ターラナータの登場

 チョナン派の僧が崇める偉大な先哲は、つぎの四人だ。

1 ユモ・ミキュ・ドルジェ‥‥チベットにおいてはじめて他性空を取り入れた。また修練の中心を時輪金剛六支加行とした。

2 クンパン・トゥクジェ・ツォンドゥプ‥‥チョナン寺を建立し、チョナン派を正式に発足した。

3 ドルポパ・シェラブ・ギェルツェン‥‥他性空の大成者。また優秀な弟子を多く輩出し、チョナン派の隆盛期を形成した。

4 ターラナータ‥‥チョナン派の中興期をもたらした。現在の青海・四川省に進出した。

 

 ターラナータ伝によると、ターラナータは古代インドの中観派の祖ナーガールジュナの弟子バルウェ・ツォウォ(’Bar ba’i gtso bo)の転生だという。バルウェ・ツォウォ自身大アジャリでパンディタだった。その系統にはバルウェ・ツォウォとターラナータを含め系4名の名が挙がる。

1 バルウェ・ツォウォ(インド)

2 ナクポ・チョパNag po spyod pa あるいはKanhapaKrsnacarya インド)

3 ラータン・バラRa tan bha la インド)

4 ロンソム・チューサンRong zom chos bzang ツァンのsNar lung rong出身)

5 バロム・ダルマ・ワンチュクBha rom dar ma dbang phyug ペンユル出身)

6 アワドゥディ・ウーセルペA wa dhu di ‘od zer dpal チベット)

7 シャントン・ドゥクダ・ギェルツェンZhang ston ‘brug sgra rgyal mtshan チベット)

8 ニョラナンパ・サンギェル・レチェンgNyos lha nang pa Sangs rgyal ras chen チベット)

9 サンガバドラSa gha bha dra インド)

10 ジャムヤン・チュージェ’Jam dbyangs chos rje チベット)

11 チューキ・ニンチェChos kyi nyin byed チベット)

12 クンガ・ドゥチョクKun dga’ grol mchog 1507-1566 チベット)

13 ガチェ・サキョンdGa’ byed sa skyong インド)

14 ターラナータTa ra na tha 1575-1635 チベット)

 

 以上の人物は仏教史上の高僧などが含まれる。たとえばナクポ・チョパ(カーンハパ、あるいはクリシュナーチャーリヤとも)は古代インドの84の大成就者のひとりである。バロム・ダルマ・ワンチュクはタボ・ラジェの弟子で、タボ・カギュ派の創始者だった。ジャムヤン・チュージェはツォンカパの弟子タシ・ペータン(13691449)ではないかと考えられる。彼は1416年にゲルク派のデプン寺を建立し、文殊法王と呼ばれた。

 クンガ・ドゥチョクはチョナン派第二十六代の伝承人だった。後世になって転生であることを追認するのは、転生活仏制度が確立されてから確立された手法である。敬虔な仏教徒はその真実性を疑うことはなかった。しかし現代においては科学的に証明するのは困難だろう。転生であるとする場合、年代を一致させる必要があった。

 たとえばクンガ・ドゥチョクとターラナータの間に十年があいていた。ターラナータの本生伝によれば、クンガ・ドゥチョクの転生はインド・カーヤのガチェ・サキョンだった。その父バラドリはマガダ、マトゥラ、プラヤカの三城の王であり、家族はバラモン教を信仰した。ガチェ・サキョンの最初の名はラマゴーパーラ(Ra ma go pa la)で、空行瑜珈母の加持を受けた。また多くの聖跡を残した。しかしクンガ・ドゥチョクとターラナータの間の十年は短すぎたので、「ガチェ・サキョンは享年8歳だったが、百年の事業を完成させた」と記さざるをえなかった。

 

 ターラナータ(15751635)はウー地方とツァン地方境界のジョモカラ(Jo mo Kha rag)のダン('Brang)に生まれた。そこはラ訳経師の郷里であり、十二テンマ女神のひとり、ドルジェ・ユドンマ(rDo rje g-yu sgron ma)が住むとされる場所だった。現在、チューコルテン(Chos ‘khor sten)と呼ばれる。

 祖父ツルティム・ギャツォはニンマ派の呪術師(sNgags ‘chang)だった。父はナムギェル・プンツォ(rNam rgyal phun tshogs)、母はドルジェ・ウガ・ラモ(rDo rje bu dga’ lha mo)。生後まもなく祖父によって、ペマ・シジュ・ドルジェ(Pad ma sri gcod rdo rje)すなわち蓮の埃を掃う金剛と命名された。

 4歳のとき、チョナン寺座主ケンチェン・ルンリク・ギャツォによって前任の座主クンガ・ドゥチョクの二度目の転生と認定され、寺院に迎え入れられた。

 8歳のとき出家の儀式がおこなわれ、クンガ・ニンポ・タシ・ギェルツェン、すなわち遍喜蔵祥幢という名がつけられた。

これよりチャムパ・ルンドゥプ、ジャムヤン・クンガ・ギェルツェン、チョナン・ジェドゥン・クンガ・ペーサン、ケンチェン・ルンリク・ギャツォらを師として学び、チョナン派の他性空および時輪灌頂、タントラ釈、六支加行修法だけでなく、サキャ派の道果(ラムデ)およびクンガ・ニンポ、ソナム・ツェモ、ダパ・ギェルツェンの白衣三祖の全集、カギュ派のニグ六法、大手印法(マハー・ムドラー)、レチュンワの密法、カダム派のカダム書、シャンパ・カギュやシャル派の法要などを学び、研究した。

 上述の師になかでもジャムヤン・クンガ・ギェルツェン(ダロンパ・クンガ・タシ・ギェルツェンとも)はターラナータの根本グルであり、20歳のときにターラナータに比丘戒を授けたのもこの師だった。

 21歳のとき、夢の中で啓示を受け、自らをターラナータと命名した。サンスクリットで解脱守護者という意味である。こののち彼はターラナータを通名として用いた。一方後代のチョナン派の僧はジェツン(rJe btsun)という尊称で呼ぶ。聖主、あるいは尊者といった意味である。

 明の万暦二十三年(1595)、ターラナータはチョナン寺の座主となり、就任するとただちに寺院の拡張に取り組み、仏像などを置き、寺の規則を整えた。

 明の万暦三十三年(1605)、彼はチョナン寺に金でメッキした弥勒銅像を造った。またチョナン寺のラブランを建てた。また属寺であるタクトゥ禅修堂を建て、その他の属寺も改修した。

 同時にツァン地方の各チョナン派寺院で、月ごとにドルポパに、年ごとにクンパン・トゥクジェ・ツォンドゥ、チャンセム・ギャルワ・イェシェ、ケツン・ユンテン・ギャツォの三師を供養することを決めた。

 この時期、ツァン地方のツァンパ汗政権のプンツォク・ナムギェルはチョナン寺に多くの荘園や属民を分配し、寺院はおおいに発展することとなり、チョナン派は空前の復活を遂げた。

 明の万暦四十三年(1615)、ツァンパ汗政権の支持のもと、ターラナータはチョナン寺近くにタクテン・タムチューリン寺(rTag brtan dam chos gling)を建立した。吉祥永固聖法洲了義楽園という意味である。

 『ターラナータ自伝』によると、寺院建立に際し、ツァンパ汗が金、銅、顔料などを提供し、ネパールから来た20数名の工匠によって三世仏、賢劫七仏などの鍍金銅像が造られたという。さらには180人の組織を作り、これもツァンパ汗の資金によって金字のカンギュル、タンギュルが書写された。

 『チョナン教法史』によると、殿堂は20座、僧房100余間におよび、寺の周囲には壁がめぐらされ、如来八塔が立ち、七仏、無量寿(アミタユス)、ターラー、布禄金剛、勝楽金剛などの大型鍍金銅像が造られた。無量光仏(アミタバ)は一階半の、弥勒仏は二階の高さがあった。また寺内に40数部の経典が置かれた。

 以上の資料から見ても、タクテン・タムチューリン寺の規模は相当大きかったと推察できる。寺が建立されると、僧の数は一挙に2500人も増えた。もはやチョナン派の主寺といっても過言ではなかった。

 多くのチベット語の資料は、ターラナータは木の陰の猪の年に享年61で入寂したとする。明の崇禎八年(1635)である。これに対しいくつかの反論がある。王森氏は『チベット仏教発展史略』のなかで1634年、妙舟は『モンゴル・チベット仏教史』のなかで1633年を主張するが、たんなる計算ミスかもしれないし、何か根拠があるのかもしれない。

 ターラナータが41歳のときタクテン・タムチューリン寺を建立し、その20年後に没したことはだれも異存がないが、彼がモンゴルに行ったかどうか、モンゴルで没したかどうかに関しては共通認識と呼べるものはない。

 王森氏は長年の研究によって、タクテン・タムチューリン寺完成後まもなく、モンゴル北部のモンゴル汗王から使者がやってきて、モンゴルでの布教を要請したことがわかったという。当時ツァンパ汗は勢力を拡大しつつあり、モンゴルとの政治的関係を探っていた。宗教を利用して勢力をさらに拡大しようと彼は考え、ターラナータにその役目をお願いしたのだった。

ターラナータがモンゴルに向かう前、ダライラマ4世は彼にマイタリー(弥勒を意味するサンスクリットのモンゴル語なまり)という称号を与えた。それによってモンゴル人は彼のことをマイタリー活仏と呼ぶようになったのである。

 ターラナータはモンゴルのクルンに20年近く滞在し、モンゴル汗王と群集からの信頼を得て、ジェツン・ダムパ(rJe btsun damu pa)と呼ばれた。これは仏法に精通し、戒律を厳守する大ラマに対して用いられた尊称である。ターラナータは少なからぬ寺院をクルンに建立し、ここで没した。

 一方妙舟の『モンゴル・チベット仏教史』の記述も似たようなものである。ターラナータはチベットの仏教界上層部のさしがねでモンゴル・ハルハ部へ行った。そしてモンゴルのクルンで明の崇禎六年(1633)入寂した。享年60歳。