チョナン派

抹殺されかけたチベットの人気宗派

 

絶頂期、そして衰退

 

3 中興期

 ドルポパとその弟子らの絶頂期を過ぎ、15世紀前半の宣徳、正統年間に入ると、有力な地方勢力の支持が減り、宗派内に影響力のある人物が少なくなり、しかも他派からの非難があり、チョナン派はその勢いを失っていった。

 しかし16世紀末、ターラナータの登場でもって、いっきに息を吹き返した。この百年余りの時期、チョナン寺の座主は7名を数えた。

 

1 トゥブチェン・クンガ・ロドゥ(Grub chen Kun dga’ blo gros

略してトゥプチェン・クンロと呼ばれる。漢訳は大成就者遍喜慧。『チョナン教法史』によると、シャルカワ(Shar kha ba)の王族の出身で、プトゥン大師の転生だという。プトゥン・リンチェンドゥプ(12901364)の入寂は元代の至正二十四年なので、トゥプチェン・クンロが生まれたのは元末か明のはじめということになる。彼はニャウンパ・クンガペの弟子で、チョナン派のカーラチャクラの教法と修行法を学んだ。一度集中的に学べばよくそれを身につけ、成就に至ったので、トゥブチェンと称された。明の宣徳か正統年間にニャウンパの法座を継いだことから、第二十一代継承人と目される。

 

2 ジャムヤン・コンチョク・サンポ('Jam dbyangs dkon mchog bzang po

 略してジャムヤン・コンサン。漢訳は文殊宝賢。ラトゥジャン(La stod byang)出身。サキャ寺で出家し、座主のジャムヤン・リンチェン・ギェルワ('Jam dbyangs rin chen rgyal ba 文殊宝仏)に師事し、サキャ派法門を学んだ。のちチョナン派に改宗し、トゥブチェン・クンガ・ロドゥを師として時輪金剛法の教えを受け、修学に励み、成就をとげた。デルゲのカギュ派高僧シトゥ・クンサン・ラプテンパ(Si tu Kun bzang rab brtan ‘phags)が彼を師として崇めたほどだった。

 ツァン地方にニントゥ新寺(Nying stod dgon gsar)を創建したあとその寺の講経を担当するチュベンとなり、またチョナン教法経院を創建した。のち東西のゼチェン寺(rTse chen chos sde)とチョナン寺の座主を兼任し、第二十二代伝承人となった。

 ジャムヤン・コンサンは明の洪武年間の頃の人で、ゲルク派のケドゥプジェ・ゲレク・ペーサン(mKhas grub rje dGe legs dpal bzang)と同時代人である。

 『チョナン派教法史』によれば、ケドゥプジェ子弟はジャムヤン・コンサンに呪詛を送ったという。ケドゥプジェはツォンカパの二大弟子のひとりで、明の宣徳五年(1431)にガンデン寺の第三代ティパを継いでいるので、当時のゲルク派のトップに位置していた。明の宣徳年間の頃、チョナン派とゲルク派の見解が大きく隔たり、衝突が起きるようになったと考えられる。

 

3 ナムカ・チューキョン(Nam mkha’ chos skyong

 漢訳して虚空護法。ジャムヤン・コンサンの弟子。『時輪経』と六支加行修法に通じ、ジャムヤン・コンサンに替わって長期チョナン寺の座主を務め、ゼチェン寺の座主も兼任した。ンガムリン寺などで何度も講義をし、チョナン寺のクンペン・ドントゥブ・チェンモ大塔の塔頂の法輪を金で鍍金するなどして修理した。チョナン派の発展に寄与し、第二十三代伝承人と認定される。

 

4 ナムカ・ペーサン(Nam mkha’ dpal bzang

 漢訳して虚空詳賢。もとはサキャ派の僧侶。ムイパ・ラブジャムパ・トゥジェ・ペーサン(Mus pa rab ‘buams pa Thugs rje dpal bzang 慈悲詳賢)とサキャ・ダルの弟子シャントン(Shangs ston)等に師事し、ギャデ寺(brGya sde dgon pa)の寺主を務め、何年も講経院を担った。のちチョナン派の時輪金剛六支加行を修め、果証を得た。デプン寺(’Bras spungs dgon pa)を建立し、チョナン寺の座主を継いだので、第二十四代伝承人と認定される。

 

5 大訳経師ラトナバドラ(Lo chen Ratna bhadra

 チベット語訳リンチェン・サンポ、漢訳宝賢。遊牧民の家庭に生まれ、はじめニンマ派を信仰し、オギェン・ゾクパ(O rgyan rdzogs pa)に師事し、新旧の密教に通じた。その後チョナン寺でナムカ・ペーサンに師事し、チョナン派の時輪教法真伝を学び、修する。ドフ地方(mDog)にマンデン寺(sMan sden dgon)、シェリウォ山(gShad ri bo)にドゥジン寺(Gru ‘dzin dgon pa)を建立し、のちチョナン寺座主となる。第二十五代の伝承人とされる。

 著書に『大慈悲観音面授法』『六支加行法導引講義』など。弟子にクンガ・ドゥチョクらがいる。

 

6 クンガ・ドゥチョク(Kun dga’ grol mchog 1507-1566

 漢訳は遍喜聖解脱。阿里下部ロウォメンタン(gLo bo sman thang)出身。家族はニャク氏(gNyags)で、吐蕃期の父臣六族のひとつ。父ツェワン・サンポは現地の首領だった。幼名はドゥマベン。

4歳のときサキャ派のドゥンワ・チューギェルによって受戒した。7歳のときおなじくドゥンワ・チューギェルによって紅閻魔五神灌頂を授かった。そのときにシェダン・ナムダク・ドルジェ(Zhe sdang rnam dag rdo rje)の密号を賜った。除憤怒金剛という意味である。これにより四貪着を離れ、仏学に専心し、10歳のときにはすでに因明、歴算、仏教の基礎知識を身につけ、沙弥戒を受けると、クンガ・ドゥチョクの名をもらった。

 13歳のとき故郷を離れ、サキャ、タクゾン(Brag rdzong)、セルドクジェン(gSer mdog can)などを遍歴した。合計すると40人以上の師に師事し、一般的な顕密経典だけでなく、ニグ(Nai gu)の十二法要などを学んだ。ドゥンワ・チューギェルやオルギェンから比丘戒を授かった。

 のちチョナン派に改宗し、大訳経師ラトナバドラに師事し、ナムカ・ペーサンが伝えた時輪金剛法を学び、会得したあと、ウー地方から阿里地方までの地域で布教した。またダライラマ二世ゲンドゥン・ギャツォに二度面会し、仏法を高めた。

 伝記によると、彼はチョナン派、サキャ派、シャンパ・カギュ派、ニンマ派の灌頂法や修法秘訣およそ108種に通暁していた。パンチェンラマ3世ウェンサ・ロサン・ドントゥブ(dBen sa blo bzang don grub)やリンプン法王(Rin spungs chos rgyal)、ヤンドク万戸テンズィン(Yar ‘grog khri dpon bstan ‘dzin)らチベットの著名な僧俗の人々が彼を師として仏法を学んだほどだった。

 彼は生涯セルドクジェン、ペーコルデチェン(dPal ‘khor bde chen)、ンガムリン、ゼチェンなどの寺院を主事し、教法を講じ、チョナン寺の座主も務めた。晩年にはチュールン・チャンゼ禅院(Chos lung byang rtse sgrub sde)を創建し、僧侶の修禅を指導した。彼はチョナン派の傑出した僧とみなされ、第二十六代の伝承人である。

 弟子も、ドリン・クンガ・ギェルツェン(rDo ring kun dga’ rgyal mtshan)やチューク・ラワン・ダクパ(Chos sku Lha dbang grags pa)、ケワン・チャムパ・ルンドゥプ(mKhas dbang Byams pa lhun grub)、ケンチェン・ルンリク・ギャツォ(mKhan chen Lung rigs rgyal mtsho)、ジェドゥン・クンガ・ペーサン(rJe drung Kun dga’ dpal bzang)などきわめて多かった。

 

7 ケンチェン・ルンリク・ギャツォ(mKhan chen Lung rigs rgyal mtsho

 漢訳は教理海。ニントゥ地方(Nyi stod)の首領ザンカンワ(gZang khang ba)家に生まれた。はじめセルドクジェン寺に学び、のちクンガ・ドゥチョクから時輪灌頂を受け、顕密の経典と修行秘訣を教授された。ギェルツェ寺(rGyal rtse dgon pa)の寺主やチョナン寺の座主を務めた。第二十七代継承人とされる。