、チャムリン寺(Byams gling)に巨大な塔を建てた。それはチョナン吉祥塔と呼ばれた。

 著書には『声明論疏』『入行論釈』『取捨顕明論』『仏像尺度経』など。明・洪武九年(1376年)、83歳で入寂した。

 

4)ディグン訳経師マニカシュリ(’Bri gung Lo tsva ba Ma ni ka shri 1289-1363

 マニカシュリツェンとも呼ばれ、普賢菩薩の化身という。キェルプ(sKyer pu)の生まれ。早くからディグン派の僧となった。幼い頃より聡明で、3歳にしてサンスクリットを読誦することができた。15歳のとき経典の学習で名を成し、サンスクリットに通じ、翻訳に秀でていた。現在の墨竹工?(メトグンカル Mal gro gung dkar)県のディグンティル寺('Bri gung mthil dgon pa)の住持となり、寺の規則を整えた。

 元の至大二年(1309年)、ドルポパはラサ川流域のニェタンに布教のためにやってきたので、その機にマニカシュリは拝謁し、カーラチャクラ灌頂を受けた。チョナン派の各種法門を学び、ドルポパの主要弟子のひとりとなった。

 この後チョナン寺に8年住し、僧や衆生に『時輪根本タントラ』や各種釈論を教えた。仏学知識は計り知れないほどで、弁論の才でもよく知られた。伝説によれば彼は25名のゲシェ(博士)を討論で破ったという。のちカディンプンポ静房(mKha’ lding phung po’i ri khrod)に起居し、僧の指導にあたった。元の至正二十三年(1363年)この静房で逝去した。享年75歳。

 

5)シャントゥン・ギャウォ・ソナムダク(Zhang ston rgya bo bsod names grags 1280-1358

 シャントゥン・ソナムダクの漢訳は福称、密主金剛手の化身といわれる。キショ(sKyid shod)の生まれ。6歳で経典を学び始め、14歳のときすでに因明、般若、声明などに通じていた。のちラトゥ(La stod)やシャルなどをまわり、各種討論に参加した。そしてドルポパの名声を聞き、崇仰するようになり、ついにチョナン寺へ行ってドルポパを師として拝謁した。ラ系統(Rva)、ド系統(’Bro)のカーラチャクラ両系統を学び、主要弟子のひとりとなった。

 元の至正三年(1343年)、シャントゥン・ソナムダク64歳のとき、林周(ルンドゥプ Lhun grub)県のラアンパ(Lha dbang pa)がペーテン寺(dPal stengs dgon pa)を彼に献上した。これより彼はペーテン寺の座主となり、経堂、仏塔を建て、仏像を造り、経典を揃えた。この寺院を道場とし、チョナン派の教義を広めた。ここで弟子たちが経典を書写し、注釈を著した。座主を15年務め、至正十八年(1358年)逝去した。享年79歳。

 

6)タンポチェ・クンガブム(Thang po che kun dga’ ’bum 1331-1402

 あるいはタンチェン・クンガブム、漢訳は遍喜吉祥。リンチェン・サンポの化身といわれる。ラユルリントゥ地方(Ra yul gling stod)の生まれ。幼いときから自ら経典を学び、12歳にして般若、因明、対法、戒律など顕教に通じ、他者との弁論ではつねに勝ったという。のち『般若経』『中観論』『釈量論』『戒律本論』『倶舎論』など顕教五部大論および釈論に精通し、十難論師と呼ばれた。

 青年時代、ドルポパの『仏教総釈祈願経』を読み、心から崇拝し、チョナン寺に行き、ドルポパを師として拝謁した。そして灌頂授法と顕密教論を伝授され、有名なドルポパの弟子となった。

 明洪武十一年(1378年)からリンチェン・サンポの後継者として謝通門県(bZhad mthong smon)のタナク寺(rTa nag dgon pa)の座主となった。6年務め、その間に顕密教の経典を教授し、たくさんの弟子ができた。

 洪武二十年(1387年)、ヤルルン寺(Yar lung dgon pa)に招かれ、そのアジャリから寺の管理を任され、仏像を造り、塔を建て、寺院や経堂を建設した。また学院制度を確立した。こうしてチョナン派の教法を広め、明・建文四年(1402年)72歳で没した。著書に『金剛鬘尺度経』がある。

 

7)             メンチュ・カワ・ロドゥ・ギェルツェン(sMan chu kha ba bLo grogs rgyal mtshan 1339-1413

 略してメンチュ・ロドゥツェンは、漢訳して慧幢、文殊菩薩の化身といわれる。キショのトゥルン(sTod lung)生まれ。幼いときから自ら仏教を学び、13歳で基礎を固め、のち四部律典に精通し、弁をよくしたので、善弁王と呼ばれた。20歳頃チョナン寺に行き、ドルポパを師として拝謁し、カーラチャクラを学習した。

 元の至正二十一年(1361年)、ドルポパが入寂すると、ドルポパの弟子のクンパン・チューダクペ、訳経師ロドゥペ、法王チョクレ・ナムギェル(Phyogs las rnam rgyal)らに師事し、系統的にチョナン派の教法を学んだ。『時輪根本タントラ』およびその釈論や灌頂法門、教戒秘訣などにはみな精通した。

 明の洪武年間、甥のルンペ(Lhun dpal)がメンチュ・ロドゥツェンにタシメンチュ静房(bKra shis zman chu’i ri throd)を献上した。メンチュはこの静房を修繕し、読経と説法のための道場とした。彼は仏学に通暁し、何度も地方に呼ばれて講義し、ササン静房で『弥勒五法』を講じたこともあった。

 明の永楽十一年(1413年)、入寂した。享年76歳。著書に『喜金剛二品タントラ釈』など。

 

8)             チュージェ・リンチェン・ツルティム(Chos rje rin chen tshul khrims 1345-1416

 略してリンツルワ、漢訳して宝戒、無著菩薩の化身といわれる。チャズィン(Bya rdzing)地方の生まれ。8歳のとき仏学を学び始め、多くの僧に師事し、顕密広く学ぶ。青年期にラブジュンワ(Rab byung ba)の指導を受け、その後チョナン寺に行ってチョナン派の教義を学び、ドルポパの弟子となった。

 ドルポパ入寂後、クンパン・チューダクペ、訳経師ロドゥペ、ササン・マティ・パンチェンの三人を師として学び続けた。30歳をすぎた頃には、顕密に精通しているとしてチョナン派名僧といわれるようになった。

 明の建文四年(1402年)、現在の堆竜徳欽県(sTod lung bde chen)トゥルン・ナムギャル寺(sTod lung rnam rgyal)の座主ノルブ・サンポがこの寺を彼に献上した。この寺を拠点とするとともに、寺院建設に尽力をそそぎ、『時輪経』などのタントラ経典を講義し、チョナン派の教義を広めた。またラサに近いグンタン(Gung thang)へ行き、時輪金剛六支加行修法を教えた。

 伝説はまた明朝の中国にも布教をしたとされ、その前にはジョカン(大昭寺)で自身の塑像を造った。明の永楽十四年(1416年)没する。享年72歳。著書に『入二資糧道論』など。

 

9)             ガルンパ・ライギャルツェン(Gha rung pa Lha’i rgyal mtshan 1319-1401

 漢訳して天幢。古代インド成就者アーリア・デーヴァの化身といわれる。デタン(sDe thang)生まれ。幼児より経典を学び、20歳にして名を成す。とくに中観に精通していたので、中観師とよばれた。グンタンなどの寺院で討論をすれば負けることなかった。ここでドルポパの名声を聞き、法を求めて拝謁し、弟子となった。

ドルポパ入寂後、クンパン・チューダクペ、訳経師ロドゥペ、ササン・マティ・パンチェン、チュージェ・チョクレ・ナムギェル(Chos rje phyogs las rnam rgyal)らドルポパの高名な弟子からチョナン派の教義を学んだ。

 のちクンパンワから委託を受けてガルン寺(Gha rung dgon pa)の座主を務め、法を広めた。弟子もたくさんいた。このあとナムカゾ寺(Nam mkha’ mdzod kyi dgon)の座主チャンチュブ・サンポからその寺を譲られ、この寺を道場とした。明の建文三年(1401年)逝去。享年83歳。

 

10)      チュージェ・プンツォク(Chos rje phun tshogs 1304-1377

 漢訳して法王円祥。『撮行明灯論釈』を著したインド高僧シャキャ・シェニェン(Shakya bshes gnyen)の化身といわれる。ペンユル地方(’Phan yul)の生まれ。16歳より経典を学び始め、はじめはカルマ・カギュ派の僧となり、ランジュン・ドルジェやトクデン・タクパ・センゲ(rTogs ldan grags pa seng ge)らに師事した。

 のち『山法了義海論』を読んでドルポパに対して崇拝の念を強くし、元の至元年間にドルポパがニェタン地区に来たときに拝謁し、時輪灌頂を受けた。ドルポパより六支加行修法、『時輪根本タントラ』の教えを授かり、ドルポパの弟子となった。

 この後またプトゥン・リンチェンドゥプ(12901364)大師のもとで仏典を学んだ。名を成したあと、ラサ一帯、あるいはサンポ(gSang phu)一帯の寺で仏法を講じた。弟子たちから尊敬され、ペンユルにカラパ静房()を建てた。弁もたち、ラサでは右に出る者がいなかった。明の洪武十年(1377年)逝去。享年74歳。著書に『摧破金剛陀羅尼講釈』など。

 

11)      タントゥン・チュンワ・ロドゥペ(Thang ston chung ba blo gros dpal 1313-1391

 略してタントゥン・ロドゥペ、漢訳して慧祥、チョナン派開祖ユモ・ミキュ・ドルジェの化身といわれる。幼い頃ユモ・ミキュ・ドルジェが使っていた縄を認識できたという。中央チベットに生まれ、6歳のとき出家して経典を学んだ。故郷ではさまざまな優れた師のもとで修した。青年期にチョナン寺に行き、ドルポパを拝謁した。そのとき時輪灌頂を受け、六支加行法を学び、悟るところも多かった。またドルポパの弟子ら、すなわちクンパン・チューダクペ、訳経師ロドゥペ、ササン・マティ・パンチェン、チュージェ・チョクレ・ナムギェルに師事した。

 のち明の洪武年間に、トゥルン・ナムギェル寺の座主となった。洪武十四年(1391年)に逝去。享年79歳。

 

12)      チョレー・ナムギェル(Phyogs las rnam rgyal 1306-1386

 またチュージェ・チョレ・ナムギェルともいう。漢訳して広勝法王、短くチョクパ、地蔵菩薩の化身という。元の大徳年間に阿里(ンガリ)のヤツァ王(Ya tsha rgyal po)が供養したニンマ派ラマの私生児だという。幼いときより父や叔父らニンマ派ラマから密教や『中論』『入菩薩行論』などの顕教の経典を学んだ。長じると家を出て、チューコルリン(Chos ‘khor gling)、グンタン、サキャ、ダクラム(Brag ram)などを遊学し、多くの師から般若、因明などを学んだ。

 21歳になると各寺院の討論に挑み、若くして博学、聡明で弁が立つという評判を得た。ツェルパ(Tshal pa)万戸はチョレー・ナムギェルという名を贈った。それは広勝一切学者という意味であり、学者に対する最高のほめ言葉だった。

 チョレー・ナムギェルは名を成したあと、ツェル・グンタン(Tshal gung thang)やダクラムなどの寺院で講義をした。のちドルポパの他性空について考えるようになり、チョナン寺へ行った。そしてドルポパと討論すること七日、ついに折伏された。他性空こそ一切仏法の精髄であり、反論の余地はなく、ドルポパに対してはこのうえなく敬服し、根本ラマとして崇拝するようになった。そのときに時輪灌頂を受け、長い年月師事し、チョナン派の教法をすべて教えてもらった。

 彼は身を粉にするように修練に励み、『時輪根本タントラ』などの経典を読誦することに熟達し、密法を習得してきわめて高度な呪力を獲得したという。

 ほかに彼はプトゥン・リンチェンドゥプ大師のもとでも『般若経』『妙吉祥文殊名称経』などを学んだ。

 元の至正年間、ドルポパはンガムリン寺(Ngam ring dgon pa)を創建し、講経院もまた開き、チョレー・ナムギェルをチュペン(講経師)に任じた。ドルポパがチョモナンに戻ったあと、彼はンガムリン寺の座主となった。

 彼はそれから長い年月の間座主を勤めたが、つねに2千人の弟子を従えていた。ここで経典を講じ、法を教える以外に、彼は般若や因明に関する著作に従事した。著書には『般若経疏』などがある。

 元の至正十三年(1353年)、訳経師ロドゥペが入寂すると、ドルポパの推挙によって、チョレー・ナムギェルの弟子テンパ・ギャルツェンがンガムリン寺の座主となり、彼自身はチョナン寺の代理座主となった。6年間、ドルポパの仕事を助け、同時にンガムリン寺のチュペンを兼ねた。

 元の至正十九年(1359年)、職を辞して中央チベットへ向かい、セカルチュン地方(Se mkhar chung)でしばらく静居したあと、ヤルルン、ツェルパ、チャンチュブなどの寺院で僧や衆生に対し、時輪経の解説や時輪灌頂儀軌などを講じた。このほかツァンでは、シュプク講修院(Shug phug bshad sgrub grva tshang)を受け持った。

 元の至正二十一年(1361年)、ドルポパ入寂後、ふたたびチョナン寺の座主となる。チョナン派を管轄すること26年の長きにわたり、それゆえチョナン派の伝承人19代目と目される。その間何度も中央チベットへ行き、ツェル・グンタンなどでカーラチャクラを広めた。彼はまたドルポパの弟子らの先生でもあった。

 明の洪武十九年(1386年)、チョレー・ナムギェルはチョナン寺で入寂した。享年81歳。

 

 ここで付け加えておくと、チベット仏教史上じつは、チョレー・ナムギェルがふたりいる。もうひとりはボドン・チョレー・ナムギェル(13751451)である。チョナン派のチョレー・ナムギェルとは別人であるが、しばしば混同されてきた。ボドン・チョクレ・ナムギェルはチョナン派のナムギェルよりあとの生まれで、またの名をジグメ・タパ、あるいはチューギ・ギェルツェンといった。ツァン地方のボドン・エイ寺(Bo dong e’i dgon)の高僧であったためボドンパ、一般には尊敬をこめてボドン・パンチェンと呼ばれた。

 仏教史家トゥカン・チューキ・ニマは『善説水晶鏡』のなかで、ボトンはすべての顕密の諸明、詩学に精通し、仏学や文学の造詣に深く、また『摂真如論』など百部近い著作を書き、ペーモチューテン寺(dPal mo chos stengs dgon)を建て、独自の宗派、ボドン派を称したと述べている。

 ボドンの弟子チャンパ・ナムギェル・タクサン(Byang pa rnam rgyal grags bzang 1395-1475)は、明代、大司徒に封じられ、内明、声明、工巧明、暦算、医学などに精通し、とくに医学方面に功績があり、『八支集要・如意宝珠』120巻、『本論注・議義明灯』『釈論注・甘露河流』『後論釈難・万想如意』などを著した。

 

13)      ニャウンパ・クンガペ(Nya dbon pa kun dga’ dpal 1345-1439

 法名遍喜祥、文殊菩薩の化身といわれる。ヤルルン地区ニャンポ地方(Nyang po)出身。カムパ・ゲシェのニャ・ダルマ・リンチェン(Nya dar ma rin chen)の甥で、ニェウンと称される。幼い頃から聡明で学問好きだった。10歳を過ぎた頃、両足が感染症にかかったが、ドルポパの読経と加持によって全快し、ドルポパを師として仰ぐようになり、顕密の経論の教授を受けた。

 ドルポパの入滅後、長期間チョレー・ナムギェルに師事し、『時輪経』など顕密の法要を学んだ。学を成したあと、サキャ寺でも講義を行なった。

 明の洪武十九年(1386年)、チョレー・ナムギェルが世を去ると、チョナン寺の座主を引き継ぎ、チョナン派の20代目の伝承者と目された。

 ツェチェンチューデ寺(rTse chen chos sde)を創建し、経堂を建て、ドルポパの鍍金銅像を造った。また金字でもって『般若十万頌』『時輪根本タントラ釈』などを書写した。寺の僧侶の数は600人以上に達し、大いに栄えた。

 『青史』が「チャンパ・タイワンパ(Byang pa Ta’i dbang pa)」と尊称で呼ぶニャウンパは、ンガムリン寺を創建したともいう。おそらくドルポパによる創建を手助けしたということなのだろう。あるいは晩年、ンガムリン寺を復興したということかもしれない。

 王森の『チベット仏教発展史略』によれば、ニャウンパはラトゥジャン万戸の家族の出身で、タイワンとは大元に相当し、元朝が大元国師という封号を贈ったということである。このことからも、彼がいかに宗教的に高い位置にあったかがわかる。

 ニャウンパは長寿を全うし、明の正統四年(1439年)、95歳で入寂した。

 著書には『般若経大疏』など因明学などの論書がたくさんあった。弟子にはレンダワ・ションヌ・ロドゥ、ツェル・ミンパ・ソナム・サンポ、シャンパ・クンガ・リンチェン、ツォンカパ・ロサン・ダクパ、ツェチェン寺大修行者クンガ・ロドゥなど、そうそうたる高僧の名がつらなる。

 

14)ツェル・ミンパ・ソナム・サンポ(mTshal min pa bsod names bzang po 1341-1433

 古代インド大成就者バクリ(Bhakuli)尊者の化身といわれ、ターラナータ他の『ツァン誌』のなかではニャプパ(gNyags phu pa)と呼ばれる。ツァンのキェプ(sKyed phu)出身。

 5歳のときチョナン寺で出家し、ドルポパの近侍を勤めた。1361年にドルポパが十弱すると、チョレー・ナムギェル、ササン・マティ・パンチェン、ニャウンパに師事した。成年になってからラガン寺(Lha sgang dgon pa)で講経師を11年担当した。

 明の洪武年間にチューペ・サンポがツェル・チェン寺(mTshal chen dgon pa)を献上すると、彼はここでチョナン派の講修制度を確立した。晩年にいたるまで倦むことなく教義の布教につとめた。

 伝記によると、90歳の高齢になって『般若経疏』を著し、92歳のとき僧侶や公衆に『時輪根本タントラ無垢光大疏』を講じた。

 明の宣徳八年(1433年)、93歳で入寂した。弟子にはギャルワ・チョサンワ(rGyal ba jo bzang ba)がいる。