ダライラマ5世によるチョナン派の弾圧

 『チベット仏教発展史略』によるとターラナータがモンゴルで入寂後、トゥシェトゥ汗は一子を得た。モンゴル汗王はこの子をターラナータの転生と認め、ジェツン・ダムパ・ロサン・タンベ・ギェルツェン1世(16351723)と名づけた。

 清の順治六年(1649)、ジェツン・ダムパ1世はタール寺(クンブム)、シャチュン寺を経て、チベットへ学びに行った。学業を終えモンゴルに帰るとき、ダライラマ5世はその地位を保証するかわりにゲルク派に改宗するように迫った。これ以前にダライラマ5世はタクテン・タムチューリン寺をガタン・プンツォリン寺という名に変えさせていた。ウー地方のチョナン派の属寺はすべてゲルク派に改宗していたのだ。

 このような状況をみて、ジェツン・ダムパ1世はダライラマ5世の示した条件をのみ、モンゴルのチョナン派寺院はみなゲルク派に宗旨替えをした。ツェテン・シャブドゥン・ンガワン・ヤンタン・ルペは『シャチュン寺志』のなかで、『ザヤ・パンディタ聞法録』や『モンゴル仏教史』を根拠に歴代のジェツン・ダムパ伝を記す際、同様のことを述べている。またジェツン・ダムパ1世がパンチェンラマ4世ロサン・チューキ・ギェルツェンによってターラナータの転生であることが認定されたとも述べている。