ターラナータはモンゴルへ行ったのか

 ターラナータがモンゴルへ行ったということを認めない学者も少なくない。近年も木雅公保(ミニャク・コンポ)氏は『ターラナータ自伝』を根拠に、その視点から『チョナン派ターラナータ伝略』という一文をしたためた。

 それによるとターラナータは17歳で比丘戒を受け、17歳から30歳までの13年間に二度ラサを訪れ、31歳より(1605年)チョナン寺で講じ、38歳のとき寺院建設に尽力しながら伝法につとめた。39歳のとき父が亡くなり、翌年ラサを巡礼で訪れ、親戚回りをしながら家路についた。41歳のとき(1615年)タクテン・タムチューリン寺を建立し、その住持として常駐した。48歳のとき母を寺院に迎え入れた。52歳のときその母が逝去。ターラナータは亡魂のための儀礼を行い、観世音と瑜珈母の銅像を造った。

 このあとチョナン派とサキャ派の間に紛争が起き、ツァン地方のチョナン派の寺は多大な被害を受けたが、ターラナータはツァンパ汗の支援のもと、ある程度回復することができた。しかし61歳のとき(1635年)、ターラナータ、入寂。

 この時期、たくさんの高僧や首領がモンゴルから法を求めてチベットにやってきた。ターラナータは彼らに戒を授けたので、モンゴル出身の弟子を数多くかかえることとなった。 彼はまたインドの学者と交流があり、サンスクリット経典をチベット語に訳した。

 『チョナン派教法史』もターラナータはモンゴルに行かなかったという立場をとっている。それによると、ターラナータは41歳のときタクテン・タムチューリン寺を建立し、そこに住んだ。43歳のとき(1617年)現在の四川省ザムタン県にあるチュージェ寺のチュージェ三世活仏を認定した。54歳のときイェシェ・ギャツォに『勝楽タントラ釈』を講じた。59歳(1633年)の二月二十四日、チャンゾ・クンガペが逝去し、その魂を送る儀礼をタクテン・タムチューリン寺で行なっている。このようにすべてのことがチベットのなかで起こっているのだ。

 ターラナータはチベット仏教史上もっとも知られた学者のひとりである。彼は顕密の教法に通じ、自身著作をあらわした。その著作は清の康煕三十三年(1694)、トドゥ・テンパの編集によってガンデン・プンツォリン寺(旧タクテン・タムチューリン寺)から木刻で出版された。その版は長さ42センチ、幅7センチで、一面あたり7行、あるいは6行だった。現在北京民族文化宮や甘粛ラブラン寺の所蔵である。

 『ターラナータ全集』出版後、シャル・リドゥ活仏は『ターラナータ全集目録名鑑』を編纂した。それは合計で17函、272論文、7850ページにも及ぶ。ただし北京民族文化宮とラブランの編目数は人により異なっている。すなわち、北京本では17函、272種、7850ページ、甘粛本では17函、278種、7958ページ、甘粛では17函、271種、7842ページとなっている。またザムタン・ザンワ寺本では、22部、381種、12378ページ。これらの多くは散逸しているが、それでも最長である。

 タール寺の『ターラナータ全集』はチューシガルワの蔵書で、貴重なモンゴル・クルンの木刻版である。このほか北京民族文化宮チベット文図書館にはゴンタン寺の『ターラナータ集』13函、220種、6002ページが所蔵されている。

 『ターラナータ全集』は内容が豊富で、『他性空中観精要』『他性空中観荘厳論』には他性空中観の論が説かれる。それには時輪、勝楽、密集、喜金剛、大威徳などの次第修習、密乗釈論、密法儀軌などの論述が含まれる。さらには仏教史、高僧伝、および祈願や礼賛などに関する文も含まれる。

 そのなかで『インド仏教史』と『ターラー伝』の木刻版は現在もデルゲ印経院が所蔵している。『インド仏教史』はチベットに入ってきた学者の口述をもとに編纂したもので、インド史と仏教史の名著とされる。

 このほか1983年には西蔵人民出版社からターラナータの『ツァン志』が出版された。それはツァンの地理、物産、宗教、寺院などについて記したものである。