ラトゥジャン地方の衰退

 チョナン派はその誕生以降、つねにツァンのラトゥジャン地方の首領の支援を受けてきた。そのなかでもンガムリン(Ngam ring)の首領の支援は大きく、ンガムリン寺は14世紀よりチョナン派の主要な道場のひとつだった。

 15世紀はじめ、ラトゥジャン地方の勢力が衰退しはじめ、ツァンの貴族ナムカ・ギェルポの子リンプンパ・ノルブ・サンポ(Rin spungs pa Nor bu bzang pa)が武力でもって支配地を広げ、サキャ一帯を制圧した。

 明の宣徳十年(1435年)、リンプンパ・ノルブ・サンポはサムドゥプゼ(bSam grub rtse)、現在のシガツェを攻略した。リンプンパは宗教においては紅帽カルマ・カギュ派を支持していた。

 明の嘉靖四十四年(1565年)、リンプンパの家臣である貴族シンシャクパ・ツェテン・ドルジェ(Zhing shag pa Tshe brtan rdo rje)が地方官吏の力を結集してリンプンパ政権を転覆させた。それとともにチョナン派もシンシャクパ政権に服属することになったのである。

 明の万暦四十六年(1618年)、ツェテン・ドルジェの子プンツォク・ナムギェル(Phun tshog rnam rgyal)はついにチベット全体を統治していたパクドゥ(Phag gru)政権を打倒し、ツァンパ汗(gTsang pa rgyal po)政権を建立した。

 ツァンパ汗はカギュ派を支持し、ゲルク派とは対立した。サキャ派やチョナン派に対しては友好的だった。プンツォク・ナムギェルは父のやりかたを受け継ぎ、チョナン派を支持し、属民に荘園を分け与え、寺院建設を援助した。こうして一度はチョナン派が輝きを取り戻した。

 同時にチョナン派自身も改革を進めていた。経典の学習を重視し、教義・規則を整えたところ、信者の数は爆発的に増え、第二次隆盛期を迎えることになった。しかしこの復興にもっとも寄与したのはほかでもない、ターラナータだった。